隣人
大手不動産会社の分譲地を購入し、家を新築したのは七年前のこと。初めはぽつぽつとしか建っていなかった住宅も年々増えていった。だが、我が家の隣地はずっと売れ残っているのか、家が建つ気配がない。
「家が建たないと風通しは良いけど、草が茫々になって、嫌ね」
手入れされない隣地は、夏草が腰の高さ位まで茂っていた。
私は覗いていた窓から離れ、居間でテレビを見る夫に顔を向ける。夫は作家で、自宅で仕事をしている。無口で、話し掛けても大抵「ん」としか言わない。
二十代の新婚の内はそれも良かったが、段々、四六時中、顔を突き合わせているのが苦痛になり、結婚三年目から、私は外にフルタイムで働きに出ている。子供は居ない。
私は四十五歳、夫は四十八歳、結婚十四年だ。
数日後、隣地で地鎮祭が行われ、あれよ、あれよという間に、二階建ての住宅が建った。
「お隣、家が建ったわ。どんな人が住むのかしら。変な人じゃないと良いのだけれど」
「ん」
夫は相変わらず無口だ。
しばらくすると、隣家に母親と、来春小学校に上がるという男の子が引っ越して来た。男の子がどことなく夫に似ていると思うのは、夫の子を産まなかった私の負い目だろうか。
「鈴木と申します。夫は家庭の事情で別居しております。よろしくお願いします」
引っ越しの挨拶に来た時、三十代位の女性は、男の子と一緒にぺこりと頭を下げた。
私は「大変ですね。何か困った事があったら言ってくださいね」などと愛想笑いをした。困ったときはお互い様よね。
「変な人じゃなくて良かったわ」
「ん」
翌日から、家の物が少しずつ減っていった。帰宅した私は、体重計が無い事に気が付いた。
「ねぇ、あなた、体重計知らない?」
夫は、ぼそりと「断捨離」と言って目を伏せる。
「断捨離? 私、使っていたのよ?」
日を追うごとに、小物が少しずつ減って行く。コーヒーメーカー、フードプロセッサー、未使用のティーカップ&ソーサーのペア。
訊ねるたびに、夫は「断捨離」と繰りかえす。
どうやら、私が仕事に行っている間に、物を勝手に処分しているらしい。捨てているのか、売っているのか。何か急にお金が必要になったのだろうか。夫とは家計も別で、会話も無いから、どういう状況なのか分からない。
一ヶ月ほど経ったある日、夕方帰宅すると、家財がごっそり無くなっていた。テレビ、パソコン。コンソールテーブル、アンティークなチェスト。ソファセット、夫のライティングデスクと総革張りのオフィスチェア。リビングの壁に飾ってあったルノワールも。
私は声を失い、次に叫んだ。
「ねぇ、あなた! あなたってば!」
ミニマリストの生活もシンプルで良いけど、 さすがに、これは嫌だ。
名を呼びながら、家中探したが夫はいなかった。出掛けたのだろうか。
夫のSNSにメッセージを送る。
『今、何処にいるの?』
『断捨離し過ぎよ!』
散々文句を送信したのに、夫から返信は来ない。待っていれば、その内、帰宅するだろう。そうしたら、面と向かって言ってやると、気持ちを切り替え、夕飯の支度に取り掛かった。
幸い冷蔵庫と電子レンジや調理器具は残っていた。家の中がこんな状態で、いったい、どういうつもりなのだろう。出不精の夫がこんなに長く外出する用事とは何だろうか。イライラしながらカレーを作っていると、細く開けた窓からカレーの匂いが漂ってきた。隣家もカレーらしい。
夫がカレー好きでスパイスからブレンドするので、我が家のカレーは独特な香りがする。
「このカレー……」
私は隣家に面した窓に寄り、鼻をひくつかせた。間違いない。これは、我が家のカレーの香りだ。どういうことなのだろうと思っていると、カーテンが開けられた隣家の窓に夫の姿が。しかも、あのルノワールが、室内のアンティークなチェストの上に飾ってあるのが見えた。
「ええっ!」
何故、夫は隣家に居るのだろう? あのチェストやルノワールは? 困惑していると、スマホの着信音がした。夫からの返信だった。
『断捨離』と一言書いてある。
「断捨離って、どういうことよ」
口に出して理解した。どうやら、断捨離されたのは、私とこの家らしい。
後から私のベッドの上に、夫が記名した離婚届が置いてあるのを見付けた。七年前の日付だった。
隣地がずっと空き地だったのは、七年前から夫がキープしていたから。隣の男の子がどことなく夫に似ていた理由は。隣家が建ってから、我が家の物が減っていった理由は。
頭の中でパズルのピースが嵌まっていく。
そして、隣家の女性の挨拶の言葉。
「夫は家庭の事情で別居しております」って。
私達夫婦は、とうに破綻していたのだ。
***
「家が建たないと風通しは良いけど、草が茫々になって、嫌だね」
手入れしない隣地は、夏に茂った草が枯れて腰の高さ位までになっていた。僕は覗いていた窓から離れ、居間で息子とテレビを見る妻を振り返る。夕方の子供番組が始まったようだ。
断捨離の一週間後、元妻は亡くなった。
心筋梗塞だった。その時はまだ、配偶者だった僕が葬儀を執り行い、他に相続人が居ないので、元妻名義の土地と家屋を相続した。だが、家は何故か、借り手も買い手も付かなかった。不動産屋が「更地にしたらどうか」というので解体し、更地にして売りに出してある。
「隣の土地、早く売れないかなぁ」
「早く売れて欲しいけど、お隣に住むのは変な人じゃないと良いわね。そろそろ、お夕飯にしましょうか」
妻がオープンキッチンに立つと、玄関のインターホンが鳴った。
「あなた、ちょっと見てくれる?」
僕は、インターホンのモニターを確認したが誰もいない。子供の悪戯だろうか。
「誰もいないよ」
僕は妻に顔を向ける。
再び、インターホンが激しく鳴ったので、僕は叱ってやろうと、玄関ドアを勢いよく開けた。
が、誰もいなかった。ドアから首を出して左右を確認するも、暗くなり始めた道路には木枯らしが吹くばかりで、見渡す限り人っ子一人いない。
「いったい何なんだ」
僕は、誰に聞かせるともなく、独りごちるとドアを閉めようとした。
ガッ!
ドアが閉まらない。
何か挟んでしまったのだろうかと、視線を落とすと、ドアと土間の隙間に何か白い物が見えた。
(何だ?)
腰を屈めてよくよく見ると、それは人間の左手の形をしており、ドアの下端をガッシリと掴んでいた。その薬指には見覚えのある結婚指輪が。
「……!」
声が喉に貼り付き、足がガクガク震えた。
『……お隣の……者ですが、……ご挨拶に……伺いました……』
ドアの隙間から、恨みがましい声がする。
「……わぁ、あああああああ!」
恐怖が背中を這いあがり、尻餅を突いた。居間に戻ろうとするも、腰が抜けて動けない。
白い手は、にゅうっと伸びると、僕の足首を掴んだ。
『……断捨離』
元妻を断捨離したのは、一年前の今日だった。