海潮音
夕陽が砂浜の彼方に紅い果実を置いたような残光を放って沈もうといる。砂浜を歩く青年の顔や手は、まるで人を殺して来たかのような赤味を帯びた色に染まっている。足元が温かい。青年は何の戦慄を感じることもなく、残熱の砂上を進む。彼の目には沈んで行く太陽が浮かんでいる。彼は歩きながら、これから訪れるであろう事に、胸を熱くした。そして思った。今、自分の足を引きずり込もうとする砂浜の如き、故知れぬ渇望について。心が抑えても、肉体が許さぬ渇望について。否、そればかりか、彼はその後に続くものについても考えた。彼が自分の歩いて来た足跡を振り返ると、そこは明るい砂浜だった。足跡は既に消されて何も見えなかった。目に映る何物も無く、ただ真っ白にぼやけていた。青年は歩いた。砂浜の向こうに松林があった。そこが、目標地点だった。彼にはそこへ向かう目的があった。ひたすら、そこに向かって歩いた。自分の過去の足跡のように混沌としていなかった。彼の前には向かうべき明確な灯りが燃えていた。砂浜を歩く自分の足音がサクサクと鳴り、リズムを作った。その足音は失われて行く思い出のように物悲しく聞こえた。青年は、それを悲しくとか、寂しいとか思わないようにした。ただ一途に砂浜の向こうの松林に向かった。彼は向かいながら呟いた。
「真理子、許してくれ。俺を、俺を許してくれ。俺のこの獣のような決心を許してくれ。俺は君を欲しいのだ。俺はお前が好きなのだ。お前だって、そうだろう。俺を欲しいと思っているのだろう。だから幼馴染みの俺が、東京に行かないように引き留めようとするのは分かる。俺はお前を愛している。だから俺は、今日こそ,無理矢理、お前を俺のものにする。俺のものに・・」
海からの風に砂が舞い上がった。しかし、それ程、強い風では無かった。青年の開襟シャツの襟と戯れる程度だった。その風は、何千年も、いや何万年もの昔から、この砂浜に吹いている風のように思えた。
〇
青年にとって、自分がしようとしている事は、初めてでは無かった。高校2年の夏だった。思春期の彼は夕暮れ時、静波の海を見詰め、砂浜に立って、自分の将来について、あれやこれや考えていた。やがて夕月が海上に浮かび上がるように大きく顔を覗かせた。それを見て彼は口笛を吹いた。
♪ 名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実 ひとつ
故郷の岸を離れて・・・。
彼は静かに口笛を吹き、その調べによって、青春の肉体が躍るのを和らげようとした。しかし、彼の肉体は躍るのを止めず、逆に上京の憧憬を高めた。彼は口笛を吹きながら砂浜の上の自分の影を踏んで踊った。その青年の躍る砂浜の先では、青い海が白い波を立てて大きく単調に繰り返し、静波の海潮音が彼を笑っていた。そのちょっと荒っぽくて重みのある海潮音が、幾万年となく流れていることに、彼は何の不思議も感じなかった。ただ、生温かい砂浜の上で踊りまくり、上京への熱い思いを発散させた。夕月は砂浜を明るく照らした。砂浜が徐々に波に吞み込まれて行くのが目に入った。彼は砂浜が海と一体になる時刻になったのを感じた。渇きに渇いた砂浜が、青々とした海と一体になるのだと感じた。それはあの月の砂漠を行く隊商の人々が砂丘の中で海を見る錯覚に似ているように思われた。彼の立つ砂浜は、これから海水に侵されるのを待っていた。その砂浜の上に、一つの影が現れた。その影は、青年の知る女の影だった。彼女はサクサクと切れの良い足音を立てて近づいて来た。その彼女の豊満な肉体を運んで来た足に履いたサンダルは夜目に白く見えた。彼女をここに運んで来たのも、また彼をここに運んで来たのも、この砂浜の渇きに相違なかった。青年は、それを信じて疑わなかった。女の目は月の光を受けて、美しかった。彼は彼女を見て、数日前、友人が言っていた噂を思い出した。
