前兆
春の終わりが忍び寄る頃、街の外れのあばら屋には、相変わらず静かな時が流れていた。
リーネが外出しているあいだ、吉川は炉の傍らで膝を抱え、じっと揺らめく火を見つめていた。身動き一つしない老いた身体。手を動かせば関節がきしみ、立とうとすれば足がふらつく。だが、彼の眼差しにはどこか焦燥の色が滲んでいた。
(――このままでいいのか)
日々、世話を焼かれるだけの存在。薬草を煎じ、火を熾し、洗濯をし、少しの時間だけ仕事に出て、帰ってくる少女。寡黙で無表情なその顔に、ときおりうっすらと浮かぶ疲労の影に、吉川は幾度も心を痛めていた。
だが、何もできない自分がそこにいた。
火の中に細い枝をくべる。ぱちりと音が弾けた。視線を落とした手の甲は骨ばっており、乾いた皮膚にはしわが刻まれていた。力がこもらない指先に、もどかしさが募った。
その日も、リーネは朝早くに家を出た。ギルドで受けた簡単な依頼――捨てられた廃坑から魔力残滓の回収。危険はないが、報酬もわずかだった。それでも、何もしなければ生きていけない。
リーネは何も言わず、薬草を入れた布包みと、白の書を変じた指輪を左手に、静かに街道を歩いた。風は穏やかで、薄曇りの空には鳥が舞っていた。彼女の黒衣は風に揺れ、髪がひとすじ、頬をかすめていた。
依頼を終えて帰る道、リーネはふと足を止めた。木立の向こうに、いつものように見慣れた屋根――彼女と吉川の小さな家が見える。だが、その目前の路地裏に、得体の知れぬ気配が漂っていた。
そして、気配はすぐに形となった。
「姉ちゃん、こんな裏道通るなんて不用心だな……」
声と同時に、三人の男が茂みから姿を現した。いずれも薄汚れた装束に刃物を携え、目には酒気を含んだ濁りが浮かんでいた。街のはずれでしばしば目撃される盗賊の一団であった。
リーネは静かに後ずさる。だが彼らのうちの一人が、すでに背後を塞いでいた。
「荷物だけ置いてってくれりゃ、何もしねえよ」
その言葉には、明らかな嘘が滲んでいた。リーネの瞳がわずかに揺れる。指先に力が入る。
魔法の詠唱は、すでに心中で始まっていた。
だが――不意に、後方の木陰からもう一人が現れた。
「こいつ、いいモン持ってんじゃねぇか……光ってやがるぜ、この指輪……!」
男の目が、リーネの左手に輝く白い指輪へと向いた。
――その瞬間、リーネの心に緊張が走った。
「来ないで!」
はじめて、声が漏れた。だが、男たちはにやにやと笑いながら、一歩また一歩と距離を詰めてくる。
「動くなって言ってんだろうがぁ!」
怒声と同時に、一人が振るった刃が、リーネの肩先をかすめる。布が裂け、白い肌がわずかに覗いた。
リーネは後退しながら魔法を発動しようとした。だが、すぐ背後に家の塀があり、逃げ場はなかった。エーテルの流れが滞り、言葉にならぬ吐息が漏れる。
そして――
「……やめろ……!」
その声は、誰よりも弱々しく、誰よりも必死だった。
あばら屋の扉がきしみを上げて開かれ、杖代わりの棒にすがるようにして、吉川が姿を現した。
背筋は曲がり、髪は雪のように白く、歩みはおぼつかなかった。だが、その目だけは確かに怒りと決意に燃えていた。
「やめろ……彼女に……触れるな」
盗賊たちは一瞬たじろいだ。だが、すぐに吹き出すような笑い声が響く。
「じいさん、寝ぼけてんのか? 今から遊びなんだよ。お前は邪魔すんな」
刃が再び振り上げられた。
だが――
その時、吉川はリーネの前へと身を投げ出した。この老いた身がどうなろうと、考えもなしに。
刃が閃き、老人の身体へと向けて振り下ろされる。
……が、その刃は、彼の肩に届く寸前で、まるで“空気”に弾かれたように軌道を逸らし、火花を散らして地面へと落ちた。
その瞬間、世界が止まったようだった。
吉川の胸元――白い指輪が淡く、しかし確かな鼓動で輝いていた。
その光は、彼の身体を包み込むように広がり、老いた皮膚の皺が、ほんのわずかに薄れていく。白髪に微かに黒が戻り、指先の震えが止まり、背筋が一寸だけ伸びた。
リーネは見ていた。その現象が何であるか分からずとも、本能的に理解していた。
これは――彼の命が、彼女を守るために、確かに動いた証であることを。
盗賊たちは言葉を失い、光に怯えるように後ずさる。
「て、てめぇ……何者だ……?」
吉川は答えなかった。ただ、肩で息をしながらも、リーネの前に立ち続けていた。
その背には、まだ老いが残っていた。だが、瞳だけは、あの青年期のような強さを宿していた。
――そして、盗賊たちは逃げた。何も盗ることもなく、ただ恐怖だけを背に残して。
残されたのは、静かな風と、少しだけ若返った吉川と、呆然と立ち尽くすリーネだけだった。
陽は傾き始めていた。
微かに吹いた風が、二人の間を通り抜け、木の葉を揺らす。
リーネの視線が、彼の背中に吸い寄せられていた。
「……どうして……」
その呟きに、吉川は振り返らず、ただ一言。
「……どうしても、守りたかっただけだ……」
そして、倒れるようにしてその場に膝をついた。
だが、その顔は、不思議なほどに、晴れやかだった。