老体
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生温い風が肌を撫でた。冷たくもなく、熱くもない、けれど確かに現世とは異なる空気であった。それはまるで霧のように全身を包み込み、何もかもぼやけていた。
微かに動く草の音に耳を澄ませながら、薄く目を開けた吉川が居た。
――空。
しゃがれた声でポツリと呟いた。そこに浮かぶ雲はあまりに緩やかで、どこか絵に描かれたもののようにも見えた。春霞のような柔らかな白が、頭上で優しく流れていった。
(ここは――天国なのだろうか……)
暫く目を閉じ考えを巡らせてみたが、瞼の裏に残るのは、あの潰れたケーキと甘い匂い、それと胸元で瞬いた白い光のみで、それ以前の記憶は全くなく、何も思い出せなかった。身体の感覚は朧気で、喉は乾き、手足は冷たく、重たかった。
息を吸った。草の匂い。春草の新芽の、青く若い匂い。ふと顔を横に向けると、小さなスミレが揺れていた。
だが、天国にしては随分と寒い。陽は差しているのに、風が冷たい。湿った土の感触が、背中越しにじっとりと広がってくる。
(――現実……)
緩やかに上体を起こそうとした瞬間、全身を襲う鈍い痛みが吉川を引き戻した。
「――……っ……!」
うめき声にも似た息が漏れた。背中、膝、肩、首……どこもかしこも重く痛い。まるで錆びた金属が軋むような違和感があった。長年酷使した老体が、地面から引き剥がされることを拒むかのようであった。
無理にでも立とうとしたが、膝が笑い、手は震えた。爪の間には泥が入り、乾ききってひび割れている。辛うじて身体は動く。だが、思うようにはいかない。まるで自分の手足でないような、奇妙な隔たりがそこにはあった。
やっとの思いで体を起こすと周囲を確認した。高くそびえる針葉樹が空を遮り、地面には落ち葉と苔、折れた枝が無数に散らばっている。耳を澄ますとどこかで聞いたような鳥の声、そして風が葉を揺らす音に紛れ、時折何かが動く気配がした。
――人の手が届かぬ自然が、どれほど無慈悲であるかを。
腰ほどの枝を見つけ杖代わりにし、ヨロヨロと歩いて行った。何処に向かうかも分からないのに。
どれくらい歩いたであろうか、行けども行けども同じ景色が繰り返される。振り返ると確かに草場を踏みしめた跡はあった。だが、その景色は繰り返された。
一息つこうと木にもたれ掛かり、空を見上げた。陽は傾いていた。いつの間にか、陽光は木々の間から斜めに差し込み、地面には長い影が伸びていた。
「……夜が来る」
声を出すことすら億劫だった。喉はからからで、唾を飲み込むにも苦労する。だが、それでも立たねばならなかった。あてもないまま、ふらふらと木々の間を彷徨い始めた。
枝に手をかけ、幹に身体を預けながら、わずかでも開けた場所を探す。空はゆっくりと朱に染まり、やがて紫へと移ろう。森が深くなるごとに音は消え、代わりに得体の知れぬ気配が濃くなっていった。
突然、草が裂ける音が響いた。
振り返る。視線の先、茂みの中で何かが動いた。闇に紛れるその姿は見えない。だが、感じる。獣の眼差し。冷たく、飢えた、野生の本能がこちらを見据えているのが。
動けなかった。背筋に氷が走る。すぐさま走り出せばいい。だが、この身体では――
相容れない音が近づく。続けて、唸るような低い声。四つ足の獣――狼、いや、もっと大きい。気配はひとつではない。複数の気配が、円を描くように吉川の周囲を取り囲んでいた。
背筋に冷や汗が流れた。
生きることに飽いたはずの男が、今、命の危機に晒され、ようやく気づいた。
(――まだ、死にたくない)
瞬間、背後から飛びかかってきた黒い影を、必死にかわそうと身体をひねった。
だが、その老体は応えきれなかった。腰から崩れるようにして、吉川の身体は斜面へと転がり落ちていった。
地面が歪む。木の根が背に食い込み、石が頬を裂く。痛みが意識を覚醒させ、転がるたびに肺が押しつぶされた。止まらない。傾斜は急だった。足を何かにぶつけた瞬間、異様な音と共に鋭い痛みが走った。
「……っ、ああああああっ……!!」
絶叫にも似た嗚咽。視界が霞む。激痛が右足を支配した。折れたのだ、とすぐに理解した。骨が砕け、皮膚が裂けた感覚があった。
だが止まらない。身体はさらに転げ、土を巻き上げ、ようやく水音が近づいてきた。
最後の一撃。水辺に打ちつけられると同時に、吉川の身体はそのまま冷たい川へと滑り落ちた。
水は容赦なく、彼の身体を飲み込んだ。冷たく……そして、呼吸ができない。足は動かない。頭は回らない。ただ、水の流れに流されるまま、彼はゆっくりと意識を手放していく。
身体は川の流れに乗って、静かに、しかし確実に、森の奥へと運ばれていった。
夜の帳は完全に降り、森がすべてを覆い隠したとき、白髪の男の姿は黒い闇と冷たい水音の中へと、静かに沈んでいった。
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