「お夏は直ぐ抱き着いて来るよ。可愛がってやらないと泣き出して、松の木に抱き着き、腰を擦り付けて騒ぐんだ。盛りのついた雌犬と同じなんさ」
しかし、この美しい夏子の目を見ていると、友人の卑猥な噂など信じられなかった。彼女は青年を見詰めて言った。
「真ちゃん。あなた本当に東京に行くの。お母さんを1人、残して」
「うん。大学で学びたい事があるんだ」
「何を勉強したいの?」
「気になりますか?」
「そりゃあ、お母さんを田舎に残して出て行く程、勉強したい事が、何なのか、教養の無い私にだって知りたいわ」
「それは『法学』です」
「まあ、『法学』なの」
青年と夏子は砂浜の岩の上に腰を下ろし夕空を眺めながら話した。月が海上で、まるで黄色い花が咲いたように美しく輝いていた。彼は夢を語った。
「俺は政治家になるんだ。第二次世界大戦で敗戦国になってからのアメリカに隷属した軍備なき国家、不平等社会国家、日本を見直す為に政治家になるんだ。このままじゃあ、日本は立ち直れない」
彼は感情的になって、現在の不平不満を、夏子にぶつけた。彼女は彼が真剣になって語る政治について、良く理解出来なかったが、月を眺めながら岩の上に寝ころんで、彼の話を聞いてやった。月は2人の顔の上で囁いた。
「何をしている?」
夏子は彼の情熱的な言葉を聞き感動したのだろうか、彼の手を握った。それを受けて、彼は夏子の手を握り返した。すると夏子が彼にしがみついて来た。2人は互いの体温を感じ、当たり前であったかのように絡み合った。2人は岩の上から、砂浜の砂上に転がり落ちたが、互いに手を離さなかった。抱き合って落ちて来た2人の身体の下で渇いた砂が小さな虫のように細かくサラサラと動いた。2人には、それがくすぐったかった。やがて、その砂の動きの砂模様は激しさを増し、その音はサラサラから、ザラザラに変化した。2人は抱き合ったままもがき、砂浜に埋もれてしまうような錯覚に陥った。2人とも夢中になってもがいた。2人は砂に埋もれながら抱き合った。2人の渇いた肉体は液体を求めた。渇きに渇いた夏子と彼は肉体と肉体をこすり合わせた。摩擦し合うことに痛みを伴ったが、結合する快感の方が優先し、我慢出来た。悲鳴を上げる夏子に従うのは辛かったが、彼女の求めに応じることが出来た。その奉仕に対し、夏子は彼に感動的な程、望む通りの喜びを与えてくれた。彼女の愛は唇から喉を潤し、乳房を揺らし、体内を通って、股間の穴から溢れ出し、彼をゆっくりと迎え入れた。誰もが知らなくて、誰もが知っている快楽。狂おしい歓喜。彼は最早、血の気を滾らせ、欲望を剝き出しにして襲い掛かった。蝶のように翼を広げ、押さえつけた。夏子は押さえつけられたまま、身体を火照らせ、彼の顔を見上げた。彼は夏子のうるんだ瞳に誘惑され、勃起している物を勢いよく彼女の広げた開口部分に突入させた。すると夏子はまるで女神が慈愛の手を差し伸べるように彼の背中を撫で回し、潤いの奉仕を求めた。彼の吐き出したかった物は、彼の身体中を通って放出されるべき所へと放出され、彼は満足した。だが彼女は、もっと欲しそうな顔つきをしていた。そんな真裸の2人を月は天上から黙って見降ろしていた。
〇
青年は砂浜を歩き続けた。紅い夕日が眩しい。彼は額に一筋の汗を滲ませ、足を引きずるような格好で歩いた。砂浜はサクサクと音を立て、彼の額には一つの目的を示す汗が明確に露出していた。これから会合する女への甘美な恐怖に耐える為、彼は夏子を思い出し、自分に向かって呟いた。
「俺は今まで、夏子を何度、抱いたでのだろうか。あの砂丘のような砂浜で、あの草原のような草叢で、一体、何度、抱いたのであろう。最初の時、俺は夏子の、何処の部分に一等先に手を伸ばしたのだろうか。詳しく思い出そうとするが、はっきりと思い出せない。夏子が岩の上で自ら洋服やサンダルを脱いだのは覚えているが、自分がどのようにして裸になって行為に挑んだのか、記憶に残っていない。あの時、俺は無我夢中で、自分を忘れていたのか。初めての行為は自発的で無く、受け身だったのだろうか。しかし、夏子と初めて絡み合って、溜まっていた物を吐き出し、満足したことは確かだ。ああ、分からない。分からない。あれは俺が求めたことだったのだろうか?」
