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産声

――

 風の音が聞こえていた。まだ言葉も知らぬ乳児の耳にすら、それは確かに残響を刻んだ。季節は初夏。森の斜面を吹き下ろす風が、揺れる簾と、藁葺き屋根の隙間をすり抜け、家屋の中に澄んだ光を運んでいた。


 藍染の産着に包まれた幼子は、母の胸に抱かれていた。だが、その温もりは日毎に薄れていった。肌は冷え、血の巡りを失い、息は既になかった。

 母親の死は、彼女がこの世界に産声をあげてから数日も経たぬうちに訪れたものであった。


 その日、男がひとり、土の匂いを纏いながら家に戻った。村には医者や治癒魔法を使える者はおらず、街まで行き手当してくれる者を探し、やっとの思いで連れてきたのだ。だが、それがもう無意味であると知った瞬間、男は何も言わず膝から崩れ落ちた。静かな泣き声は家の外へ漏れ、鳥たちを森の深みに追いやった。


 こうしてリーネは、母を知らぬままに、父と二人だけの世界で育ち始めた。


――――

――


 彼女が五歳になった頃、村の風景がほんの少しだけ変わり始めた。


 父は、頻繁に街へと出かけるようになった。山村の暮らしでは得られぬ薬や道具を手に入れようとしていた。その間リーネは、隣家に住む老夫婦に預けられることとなる。夫婦は親切だったが、心の通いはなかった。彼女はいつも縁側に座り、木々の葉が風にそよぐのを眺めていた。目に映るもの、耳に届く音、どれもが静かで遠く、自分だけがそこに取り残されているような錯覚を覚えた。


 ある夜リーネは、部屋の隅に一冊の本を見つけた。その本は真っ白の表装、ページをめくっても何も書かれていなかった。何かを書こうとするが、本はそれを拒んだ。どういう訳か何も受け付けず書くことも、そして、汚すこともできなかった。ページを破ろうともしたが、力が入らずそれは叶わなかった。

 ただ、どういう訳か、その本が側にあると安心したのだ。


 翌日、父に本のことを聞いた。だが、口を閉ざしたままであった。


 父の記憶の中では、妻が亡くなった後、そのベッドにあったものがそれであった。本の出所も正体も知らない、だがそれが妻の成り代わりと思い、部屋が見渡せる棚に祀った。棚は高く、とても子どもが取れるものでは無かった。だが、それが今は娘の手元にあった。


 父は、大事そうに本を抱えるリーネを見て、それがまるで妻であるような錯覚を覚えた。そして、「それは母がリーネのために残したものだよ」と告げた。


 ある日、周囲の子どもたちが川で魚を追い、泥で山を築いて遊ぶ声を背に、リーネは本に話しかけていた。「今日もお父さん、帰ってこなかったね」。返事のない本は、それでも黙って彼女のそばにいてくれた。


 村人たちは皆、哀れむような目を向けていた。だが誰一人、彼女の内面にまで踏み込む者はいなかった。


――


 八歳の誕生日の朝、父が街から戻った。


 リーネが手にしていたのは、紛れもなく白の書であった。乾いた音と共にページが捲られる。ページの中には、何も書かれていないはずであったが、今では奇妙な記号と複雑な図形が並んでいた。父はそれが始めて「魔術書」だと悟った。亡き母がリーネのために残してくれたのだと、確信できた時でもあった。だがその内容は、父には到底理解できるものでは無かった。


 こうしてリーネはページをめくるたび、知らぬ世界が現れることに魅了されてくこととなった。


 日が落ち、炉の火がゆらめく中、リーネは魔術書を膝に広げ、父の顔をそっと盗み見る。父は疲れた顔で薪を割っていたが、その瞳には穏やかな光があった。


「これは、おまえにしか読めないものなんだよ」


 その言葉が、胸の奥に小さな灯をともした。


――


 日々は緩やかに過ぎていった。


 やがて父の出稼ぎは長くなり、帰りも遅れるようになった。村の誰とも親しまず、彼女は書物の中に沈み込むようになった。


 季節が巡るたび、ページに刻まれた記号の意味が少しずつ理解できるようになった。魔術とは、人と自然の間にある「理」を読み解くこと――そう彼女は感じていた。


 文字の形には意味があり、構造には秩序があり、行間には詠唱の息が潜んでいる。誰も教えてはくれなかったが、彼女は独学でその呼吸を身に付けていった。火を灯す術、水を呼ぶ符号、空気に色を与える図式。小さな変化が、小さな部屋の中でひっそりと生まれていった。


 言葉はなく、声もなく、彼女は黙々と読み続けた。


 父の背に負われて山道を歩いた日々も、手を引かれて見た星空も、魔術書の頁をめくる音とともに少しずつ遠ざかっていった。


 そして、少女は気づかぬうちに変わってゆく……


 彼女の世界は、静けさの中で少しずつ魔法に染まっていった。

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