谷間の子供たち
目ざめると痛みはゆっくりと着実に体中に侵入してきていた。
汗まみれのベッドの安いスプリングに体を押しあて、自分の肉体の節々が軋み、熱をもって異変を訴えているのを確かめる。
僕は数十時間ぶりに意識を取り戻し、体中をぶ厚いゴムのように覆っている痛みの刺激に耐えながら起き上がって電気をつけた。
鏡に自分の姿が映った。上半身裸で傷だらけである。とくに右肩から左胸にかけてある三日月を思わせる大きな裂傷は、古い電灯の頼りない点滅と共にじくじく傷む。
腹の辺りではその上部の傷跡から流れ出し、時間とともに凝固し始めた血の塊の欠片がところどころにこびりついて、痛々しい前日の戦いの記憶を僕に思い出させた。
時計を見ると8時を回っていた。昨日家に帰りついてから僕はほぼ1日寝ていたことになる。
急がなければ。僕は「会合」に行かなければならないのだ。
僕は汗を含んで鈍く重くなったシャツを脱ぎ捨て、新しいできるだけ綺麗なtシャツを選んで着た。そしてまさに体に傷を抱えた者のするようにぎこちなく、三日月形の裂傷を気にしながら屈みこんでズボンを履き、スマートフォンと財布と睡眠薬をポケットにねじ込んで家を出た。
家から徒歩7分のところにある山の中に点々と家々が埋め込まれたような集落群の外れに位置する古い平屋、僕らが「ホーム」と呼んでいるそれの扉を押し開けると、既に何名かが来ていた。
「どうしたの、その傷」
部屋の隅でウイスキーを飲んでいた蘭子が、僕のtシャツの胸元から見えた三日月の裂傷の切れはしを捉えて驚きながらいった。
「ああ、"D"のやつらにやられたんだ。僕がちょうど買い物から帰っているときに遭遇してね」
あいかわらず体中が傷んでいたが、僕は僕の年くらいの青年がよくやるように、自分の受けた肉体的な苦痛に関して何も気にしていないといったふうな青年特有の粗野さをさりげなく語調に演出して答えた。
「向こうは3人いたんだが僕はひとりだった。殴りかかってきて応戦したんだが多勢に無勢だった」
「奥に薬があるよ」と蘭子がいった。
「あと、ユウとアカリが眠剤で寝てる」
「いらないよ。それよりもそのウイスキーをくれ」
僕は蘭子からウイスキーをもらってひとくち飲んだ。悪酔いの味がした。
「薫さんはもう来てる?」
「まだ来てないよ。少し遅れて来るみたいだ」と座り込んでスマートフォンを触っている月尾が僕の傷には無関心そうに答えた。このとても繊細なハイ・ティーンは、未だにあらゆるものから隔絶されたような、世の中のすべてに関心がないような態度を取りつづけている。
「そうなのか。人をみんな呼びつけておいて、よく遅れてくるよなあ」とこの場にはいないにも関わらず「会合」のリーダーが行使する確かな影響力を懐かしみながら僕はいった。
「そういえばバルビツールの睡眠薬を仕入れてきてるんだ」と月尾がいった。
「飲むか?」
「僕が効かないの知ってるだろ」と僕は青年のもの覚えの悪さを侮蔑するような調子でいった。
「確かまだメジコンがあったはずだね。それをくれると嬉しいんだけど」
「飲みすぎると耐性がつくぞ」
「耐性をつけたい気分だからいいんだ」と奥の流し台で古びたコップに水を継ぎながら僕はいった。
「もっともそれは痛みへの耐性だけど」
僕がメジコンの錠剤を手に取って飲もうとしたとき、玄関の扉がギイと開いて、黒いシャツを着た長身の男が入ってきた。
「やあ」と開かれたドアにもたれかかり、こちらを見下ろしながらはにかんで薫さんはいった。切れ長の目がやや躊躇いげに柔和な均整をとり、白い歯とともにそれを見るものに心地よい安心感を与えた。
「薫さん!」蘭子が歓喜の声を上げた。
「薫さん、こんばんは」と僕は挨拶した。
「こんばんは、宗司」と薫さんが答えた。
「それと蘭ちゃん、月尾にもこんばんは。もうみんな来てるの?」
薫さんは端整な顔立ちに含まれたいくらかの緊張を解きながら周囲を見回し、襖が開いた奥の部屋にユウとアカリがいるのを確認すると、月尾のとなり、部屋の中央にゆっくりと腰を下ろした。
「"D"のやつらがのさばるようになってから、メンバーにもやはり欠席者が多くなってきたなあ。宗司、その傷どうしたんだ」