彼は自問自答した。その結果、彼は夏子との接触を心の内で願望していたが、自分から欲したのでは無く、彼女が欲したのだと結論づけた。何度も何度も砂漠のように潤いを求める渇いた女を抱いて来た彼は、そんな遊びの日々を過ごしていて良いのか疑問を抱いていた。あの初体験の夜、彼は自分が体験した砂浜で起きた事件に、驚愕し、家に帰る事が出来なかった。どうして、あんなことになったのだろう。自分が目の前に現れた夏子と絡み合った光景が、自分の脳裏に鮮やかに焼き付けられ、消えようとしなかった。夏子は、あの夜、2度も彼を求め、彼は2度も応じ、くたくたになり、一晩中、その砂上で、そのまま眠った。海潮音に起こされ、気づいてみれば、暗い夜は去り、東の海中から黎明の光が天空の雲を染め始めていた。砂浜は朝凪の靄で、肌寒かった。一緒にいた夏子は既に去って、その姿は海岸に見えなかった。青年は紅く染まる空を見て、自分の血がそこいらに塗られているのかと思った。やがて、その紅い色も、朝靄に吸収され、何処かへ消えて、明るく澄み渡った朝となった。風は冷たく潮の香を運んで来ていた。砂を払い、起き上がろうとしたが、直ぐに起き上がれず、何かを失ったようで、とても気だるい気がした。自分が所有していた何かを失ってしまったような気分だった。青年はその脳裏に、おぼろげながら、段々、遠のいて行く夏子の後ろ影を思い浮かべた。夏子の後姿は新しい生命の喜びを得たように、溌剌と腰を左右に振って、松林の彼方へ消えて行った。その姿は砂浜に寝ころんだまま、死んだようにしている自分とは正反対だった。青年は絶望した。青年の希望し、大切にしていたものは夏子に、呆気なく奪われてしまった。あの純一で潔白な青年の大事にしていた宝物は、突然、やって来た夏子に奪われてしまった。彼が得たものは2度の絶頂だった。それは感覚的、刹那的、満足のみだった。青年は思いもよらぬ体験をしたと同時に、泣きたいような割り切れなさを感じた。あの初体験の夜から、夏子との愚かな遊戯的行為は続いているが、今日の自分は違う。青年は唇を嚙み締めて歩いた。青年は赤味を帯びた肌に、夕陽の残光を受け止め、彷徨うように砂浜を歩き続けた。向かう先に自分を回生させてくれる泉でもあるかの如く、歩き続けた。彼は歩きながら、またブツブツと呟いた。
「夏子は、俺のことが好きだから、度々、俺を抱いてくれるのでは無い。夏子は肉体の渇望の穴埋めの為に、俺を抱きたがるのだ。夏子の欲しいのは俺の中にある精力と希望だ。都会への憧憬だ。彼女は、俺から、それを奪い取ることに満足を感じているのだ。ああ、それなのに、それなのに、俺はその夏子から何も奪い取る事が出来ない。俺は彼女に要求され、放出するだけで、何も奪い取る事が出来ないでいる。彼女との取っ組み合いで、何か獲得出来たものがあったか。それは一時の興奮と絶頂と虚無だけで、後は何も得られたものは無い。俺の欲しい物は何も無い。俺は夏子を知ってから、夏子と静波の砂浜や神社の森で、何度も逢引し、毎回、何か自分の物を獲得しようとしたのに、何時も一方的にやられ、自分の物を得ることが出来ないで来た。だが、今日の俺は違う。俺は俺の物を獲得する為に進んで行く。この砂浜の外れに俺の求める、俺の求めるものがあるのだ」
青年は夕陽を睨みつけ、砂浜を進んで行った。夕空にはカモメが舞い、海潮音が、彼を励ます応援歌のように騒いでいた。
〇
青年は、また思い出していた。高校の帰りがけ、リヤカーに藁を積んでやって来た年上の男に声をかけられ、リヤカーに腰かけ、世間話をした時、知り合いの年上の男、伊東幸治は夕陽に赤い顔をして、女の話を誇らし気に語った。その幸治先輩の目には生き生きとした光が漲っていた。そんな幸治先輩に青年は自分に無い生命力を感じた。半農半漁の生活をしている幸治先輩は、逞しく自信に溢れていて、まだ少年のような青年に対し、淫乱な夏子の話をした。
