決断
それから暫くの時が経った。
そこは、小さな家だった。
屋根には雨漏りの跡があり、壁には風雨にさらされた木材の節がむき出しになっている。傾いた窓枠から差し込む日差しは斜めに曲がり、床に落ちる光と影が、どこか頼りなく、けれども暖かさを宿していた。
街の外れ、ギルドから歩いて二十数分のところに建つそのあばら屋は、リーネが自らの蓄えをすべて使って借りたものだった。築年数は定かではないが、雨風をしのげ、火を焚ける炉があり、二人で寝るには十分すぎる空間があった。
吉川は、軋む床の上に敷かれた毛布の上で目を開いた。
木製の天井に、木漏れ日が踊っている。かすかな煙の匂いが鼻をくすぐり、火のついた炉の中で薪のはぜる音が聞こえた。
少しだけ身体を起こすと、板張りの床に膝をついて薬草を刻んでいるリーネの後ろ姿が見えた。
その細い肩と背中。毛先が陽光に透け、淡くゆれていた。
吉川は黙ってその姿を見ていた。あの日、川で自分を救い出した彼女の目にあった、どこか懐かしい、けれどもはっきりとは思い出せない優しさの記憶が、胸の奥にぼんやりと滲んでいた。
「……起きていたんですね」
振り返ることなくリーネが言った。彼の視線に気づいていたようだった。
「もうすぐ出来るから。今日は、胃に優しいように薄く煮ることにしたの」
彼女の声は、以前ギルドで聞いたときよりも、わずかに柔らかさを帯びていた。
鍋の中から立ち上る香りに、吉川は小さく頷いた。静かに呼吸をして、その場に身を委ねる。何も語らずとも、時間だけが穏やかに流れていった。
そして、その日から二人の生活が始まった。
リーネは、朝早くに起きては薪を割り、薬草を採りに行き、帰ってきて吉川の世話をした。洗濯、掃除、炊事、すべてを一人でこなしていた。
それは決して義務感からではなかった。彼女にとって、その全てが「当然のこと」であるかのように自然な行動だった。
彼の世話をすることに、彼女は何の疑問も抱いていなかった。ただ――必要だと、感じていたのだ。
だが、パーティメンバーの不満は日に日に強くなっていった。
「もう何日も出てきてないじゃないか」
「いくらリーネが魔法使いでも、さすがにサボりすぎだろ」
そんな声が、ギルドの酒場に響いた。アリオスは黙ってそれを聞いていた。彼の手元には、すでに空になった酒杯が置かれていた。
彼女の決意も、背負っている何かも、理解していたつもりだった。だが、それでも胸の奥には拭いきれない苛立ちが残っていた。
「……あのじいさんが、何なんだよ」
独り言のように呟いた言葉は、酒場の喧騒にかき消されていった。
ある夜。
リーネはランプの灯りのもと、帳簿を開いていた。残された金貨は、あとわずか。治療薬の材料も尽きかけている。薬草は採れるが、それでは限界があった。
パーティを離れたこと、依頼を断り続けていること――すべて自分で決めたことだ。けれど、いよいよ限界が迫っていた。
「明日から、昼だけギルドに通う。簡単な依頼だけ受けて、すぐ戻るから」
言葉は、吉川に向けられたものではなかった。ただ、自分に言い聞かせるような呟きだった。
その言葉を聞いていたのか、吉川は、炉の側で小さな声を漏らした。
「すまない……俺のせいで」
リーネは首を横に振った。
「何故だか解らない……でも、あなたがいてくれるだけで、私は……」
言葉は途中で消えた。それ以上は、言えなかった。
その夜、月は雲に隠れ、冷たい風が軒を揺らしていた。
数日後。アリオスは決意を固めて、リーネの家を訪ねた。
「話がある」
彼は戸口の前で立ち止まり、重い声を出した。
リーネが出てきた。表情は変わらない。
「なんでだよ。あんな奴のために、そこまで……。俺はずっと、お前のこと……」
言葉に詰まった彼の手が、何かを掴むように宙を彷徨う。
「……戦いが終わったら、一緒に、旅をしようって言ったろ」
リーネは、少しだけ目を伏せた。
「それは、もう……ごめんなさい」
短い言葉だった。だが、それがすべてだった。
アリオスはしばらく黙っていた。そして、ほんの少しだけ笑った。
「だよな……。お前らしいや」
そう言うと、彼は踵を返し、夕陽の中へと歩き出した。
その夜、リーネは正式にパーティを離脱した。
ギルドの裏路地、屋根の上には白い月が浮かんでいた。あばら屋の炉の火は絶えることなく揺らめき、二人の影を壁に映していた。