「ああ、昨日"D"のやつらにやられて」
「ひどいな!俺が肩代わりしてやりたいくらいだよ」と優しげな眼差しで僕の傷を眺め、この街の若者の代表者の慈悲と、この山間に沈みかかる自らの権力の斜陽に対抗するための空元気を備えて彼はいった。
「蘭子、そのウイスキーくれよ」
半分くらいになったウイスキーの角瓶を受けとり、薫さんは台所にある冷蔵庫の製氷機から小ぶりな氷を取り出してテーブルの上のグラスに入れ、ためらいがちにウイスキーを注いでから黙々と飲みはじめた。
彼はしばらく優しげな眼差しをいくらか憮然と重たい調子にして酔いを静かに受け止めていた。
みんな自然と無言になった。
見ると月尾も蘭子もだんだん目が虚ろになってきていた。何か薬をやっているんだろう。
僕は薫さんが昔を懐かしんでいるのかなと思った。
薫さんは間違いなくこの街の若者の代表者だった━━去年までは。
山外れの僻地を領する小さな街ではあったが、その顔役として街中に幅をきかせていた。
状況が変わったのは去年の7月。夏の盛りだった。
薫さんは25歳で、この娯楽のない田舎街のドラッグ・ディーラーとして、もしくは激情を持て余す若者のその衝動の引受人としてこの街に「薫グループ」を形成していた。
彼の兄はこの街だけでなくこの地域、この県を取り仕切る半グレグループの幹部で、その名前はこの近辺に住む若者なら誰もが知っている。
薫さんが荒みきった年下だけでなく年上とも互角に渡り合うことができた理由はここに由来する。
ただ、そんな兄の存在を抜きにしても彼ならここの首長になれていただろう。薫さんのカリスマ性は尋常ではなかった。
15歳の僕からすれば、薫さんは本当に美しい年の離れた兄で、彼は肉体的で精神的な憧れを誘うだけでなく、思春期の未発達な情動が、彼への恋慕を性的なものと同一視して、その視線に限りない甘さを感じさせてしまうほどに魅力的だった。
しかし去年の7月、薫さんの兄が幹部をやっている半グレグループが、僕たちが"D"と読んでいるグループとの抗争に敗れ、この辺りのシノギを失った。
デスだったかデンジャラスだったか、彼らの凶暴性を標榜する正式な名前があったはずだが、アルファベット1文字の略称が山間に広まると共にみんな忘れてしまった。
薫さんの兄たちがこの山を出た途端に"D"はその暴力性を街に溢れさせ、手当たり次第に薫さんに近しい「薫グループ」の幹部を襲撃、もしくは金銭や薬物のシノギをちらつかせて懐柔し、瞬く間にこの街の勢力図を塗り替えた。
そうして薫さんは後ろ盾を失い、この辺鄙な山の外れに孤立した。最初は僕らと一緒に抵抗したものの、彼らの売る薬は薫さんが売るものよりずっと安く、純度が高かった。個人商店がスーパー・マーケットに追い立てられるように、彼のグループはどんどん規模を縮小し、この古い平屋に押し込められることとなってしまった。
今では僕のような下っ端でさえ"D"から襲撃を受ける始末だ。
「俺はまだ諦めてないよ」
狭く濃い森の匂いが立ち込める古い平屋に瀰漫した沈黙を打ち破って薫さんがいった。
「俺の仲間は今何人ぐらいだ?」
彼は相当な酔いの深みをさ迷っていた。彼の目は充血し、血色の良い顔は陰鬱の色を浮かべ、アルコールの泥濘にゆっくり沈んでいっていた。僕にそれを助ける力はない。
以前は滅多に人前で酒を飲まず、薬もやらず、常に明るくいた薫さんは、"D"が来てからこういったふうに僕たちに弱みを見せることが多くなった。それは「薫グループ」の斜陽を端的にもっともよく表している事象だった。
しかし酔ったとはいえ彼は美しかった。
「俺は諦めてないよ・・・蘭子」
蘭子は答えず、ただその血中で溶けかかる睡眠薬に浸かりきった目を薫さんに向けただけだった。
「俺は1年考えてたんだ・・・まず連絡を取らなければダメだよな」
薫さんは呟き始めた。
「俺はいままで兄さんの力を借りずに色々やろうとしてきた」
「だけど・・・やっぱり助け合わないとな」
薫さんは何かを決心したようにウイスキーのグラスを置き、
そしてアルコールを孕みほの赤く充血しているが酔いの深みからは抜け出している確たる眼差しを僕と蘭子が座っているほうに向けていった。
「宗司、蘭子、俺の兄さんに会いに行こう」