「言っておくが、お夏には気を付けろよ。あいつに色気を示されても、相手をするんじゃあねえぞ。真ちゃんは、大事な『八木家』のお坊ちゃんなんだから、不良女の罠にはまっちゃやならねえ」
「はい」
「あの女には女らしいところがねえ。直ぐに裸になって、跳び付いて来るんだからな。あいつのやることは極道の女みてえで、勝手で、怖いし、飽きが来る。だが童貞は、ああいう女にくれてやるのが一番かもな。可哀想なところもある女だからな」
「可哀想なところって?」
「知ってるだろう。あいつは、満州から引き揚げて来て、榊原の爺さんの妾になった富子の娘だ。見かけは綺麗にしているが、生活は汚い」
「そうですか」
「真ちゃんも、そろそろ女が欲しいんじゃあねえのか。若い泣き出すような女が良いぞ。怖がることはねえよ。だって女も男が欲しいんだから。女なんて直ぐ言うことを訊く。強姦するんなら綺麗な女が良いぜ。綺麗な女が・・・」
伊東幸治が、そう諭していると、向こうから村人が近づいて来た。当然のこと、話は、そこで終わった。近づいて来た村人は、若い2人に軽く頭を下げて通過し、畦道を自分の家に向かって帰って行った。
「じゃあ、帰るか」
幸治先輩も夕暮れ迫る牧之原台地を眺めて、そう言うと、リヤカーを引いて、自分の家に帰って行った。青年は幸治先輩にさよならすると、肩掛けカバンを片手で押さえながら家路に向かって進んだ。家路を進みながら、青年は幸治先輩が言ったことを改めて考えた。家路の路傍には、野菊な花が2つ、風に揺れて咲いていた。
「若い泣き出すような女か。綺麗で清純な女か。それは真理子だ。真理子しかいない。真理子は幸ちゃんが言うように容易に寝たりするだろうか。容易に寝たりはしないと思う。その真理子と寝るのだ。そこに自分の得たい物がある筈だ。無いなんて言わせない。彼女には、俺を東京に行かせたくないという思いがある。それは俺への愛ではないのか。俺への愛のような気がする。ならば俺は、真理子を自分のものにし、東京へ連れて行く。真理子の中には俺のものとなるべき愛がある。俺の中にも真理子のものとなるべき愛がある。俺の真理子への思いは、夏子との遊びの恋とは違う。誠実な愛なのだ。俺は上京する前に、その愛の希求を実現させ、示してやらねばならない。失敗は許されない。慎重に計画せねば・・」
青年は夕空を見上げ、幼馴染みの増田真理子の顔を思い浮かべた。彼女は、夕空の中で笑っていた。何時の間にか夕陽が消えて、カラスが薄暗くなった田園の上を牧之原台地に向かって遠ざかって行くのが見えた。
〇
青年は雨の砂浜の岩陰で夏子を抱いたことがあった。あの日は、海の遠くから風が吹いて来ていて、海鳴りがゴーゴーと騒がしかった。青年は夏子と約束していたので、びしょ濡れになって目印の岩場に行き、合流した。雨は2人の衣類を肌に貼り付け、嫌という程、降った。2人は、そんな雨の中の岩と岩との間で抱き合った。初めは立ったまま、相手の少し開いた穴と剥き出しの肉棒を愛撫して、可愛がり、勝手に囁き合っていたが、互いの物が充分過ぎる程になると、2人は雨に濡れは砂の上に倒れるようにして、寝転んだ。衣類を脱ぎ、全裸になった青年は、自分より先に全裸になっている夏子に覆い被さり、腰に力を入れ、突撃を開始した。すると夏子は青年の砲身をしっかりと挟み込み、まるで相手を跳ね飛ばす勢いで、腰を突き上げた。何度も何度も突き上げた。彼女が突き上げれば突き上げる程、青年は腰を使って突っ込んだ。夏子が突き上げれば突き上げる程、青年の砲身は夏子の中にはまって行った。日照り続きの夏子の肉体は雨の降る中で、白濁した濃厚の液体をあらん限り、体中に吸収しようと荒れ狂った。それに合わせるように豪雨も海鳴りと共に共鳴し、2人を応援した。