喪失
霧雨が静かに地を濡らす朝、街は灰色の帳に包まれていた。鈍色の空から降る水滴は冷たく、屋根に打ちつける音だけが、不安と沈黙のあいだを埋めるように響いていた。
リーネと吉川は、今日もまた、街の隅にある小屋から出発した。
吉川の身体は日々若返っている。顔の皺はさらに薄れ、髪の白も減り、歩みはより軽やかになっていた。杖を手放す時間も少しずつ増えてきた。街の誰もが、その変化に気づいていた。
だが、それは恐怖の種でもあった。
「……あれ、見たか?」「昨日よりも若くなってる」「魔族にでも取り憑かれてんじゃないのか……?」
冷ややかな視線。囁かれる声。いつの間にか、リーネも“その男”と同類として扱われるようになっていた。
ギルドでは依頼の数が激減していた。掲示板の紙は誰かの手で剥がされ、二人の目の前に残されるのは、他の誰も手を付けぬ廃村の清掃や、報酬が雀の涙ほどの下働きだけ。
「……俺が一緒だから、か」
吉川は誰にも聞かれぬように呟いた。その日、帰路に着く道すがら、風が強く吹いた。リーネの黒衣がはためき、露出した左手の指輪が、陽の反射で淡く光を放った。
その光景が、彼の胸を刺した。
(――このままでは、彼女をまた……)
あの時と同じだ。失われる予感がする。想えば想うほど、側にいることが呪いのように感じられた。
――
夜更け、リーネが眠ったのを見計らい、吉川はそっと家を出た。
小屋の扉を閉める音も立てず、彼は森の方へと歩いていく。わずかに残る関節の鈍さを抱えながら、いつしか足は馴染んだ山道を辿っていた。
風は冷たく、頬を撫でては去っていく。だが彼の顔には、決意が刻まれていた。
「俺がいなければ、彼女はもっと上手くやれる……きっと」
そう信じたかった。ただ、自分が彼女の足枷になっているのだと信じ込むことで、いま彼がしようとしている選択に意味を持たせようとしていた。
夜の森は、どこか懐かしく、それでいて残酷なほど静かだった。
――
その朝、リーネは気づく。
いつもなら炉のそばで、じっと薪の音を聞いているはずの彼の姿が無い。食卓には、昨日の残飯がそのまま置かれていた。毛布は乱れておらず、ただ、白い指輪の光だけが、わずかに弱くなっていた。
何度呼びかけても返事はなかった。
外に出る。冷たい風が頬を打つ。だが、どこにもその姿は見えなかった。
そして、玄関先の土の上には、誰かがゆっくりと歩いた痕跡があった。深くはないが、確かに足跡がある。だが、それは街ではなく、森の奥へと続いていた。
リーネはその場に崩れ落ちる。何も言わず、ただ瞳を見開いたまま、動かない。
彼女にとって、吉川は“日常”そのものだった。たとえ周囲からどれだけ疎まれ、どれだけ仕事を失い、どれだけ貧しくとも――その人が隣にいるということだけで、全てが許せた。
だが、いま、吉川はいない。
リーネはただ、空を見上げた。雲間から射し込む光が、街の中心へと差し込んでいた。
その瞬間――
地鳴りが響いた。
まるで大地が怒りを孕んで呻くような、不快な低音。それは突如として街全体に広がり、石畳を揺らし、建物の軋みを伴って広がっていく。
街の門が、粉塵を伴って崩れ落ちた。
その中心に立っていたのは――黒く濁った泥の塊。
魔法の残滓が凝縮された異形、グリードと呼ばれるものであった。
その体は流動する泥のようで、赤く点滅する核を内部に抱え、街へと歩を進めてくる。瘴気を撒き散らしながら、家々を押し潰して進むその姿は、まさに破壊の具現であった。
叫び声があがった。
「魔物だ!」「門が破られたぞ!」「助けてくれ!」
リーネは茫然と立ち尽くしていた。自分のすぐ傍を、人々が泣き叫びながら走り抜けていく。母が子を抱え、老人が転げながら石段を降り、兵士が剣を抜いて立ち向かうが、斬撃はぬかるみに吸われていった。
そして――誰かが叫んだ。
「リーネだ……!」「あいつだ、あの女が悪魔を呼んだ!」
「そうだ! あの女のせいで街が……!」
「黒い衣の魔女め!」
突如として、怒号がリーネへと向かう。誰かが石を投げた。誰かが叫んだ。
「異形と通じた女だ!」「あの若返る男も、人間じゃない!」
リーネは何も言わなかった。声が出なかった。指先が震え、足が動かない。
まるで、あの時と同じだった。父を失ったとき、誰もが彼女を見て見ぬふりをした。自分の殻に閉じこもった時も、誰も手を差し伸べなかった。
そして、今。
たった一人、自分を必要としてくれた人すら、いまは――いない。
――
瓦礫が崩れる音が響く。
グリードの触手が、街の塔を突き破り、鐘楼が崩れた。誰かの悲鳴が、もう何人目かも分からぬ絶叫に混じって消えていく。
リーネの周囲には誰もいなかった。
いや、違う。
そこには、“敵”しかいなかった。
彼女の目が、ゆっくりと伏せられた。指輪が、鈍く光を宿している。
その光は――まだ、消えていなかった。
(あ……きら……)
その名を、心の奥で呼んだ。誰なのかも解らない。だが確かに、心の中にはその名が浮かんだのだ。