その8 深淵を覗く時、深淵もまた……
泡と共に現れたものは――
青く透明な、巨大スライム状の何か。頭と思われる部分に眼球らしきものがある。
思わず身構えようとしたが、この体勢ではどうしようもない。
仕方なくそのスライム?の様子を見守っていると、それはやがて人間の、女性の形状となり始めた。
頭と思われる部分に髪が生え、眼球だけでなく鼻や唇も生まれ、柔らかな身体の線が出来ていく。ご丁寧にも、上半身には次第にブラウスらしきものまで現れた。
下半身は水中に沈み、悠季には確認出来なかったが――
そうしてあっという間に形成されたものは勿論、天木葉子の姿。その上半身。
身体を形づくる物質そのものは青いスライムのままだったが、次第にその表面にはうっすらと白い色がつきはじめている。元の素肌の色が。
確かにこれは葉子だ。少なくとも、悠季にはそう思えた。
「葉子――!」
思わず身を乗り出し、呼びかける悠季。
そんな彼の首筋に両手を伸ばしながら、葉子?は囁く。
「悠季……良かった。私の心に来てくれて。
私、ずっと待ってたの。悠季と、こうなれることを……」
その青く透明な指は悠季の首筋から鎖骨までを、そっと撫ぜる。
ひんやりとした指先の冷たさに、悠季の身体が反射的にぶるっと震えた。
よく見るとその爪のあたりだけ、何故か赤黒い。
どういうことだ。いつもの葉子と、明らかに様子が違う。
これが、本物の葉子? この自分を、いつも隠してたっていうのか?
戸惑う悠季の頬を両手で包み込み、葉子はそっと顔を引き寄せた。
そして――
「ねぇ……
私、知ってるの。
悠季は、大事な人を――」
殺 し た ん だ よ ね ?
笑顔で囁かれたその言葉。
同時に悠季の胸から腹にかけて、激痛が走った。ぐさりと冷たい刃が突き刺さったような。
その痛みが精神的なものか物理的なものか、自分でも分からない。
自分の、最も触れられたくない部分にいきなり素手で触られ、抉られた。そんな感触。
――踏み込まれる。
葉子の心に入り込んだつもりが、自分の心に容赦なく踏み込まれようとしている。
思い出すのは、三枝の言葉。
他人の心を見るならば、同時に自分の心も見ることになる――
こういうことか。
大きく見開かれた葉子の眼が、赤く濁っていく。瞳の中で、汚れた血が渦を巻くように。
「とても大切な友達を、殺した。そうでしょう?
悠季、前に私に教えてくれたけど――でも、理由までは聞けなかった。
私、怖かったから。悠季の中に踏み込むの、怖かったから。
悠季が――私の前からいなくなっちゃうかも、って思ったら。とっても、怖かった」
そう言われて、悠季は思い出す。
そうだ。俺は、葉子にも話していた。
ケイオスビースト戦の後、あの病室で二人っきりの時に。
――ベレトのことを。
「でも……
こうして閉じ込めておけば、悠季はずっと、私の中から出られないよね?
私の前から、いなくならないよね?」
「と、閉じ込めるって……お前!」
「だから私も、思い切り聞ける。
悠季のこと、たくさん知れる」
悠季に触れながら、歌うように語る葉子。
いつもの彼女をぐでんぐでんに酔わせたら、こんな感じになるだろうか。ふとそんなことを考えてしまった。
「ねぇ……悠季。
貴方が気に入らなくなったら、私も、殺すの?
ベレト君みたいに、私も、殺すの?」
刺すような言葉と共に、拘束が強まる。
葉子の二の腕から肩から、青く透きとおった柔らかな触手が飛び出し、悠季に絡みついていく。
その青は悠季から見ても美しく思えたが――
ところどころで赤黒い塊が血栓のように凝り固まり、青を汚していた。
半透明になった葉子の身体が、悠季の上に被さってくる。
その指先がネクタイを緩め、強引に襟元を引っ張り、水を吸った背広を少しずつ剥がしていく。
これが――これも、葉子の心だっていうのか?
三枝の言葉を信じるなら、まだここは表層意識のはずだろ。まだ浅い部分のはずだろ?
なのに――
「えへへ。本当に綺麗だね……悠季の身体。
ねぇ、もっと見せて。私たち……バディ、でしょ?」
そう言いながら、水の中へとぐいぐい悠季を押し込んでいく葉子。
頭上から降りそそぐ水は葉子の言葉に合わせて何故か勢いを増し、今や激しい飛沫をあげていた。
悠季を掴む葉子の右手。その指先が一気に紅に染まり、恐ろしい力で襟元を引き剝がした。
ビィッと音をたてて裂けていくワイシャツ。左肩から胸までが露わになる。
――そこにはまだ、あの傷跡があった。
スレイヴたちに『虚無石』を埋め込まれた時の痣が。
それだけではない。一度だけ葉子にも見せた、消えることのない無数の傷跡までも。
満足げにそれを眺めながら、葉子はさらにその傷を指で撫ぜた。赤黒い指先で。
「ぐ……うぅ、あ……っ!!」
触れられるたび、何故か疼く傷。身体の奥まで響く痛み。
――十年以上前の傷だってあるのに。痛み自体は、とっくになくなったはずなのに。
「悠季、なかなか見せてくれないよね。自分の身体も、心も。
だから私……いつも、不安だった。
ねぇ。ここには……どんな傷があったっけ?」
「お、おい!!」
そう呟きながら、さらにベルトにまで伸びていく葉子の指。
駄目だ。それだけは――
だが悠季が必死に身をよじっても、さらに拘束が強まるばかり。
「貴方のこと、全部知りたいの。そうでなきゃ、不安でたまらない。
いつか悠季が、私を捨てちゃうんじゃないかって。
――ベレト君みたいに」
赤く染まった葉子の指先から、微かに電撃のような火花がバチバチと走る。
それは無防備にされた悠季の胸にも跳ね、軽い衝撃でボタンまでが飛んだ。
全身に痺れが走り、思わず呻き声さえあげてしまう悠季。
違う。ベレトは……
そう口にしようとしかけたが、悠季の喉までもが葉子の手で捕らえられ、絞めつけられてしまう。
もはや完全に瞳も白目部分も真っ赤になってしまった葉子の眼球。まるで焦点が合っていない。
口の端を異常なまでに引き上げながら、笑みの形に凍りついている葉子の表情。
――これも、葉子の心なのか? 本当に?
これほどまでに重苦しい感情を、葉子はずっと……?
でも、何かが違う。悠季を縛りつける葉子の指先に、奇妙な違和感がある。
その違和感が、ずっと呼びかけている――これは葉子であって、葉子ではないと。
葉子ではないが――悠季自身の知っている、何かだと。
悠季は思い出した――ケイオスビースト戦での決着直前、唐突に自分に呼びかけてきた声を。
激しい戦闘の中、『怨毒』のスレイヴが執拗に足を掴んできた――
あの時の声を。
――また、僕を裏切るの?
ねぇ……イーグル。
この感覚は、やっぱり。
あいつは生きていた。どういう理由かは分からないが、生きてて……
こっちの世界に来て、そして――
葉子の中へ、入りやがった!!