2つの肉体は、その応援を受けて、海のように荒れ狂った。雨粒は青年の背中を痛い程、滅多打ちした。この激しい雨は一体、何なのか。青年はその雨粒の落下する強打を、天罰のように感じた。彼は更に激しく腰を使い、夏子を砂地に埋め込もうと、一層、押し付けた。夏子は、それに逆らい腰を強く突き上げた。その逆らいが青年にとっては快感だった。かかる快感の中にあって、青年は夏子の存在を身をもって感じ、自己を忘却していた。欲望にかられ、自分の中に存在している理性の総てを放出していた。気が付けば、海鳴りは止み、雨は過ぎ去ろうとしていた。
〇
青年は雨の日の海岸での出来事を回想しながら砂浜を歩いた。そして、あの雨の日、自分の感じ得たものは何であったか、分析追懐した。しかし、その時の出来事は衝動的一瞬の快感に過ぎず、何ら永遠性を持つものでは無かった。彼はまたブツブツ呟き、前進した。
「あの雨の日の砂浜。あの雨の日の俺と夏子。あの時の俺は本当に俺であったのか。あの時の俺は本当に俺だったのか。単なる性欲に取りつかれた野獣ではなかったのか。発情期の雌を相手にし、絡み合った雄犬や雄猫ではなかったのか。あの時の俺の行為は自己を失った享楽的性行為ではなかったのか。禁欲への逆上ではなかったのか。根源から発生した人間愛からの行為ではなかったのか。ただそれだけか。夏子を激しく押し付け、砂地に埋めてしまおうと思ったのではないか。夏子の肉体に宿る淫乱な悪魔を退治しようと思ったのではないのか。殺人を試みた殺人未遂では無いのか。考えてみると、あの時の心理状態は、この世への逆上から来る殺意だったのかもしれない。反俗的悪意だったのかも」
彼の歩みは次第に速度を増した。夕陽は砂浜の彼方に真紅に燃えて沈もうとしている。海潮音が青年が歩く跫音を打ち消すように聞こえる。その音は長い間、間断なく続いて来た輪廻転生の叫びのようだ。彼は、その音を聞きながら歩み続けた。その音は青年の夢に描いて来た幻想曲でなく、これから始まる事への前奏曲に違いなかった。彼は海潮音の調べを聞き、初恋の少女、増田真理子を思った。その真理子は、この砂浜の果てにいる筈だった。何故なら、青年が手紙を出して、この先の岩場に呼び出したからだ。海の方からの風が時折、青年の頬を撫でた。彼は、その風を受けて、はっとした。それは、その昔、真理子と手を取り合って砂浜を駈けった時の風と似ていた。
〇
少年時代。それは余りにも美しく穢れなき平和な時代だった。戦後の混乱から次の時代に移り変わって行く、暗い夜から明るい朝が来たような時代だった。青年も真理子も幼かった。2人は稲荷神社で時々、遊んだ。遊び疲れると少年少女2人は、松林から抜け出し、海の見える草叢に行って草を枕に喋り合った。草叢では秋の虫が啼いていたっけ。見上げる秋空は高く、前方の静波の海からは優しく汐風が吹いて来ていて、少女は少年の言うなりだった。次に何の遊びをしようと話しかけるのか、冒険の話でもしようとするのか、怖い話をしようとするのか期待して、少女は少年を見詰めた。少年は、そんな真理子の気持ちを察し、空を見上げて言った。
「空って綺麗だなあ。どうして、あんなに青いんだ。海を映してる鏡みてえだ。真理ちゃんの瞳みてえだ。秋の空って本当に綺麗だなあ」
「本当だね。青くって、広くって、大きくって、高くって。まるで、お父さんみたい」
「お父さんみたい?」
「そうよ。大きく手を広げて、真理子を包み込んでくれるお父さんみたいな空。真理子、大好き」
「そうか。お父さんか。俺の父さんは、もう死んじゃっていないんだ」
「真ちゃん。ごめんなさい。お父さんの話なんかして」
「良いんだ。真理ちゃんに教えてもらって良かったよ。明日から空は俺の父さんだ」
