別離
木漏れ日が斜面を照らしていた。季節は初秋にもなり、森に囲まれた山村では、涼やかな風が熟れた果実の香りを運んでいた。歩くと地面に落ちた栗やドングリの殻が足元でかすかに弾ける音がした。
そして、十二の年齢に達したリーネは、その日、静かに村を後にした。
荷物は少なく、布製の肩掛け鞄には、例の“白の書”が包まれていた。村を囲う小さな石垣の傍で、父が手を振っていた。目元に浮かぶ皺は深く、口元の笑みはどこか硬い。それでも、彼の手には新しい革靴が提げられていた。「おまえの足に合うか心配だが……街までの道、これで楽になればと思ってな」——そのときの言葉が、リーネの耳に今も微かに残っていた。
リーネは学園に入学した。いや、することが出来た。
――
あるときから、父はボロボロの鎧を纏って街の方に行っていることが分かった。何日も帰って来ないことは度々あった。時折帰る父の表情は次第に険しくなり、帰るたびに無数の切り傷や傷跡が、日増しに増えていく恐怖を覚えた。
どこにも行かないでと懇願したが、その声は父の耳には届かなかった。
そして、雨の降る朝、ここを離れ学園に行くことを告げられた。もしかしたら、母にしてあげられなかった事を悔いていたのかも知れない。
――
馬車に揺られて暫く、街が見えてきた。山村とはまるで異なる風景に少し戸惑いを受けた。
見る物全てが新しかった。街の中央には、塔のように高く聳える建物があった。魔術学園である。校舎には幾何学模様が刻まれ、宙を漂う光の粒子が常に回廊を照らしていた。初めて見るその光景は、魔術の中に沈んできた彼女にとって、まるで書物の中に入り込んだような錯覚をもたらした。
入学式では多くの子供たちが家族に囲まれ、楽しげに話していた。だがリーネの傍に立つ者は一人もいなかった。案内された寮の部屋に入ると、彼女はただ黙って白の書を机の上に置いた。窓の外では鐘楼が時を告げていた。
――リーネは優秀だった。
授業の内容は、彼女にとって既知の事柄ばかりだった。魔法理論、発動式の構造、エーテルの揺らぎと安定化、そのすべてを彼女は既に理解していた。むしろ、それを説明する教師の言葉のほうが冗長に思えた。
だが、彼女は目立たなかった。いや、正確には、誰とも関わろうとしなかった。
話しかけてくる者がいても、返事は最低限であった。昼食も教室の隅で一人で取り、休み時間には図書室にこもりると、白の書と声を出さずに語り合った。
クラスでは「無口で変な子」として知られ始めた。陰口は聞こえていた。誰かが笑っている、その内容を想像することはできたが、彼女は耳を塞がなかった。ただ、そのまま静かにページを捲り続けた。まるで、その本がすべての答えを知っているかのように。
成績は常に首席。模擬戦でも、的確な魔法展開と速さで評価された。けれど拍手を送る者はほとんどいなかった。彼女が勝っても、誰も目を合わせようとはしなかった。
それでも、リーネは何も求めなかった。求めることの虚しさを、あの山村で知っていたからだ。
そして、季節が過ぎ四年が経った。
卒業の日。式典では形式的な言葉が飛び交い、学園長が金細工の杖を掲げながら祝辞を述べていた。リーネは最後列の椅子に座っていた。卒業証書を受け取ったとき、何人かが拍手を送ったが、それは周囲の生徒たち全員に向けられたものだった。
寮を出るとき、リーネは誰にも告げずに荷物をまとめた。小さなトランク、そして例の白の書。寮母に会釈だけして門を出た。外は春の始まり、街路樹が薄く芽吹いていた。
そのまま宿に泊まり、翌日には街の外れのギルド本部へと足を運んだ。紹介状があったのだ。学園からの推薦で、職員採用の面談を受けることになっていた。
ギルドの建物は学園とは対照的で、無骨な石壁と鉄の扉が特徴的だった。中では冒険者たちが装備の手入れをし、受付ではクエストの掲示が頻繁に張り替えられていた。
面接官は、やけに物腰の柔らかい中年の男だった。彼はリーネの成績表を見て、何度も驚いたように首を傾げた。
「これほどの能力がありながら、なぜ冒険者を志望しないのかね?」
リーネは、静かに答えた。「人のために、魔法を使いたいと思っています……」
男はしばらく黙り、それからゆっくりと笑った。「なるほど、そうか……では、内勤職での推薦とさせてもらおう」
そうして、彼女のギルド職員としての日々が始まった。
それから二年。リーネはギルドの魔術管理部門に配属され、依頼に関わる魔術支援や、魔法的痕跡の解析を行っていた。
人との交流は最小限。けれど、誤解を恐れず言えば、彼女の暮らしは “静かで穏やか” だった。夜には自室で白の書を膝に開き、薄明かりの下で頁をなぞる。眠る前に必ず一言、「今日も、お父さんに会わなかったね」と本に語りかける。
だが、その日は突然やってきた。
ギルドの休憩所で温めたスープを啜っていた午後。急報が届いた。街道で負傷者が出た、至急治癒魔術の支援が必要だと。
いつものように彼女は布包みを手に現場へと向かった。担架の上には、血に濡れた大柄な男が横たわっていた。鎧の隙間から肉が裂け、深い裂傷が覗いていた。
その顔を見た瞬間、時が止まった。
「……お父さん?」
声にならぬ声が、喉の奥で震えた。
あの日、門の前で見送ってくれた父だった。彼は微かに目を開け、娘の顔を見た。唇が動く。「……これを……持っていけ……」
リーネの手に、血で濡れた金色のネックレスが握らされた。それはコツコツと金を貯め、将来の娘の為にと父が用意した物であった。
「……お前の……、お前の未来のため……だが……それももう……見れなく……なりそうだ……」
その言葉を最後に、彼の身体は僅かに震え、そして沈黙した。目は穏やかだった。彼の背後から光が差し込んだ。その春の陽射しは柔らく、温かな光が彼の最後を包み込んだ。
声を殺して泣いた。だが、その声は次第に大きくなり、大粒の涙と共に崩れるようにして泣いた。
葬儀は静かだった。参列者も少なく、村から訪れた者もいなかった。ギルドの者が数人、花を手向けていた。
それから、リーネは引き籠もった。職務はしばらく休職。白の書は毎晩、淡く光っていた。
そしてある朝。
本が、声を発した。「時は来た……争いを終わらせるのだ」
リーネは静かに立ち上がった。白の書は、光の粒となって手の中に収まり、それはやがて半身のリングへと姿を変えた。
彼女の指には、その白い指輪が、静かに、しかし確かな意志で収まっていた。