再界
春が深まる頃、街の中庭では水の音が柔らかく響いていた。水路に咲く白い花は風に揺れ、どこか遠い昔を思わせるその香りが、リーネの足元を満たしていた。
彼女はゆっくりと歩いていた。務めていたギルドの建物が視界に入る。無骨な石造りのその外壁には、長年の風雨に耐えてきた痕跡が刻まれており、扉の前には剣や槍を背負った冒険者たちがひしめき合っていた。言葉は荒く、笑い声は乾いていた。だがその中にあっても、リーネの気配はほとんど誰にも届いていなかった。
受付には、かつて同僚であった職員の男がいた。彼女を見るなり少し驚いた様子であった。やがて無言のまま何枚かの書類を渡してくると彼女は一つ一つにサインをしていった。検査を受け、魔力適性の測定も終えた。
そして、その日から、リーネは冒険者としての日々を歩み始めた。
最初に声をかけてきたのは、少年のような笑みを浮かべた男だった。名はアリオス。長い睫毛と整った顔立ちは、どこか演劇の舞台にでも立っていそうな雰囲気を持っていた。彼のパーティは既に三人おり、リーネを含めて四人編成となった。
幾つかの簡単な依頼から始まった。薬草の採取、失せ物の捜索、弱った獣の駆除。任務は順調であった。リーネの魔法は即座に敵を制圧し、味方を守る防御術も扱えた。だが、彼女は多くを語らなかった。
戦闘後の食事の時間も、町での休息日も、彼女の席は静かだった。笑うこともなければ、怒ることもない。仲間の誰かが軽口を叩いても、ただ一度目を伏せて頷くのみであった。
それでもアリオスは、彼女に対して穏やかに接した。時には褒め、時には冗談を言い、時には何も言わずそばに座っていた。リーネの中で、確かに何かが動いていた。ただそれが何か、彼女自身もまだ分かってはいなかった。
ある日、依頼の帰り道。街の外れを通る小道の傍、川の流れが光を反射していた。
風は緩やかに吹き抜けた。鳥のさえずりが遠くに響き、木々の隙間から差し込む陽光が、水面に揺れていた。
その時、リーネは異変に気づいた。
川岸の下流、岩場の影に、何かが引っかかっていた。衣服らしき布が水に浸かり、ゆらゆらと流されていた。それが人であると気づくまで、ほんの数秒だった。
駆け寄ると、それは老人だった。衣服は破れ、手足には擦り傷や裂傷が走っていた。右足は不自然な角度で曲がっていた。肌は青ざめ、唇は紫に染まっていた。
リーネは鞄を投げ出すと、膝をつき、魔術の準備に入った。掌に浮かぶ淡い光。エーテルが集まり、彼女の手から微細な波となって老いた身体を包み込もうとする。だが、その淡い光りは一瞬発光すると破裂するように消滅した。まるで全てを拒絶するかのようであった。
しかし、魔法が消滅したにもかかわらず、その刻まれた皮膚は勝手に塞がり治癒していった。折れ曲がった脚は次第に元に戻っていくと、血色が戻り、微かに胸が動いていた。
「生きてる……」
その事実だけが、リーネの身体を動かしていた。彼の名も、素性も、今はどうでもよかった。ただ、彼のその表情が――過去の誰かと重なったように見えたのだった。
仲間を呼びに行くことも忘れ、リーネは彼を抱えるようにして、川から引き上げた。水を吐き出させ、温めた布を肌に巻きつける。
ふと、彼の胸元で何かが光った。
白い指輪――それは微かに、だが確かに、リーネの指のものと呼応するかのように脈動しているようであった。
その瞬間、リーネの胸の奥がざわついた。
指輪……。それは自分が“白の書”から授かったもの。誰のために、何のために存在していたのか。今までずっと分からなかった。その答えが、いまこの老人の中にあるのではないか――そんな直感に近い思いが、彼女を突き動かした。
仲間が駆けつけた頃、リーネは既にその老人を背負って立ち上がっていた。
アリオスが眉をひそめて言った。「おいおい、なんだってそんなボロボロのじいさんを……」
だが、リーネは首を横に振った。わずかに、だが確かに。
「この人は……生かさなければならない……」
それだけを呟いて、彼女はそのままギルドへと向かった。肩に感じる体温、血の気の引いた手。息は浅く、身体は重い。けれど、リーネの足取りは迷いなく、まっすぐであった。
その日、風は少し冷たかった。けれどリーネの心は、それまでになく温かかった。
こうして、リーネと吉川は再び巡り合うこととなる。
まだ互いに、それを「再会」とは気づかぬままに――