少年は真理子が空に感じる気持ちが良く理解出来なかった。真理子もまた、空が父親を連想させる理由が、ちょっとしか分からなかった。少し膨らんだ胸の上に広がる青空が、何となく父を感じさせただけなのだ。そんな2人の寝ころんだ姿を、赤とんぼが不思議そうに眺め、スーッと風に乗って通り過ぎて行った。夕暮れが近づくと、2人は立ち上がった。2人の足は自然と海の方に向かった。海は砂浜のずっと向こうの沖で、青い空と接触していた。2人は砂浜で下駄を脱ぎ、打ち寄せる波に足をくすぐられながら、ぼんやりと空と海の単調な景色を眺めた。海は空色だった。空は水色だった。それは美しい調和に満ちた永遠の美しさだった。少年は真理子と手を握り合って海を眺めながら思った。空が父なら海は母だと。あの頃の2人は全く純真無垢で何の煩悩も無かった。
〇
海潮音は次第に大きくなり始めた。その海潮音を発する海辺に真理子は、来てくれているだろうか。青年は胸をドキドキさせ、目的地に向かった。自分の過去の思い出の交錯を辿りながら、砂浜を歩いた。砂浜は、あの夏子の肉体のように渇いて熱気を帯び、柔らかだった。今日の砂浜は、海と一体になっているとは感じられなかった。海は海、砂浜は砂浜だった。そして自分の向かいつつあるものが結実することを信じて疑わなかった。それを信じて歩いた。紅い果実のように輝いていた夕陽は没し、海辺は薄暗くなり始めていた。幾万年となく打ち寄せる海水は重みのある潮の音を奏で漂わせ続けている。青年は、その潮の音をずっと昔、母の胎内で聴いたことのある永遠の音楽のように感じた。その音楽は砂浜の果てまで白い波を立てて、流れ続けている。果たして少年時代のように、真理子と2人、手を握り合って、岩場に坐り、永遠の音楽を聴くことが出来るだろうか。青年は海潮音と海風音の演奏を聴きながら、歩く速度を幾分、緩めた。自分の歩みが慎重になっているのに気づいた。やがて海と砂浜は、せり出す堤防によって行き止まりになる。青年の目指す目的地は、その手前の岩場だった。青年は、その岩場に近づき、その岩場の近くの砂浜に小舟が引き上げられているのを目にした。そして、その小舟にもたれかかって、夕暮れの水平線を眺めている黒い影を発見した。その黒い影は間違いなく成長した真理子だった。青年は彼女に声をかけようとしていながら、何を思ったのか、岩陰に身を隠して彼女の様子を窺った。彼女は青年が近くにいる事に気づかず、海潮音を聞きながら、ずっと遠くを眺め続けている。青年は自問自答した。
「俺は、どうすれば良いんだ。何を思って、ここに来たのか。俺がここに来たのは彼女と少年時代のように手を握り合って海を眺める為に来たんじゃあない。彼女を犯す為に来たんだ。少年時代を思い出し、少年のようなことを考えたりして、俺って馬鹿だよな。俺って本当に馬鹿だよ」
そんな事を自分に言い聞かせて岩陰に隠れる青年の脳裏に、海潮音がザザーツと覆い被さるような音を送り付け、また彼に少年時代を思い出させた。
〇
少年と少女は海の中に立っていた。打ち寄せる波が足元にぶつかって、銀色の飛沫を2人の胸まで飛散させた。小魚が足元に、ぶつかっているみたいだ。時は夏で、空には大きな入道雲が沢山、湧いていた。海上遥かを白い帆を立てて船が行く。海辺の波と戯れる風は涼しい。夏の太陽に海面が眩しく、キラキラ輝く。幼さの残る2人は青空に手を上げて、はしゃぎ回った。パンツ一つで、波を相手に戯れ、騒いだ。古代から多くの人たちが海と戯れて来たように、2人は波に向かってはしゃぎ回った。海が奏でる海潮音は海中から湧き上がって来るようで、清らかで、その清々しさにつられて、蟹や貝が砂浜から顔を覗かせた。海は遠くまで続いていた。水中に潜って目を開ければ、黒い縞模様を付けた青い小魚の群れが、列を作って泳いでいた。2人は海に向かってはしゃいだ。パンツ一つの少年と少女には、何の羞恥も虚偽も無く、海と砂浜に融合された自然そのものだった。神聖な自然の一部だった。幼い2人にとって、この浜辺での遊びは爽快で、美しい天の恵みだった。個人的意識を超越した天の導きだった。確実なる自然の秩序に満ちた生命の歓びの発散だった。そこには誰もが祈らないでいられない天啓的な愛の輝きがあった。その純真な歓びは運命的なものであり、神に感謝せねばならぬものだった。だが、幼い2人が、それに気づく筈など無かった。
