流れていかない大便に見る、福祉の予見的観点の必要性
ある議員が役所のトイレに入り大便をした。レバーを引くと流れてきた水がそのまま溜まっていく。どうやら排水が詰まっているらしい。水は溢れこそしなかったが、便器は自分の排泄した汚物をスープの浮き身の様に浮かべた汚水でいっぱいだ。自分自身ですら見るに堪えない。
水洗便所が詰まっているのは設備管理の責任だ。しかし苦情を言ってやりたくても、この状況を訴えるには自分の汚物の有り様を見せなければならない。顔で売っているこの私がだ、「この汚物は自分がひり出して水で薄めたものです」などと作業員に訴えられるものか。しかし私は、議論を生業にする議員だというのに、自分が人の過誤に困らされていながら抗議も出来ないというのか。こんなに自分の権力が無意味になる瞬間があるとは…。しかしそうこうしている内に、次の利用者が来てしまうぞ。そうすれば顔が見られてしまい、あの議員は糞野郎だ、という事になってしまう。それだけは議員として、生活上耐えられない事だった。
議員は鞄を顔に当て、ドアを飛び出した。走り抜け、タクシーを拾い、家に着くと書斎に籠り、鍵を掛けた。彼は仕事の都合上、汚れる感覚には強いと思っていた。しかし、自分の出した糞を自分で始末する事も出来ず、今誰かが発見して、口元を抑えながら「大の大人が詰まった便器を放置して黙って逃げてくなんてねえ」「うわ、糞の欠片が便器の縁にまでこびり付いてるよ」などと評論しているかと思うだけで、とてもいたたまれず、やりきれない。確かに私は汚れた側面を持つ仕事で口に糊する人間だ。だがこの件に関して自分は悪くない。トイレの利用者として真っ当であり、汚れてはいないんだ。自分はこの役所の設備不良が生んだ、不運な犠牲者ではないか?確かにそこにあるのは私の糞だ。見掛け上は私が汚した様に見えるかも知れない。しかし、便器に糞をひり出す事は万人が日常的に行っている筈じゃあないか?皆がレバーを引く時には上手く流れて、どうしてこの私の時に限ってこうなってしまったんだ?何故、皆、本当の清浄な私を見ないでおいて、鼻を詰まんで糞野郎などと蔑むんだ?個人として尊重されず、不運によって負ったに過ぎない責任を、やれ放置してきただろうなどと脅すんだ?
…そう考えながら、議員はふと思い返す。こんな嘆きはいつぞや誰かがやっていた気がするぞ。そうだ、私は、私より低い位置にある者がこんな風に嘆くのを聞くのなんて大嫌いだっけ。議員なら何故、人権が蹂躙されている一市民に手を差し伸べないのか。不運によって生活水準の落ち込んだ者への保障を、財政健全化の名の下にカットしようとするんだ?そんな風な訴えを、今まで私は無視し続けてきたっけ…。「自分の尻ぐらい、自己責任で拭えよ」。そんな風に態度や政治判断で示してきたっけ…。
自分の苦しみが他者に分かってもらえない事は誰にとっても辛い。