〇
青年は美しい思い出を夕暮れの岩陰で消去した。目の前にある現実を重視した。今の自分は、あの少年時代とは違うのだ。故郷を離れ、東京に行く決心をしたのだ。その前に目的を果たさねばならぬ。青年は自分を鼓舞した。
「見よ。目の前に、俺を待つ真理子がいるではないか。俺は今から彼女を犯し、俺の物にするのだ。恐ろしい事だ。しかし、俺の夢を実現させる為には、彼女を犯さなければならない。たとえ、その行為が犯罪であっても、俺は彼女を犯さなければならないのだ。自分が生きて行く為に、彼女を犯さなければならないのだ。この行動は夏子との遊びとは違う。夏子とのような不健全な遊びでは無い。逸楽では無い。欲望の発散の為の快楽のように呆気ないものでは無い。この行動は自然的、運命的、行動であって快楽なんかではない。この発動は神聖な戦いなのだ。余りにも恐ろしい神との戦いなのだ。これは人間が生きて行くた為にプロメテウスによって与えられた炎なのだ。罪人的運命なのだ。俺は真理子を犯さねばならぬ。そうしなければ、俺は生きて行けない。この余りにも苦痛な俺の行為こそ、まさに正道なのだ。人間としての正しい道なのだ。罪人的人間の姿なのだ。俺の求める俺自身なのだ」
彼は自分に言い聞かせ、岩陰から、砂浜に腹這うようにして、ジワリ、ジワリと、小舟に近づいた。まるで蟹のような移動し、小舟にもたれかかり、海を見詰めている真理子に接近した。真理子は何も知らないで、海潮音を聞きながら、相手が現れるのを待っていた。青年は小舟に辿り着くと、そっと船べりにしがみつき、真理子の背後に迫った。真理子はそれに気づかず、長い黒髪を夕風になびかせ、『浜辺の歌』を唄っていた。その髪の流れは、まるで海の波のように伸びやかだった。青年は彼女の名を呼んだ。
「真理ちゃん」
「あっ、真ちゃん」
真理子が振り返った。青年は、勇気を出して、その真理子に跳び付いた。真理子はびっくりした。
「真ちゃん、何するの?」
「真理ちゃん。俺は君が好きだ」
「ああ、真ちゃん、何?何をしようとするの?」
真理子の顔に戦慄が走った。真理子は青年の手から逃れようと海辺へ走った。白い波が真理子を包み込もうとする。青年は夢中で彼女を追いかけ、彼女の手を掴み、波打ち寄せる砂浜に彼女を突き倒し、その上に跳び乗った。青年は真理子を押さえつけて言った。
「愛しているんだ」
そう告白すると、強引に接吻した。彼女のブラウスを脱がせ、胸を開いた。彼女は予想していたのか、小さな声で言った。
「真ちゃん。乱暴にしないで。洋服、濡れて汚れたら大変だから・・」
「心配するな。遠くへ放り投げた。怖がることは無い。俺の言うなりにしてくれ」
青年がそう命じた。だが彼女は頷かなかった。彼女は青年に裸にされ、砂浜の上に仰向けになり、久しぶりに会った青年を睨みつけた。青年は一方的だった。彼は今までの自分を忘却し、自己存在を強調すべく、彼女に乱暴をした。その手荒さの中に愛の欠片など見当たる筈が無かった。自己中心的な肉欲が、その総てだった。動物の自然発生的な合意などでは無く、相手を無視した人間の醜い欲望の発散だった。人間が持ち得る呪われた創造の暴力だった。青年は夢中だった。その彼を目覚めさせる凱歌のように海潮音が彼の尻を叩いた。彼は真理子を犯して、犯して、犯した。真理子は彼に跨られ、涙ぐみ、彼が吹きかける吐息に、狂ったように身をくねらせ、彼を受け入れた。大の字になって悲鳴を上げた。それは少女時代、彼と一緒になって波の飛沫を胸に浴び、青空に手を上げて歓喜し、騒いだのと違う絶叫のようだった。青年は自分の下で、魚のように跳ねる真理子を相手に、自分に言い聞かせた。
「今、自分が捕獲し犯しているのは夏子ではない。神聖で美しい処女、真理子だ。この世界で一番美しい真理子だ。その真理子を、神に提供してもらうよう俺は願っていた。その真理子を、この俺が、この俺が、初めて穢し犯しているのだ。青い果実のように新鮮であり、純真無垢な処女を、俺が堪能させてもらっているのだ。真理子は夏子なんかと違い、美しい美しい処女だ。清らかで美しい真理子の総ては、今から俺のものだ。ああ、俺の生きている世界は何て素晴らしいんだ。ああ、真理子。もっと喚け、泣け、暴れろ。俺に犯され、歓喜するお前は、今や俺のものだ。神が俺の為に提供してくれた天授の宝だ」
真理子と視線が合うと、青年は苦笑いした。彼女は辛そうな顔をしながら、相手の動きに従い、目だけは、月のように輝かせていた。乱暴されているのか、可愛がられているのか、区別出来なかった。わずかに口を開いて、ああ、真ちゃんと擦れ声を上げた。こうして青年の悪戯と強姦と征服は数分で終わった。青年に犯され、ぐったりした真理子は死んだように、さざ波の寄せる砂浜の上に白い肉体をさらして、起き上がれないでいた。青年は彼女の傍らに寝ころんで、彼女を口説いた。
「俺と一緒に東京で暮らそうや」
すると真理子は恥ずかしそうな顔をして頷いた。
〇
それから時間が経過した。既に月が真上に在った。真理子は何も無かったかのように起き上がった。砂浜には今まで人間が寝ていた痕跡がありありと残っていた。真理子は濡れている眼差しで青年をじっと見詰めて言った。
「私も東京へ行くのね」
まだ2人が裸でいるのに気づいて、慌てている青年は、真理子の問いに答えた。
「そうだ。2人で東京で暮らすんだ。それより、早く服を着ないと誰かに見られる」
2人は慌てて、衣服を身に着けた。それから2人は並んで海を眺めた。海がいやにキラキラ光っていた。青年は、先刻、真理子に暴力的行為をした事が信じられなかった。俺は本当に真理子に暴力的行為をしたのだろうか。自分の隣りにいる真理子は余りにも静かだ。2人は何も言わず、夜の海を眺めた。静波の海は美しい。優しい汐風と単調な海潮音が月下の2人を、寄り添わせようとしている。青年は真理子と手をつなぎ、真理子の中に自分の命が移植されたのだと確信した。青年の命を授かった真理子は、仕合せそうだった。その喜びの顔に彼は彼女の愛を感じた。彼は自分の存在を肯定すると共に彼女との運命的結合を果たせた事を認識することが出来た。それと共に彼は自分の罪を知った。神が企んだ人間への永遠の意地悪と愛は、自分にも提供されたのだ。神にそそのかされ罪人にされた自分は、自分の言うなりになった真理子を永遠に愛さなければならぬのだ。青年は一回性の継続による流動的な現実世界の中にあって、人間は神によって創り出された罪人だと思った。青年は自分が罪人であり、悪人であることを自覚した。彼は神に祈った。まるで罪人の如く。
「お許し下さい。私は真理子を傷つけてしまいました」
すると神は厳かに青年に告げた。
「気にすることは無い。一生懸命、彼女を愛し、彼女に尽くせば良い。その代わり、お前の青春は貰ったぞ」
青年は海潮音の中に神の啓示を聞いたような気がした。そして自分の美しかった青春時代が消え去った事を感じ取った。砂浜での青年の行為は彼から青春を奪い去り、彼に新しい未来を与えた。彼は真理子と共に青春を喪失したが、幸福感でいっぱいだった。青春の美しい日々はまさに苦悩であった。苦悩こそ青春であり、憧憬は祈りであった。彼は永遠の中の自己なるものを知った。神の戯れと愛というものを知った。この砂浜に来て今、自分が真理子と聞いている海潮音は、まさにこれから訪れるであろう幸福の跫音に相違ない。遠く眺めると、夜の空と海とがぴったりと重なり合っていた。その二色の重なり合った風景は例しえ難く、美しかった。海は2人に涼風を送り、永遠の音楽を奏でた。青年は海潮音を聞きながら神に感謝した。真理子は俺の望み通り、俺のものになったと。
《 海潮音 》終わり