その3 職場を地獄に変えるチョコ
「その、問題の彼女はチーム内でも目立たない人でした。
というか、いつもチームの中では少し離れて仕事をしている人だったんです」
「というと?」
「入金管理チームは、メインの取引先となる大企業の契約を主に扱っていますが――
その中でも、書類の取扱いなどが他と違って難しい得意先がありまして。
そういう契約を主に扱っているのが、彼女のチームなんです。
通常は二人いるんですが、一人が育休で不在なので、今は実質彼女一人ですね」
「へぇ、なるほどな。
つまり、チーム内の別チームみたいなもんか」
「だから彼女、僕たちと一緒に仕事をすることは殆どなかったんです。
忙しいしお酒が駄目だからと、飲み会も殆ど断っている人で……
他と違って、すごく落ち着いた人だなって、最初は思ってました」
悠季がコーヒーを一口啜りながら、静かに尋ねる。
「ちなみに、名前は?」
一瞬、私はびくりと肩を震わせた。
藤田さんの名前が出てきやしないかと、ほんの少し身体が強張ったが――
岩尾君の口から飛び出した名は、私もよく知らない人のものだった。
「河澄さんです」
急いでその名を脳内データベースで検索してみたが、悠季の反応の方が遥かに早かった。
「河澄……
いつも壁際で、ひっそり作業してるあいつか」
そう。オフィスの殆どの人間に対して背を向けるような位置の壁際で、常にパソコンに向き合っているかのような印象の女性。
度の強い眼鏡をかけており、長い髪を後ろでひっつめにしている。
年齢がよく分からないレベルで肌が白く、すごく物静かで真面目そうで、ベテランらしい貫禄もある。
そんな彼女が――どうして?
「あの女が、お前のストーカーを?
なんか、腑に落ちねぇな……」
天井を見上げながら、悠季はじっと腕組みしつつ考え込む。
そして、何か思いついたように尋ねた。
「この世界は、2月がその、バレンタインとかいう祭りで……
女が好きな男にチョコをあげるとかいう話だったよな。
3月になると確か、そのお返しで男が女にクッキーをあげるとか。
ホワイトデー、だったっけ」
「そうです。
さすが神城さん、ちゃんとこちらの世界の行事も把握してらっしゃるんですね!」
ぽんと手を叩く岩尾君。
しかしすぐに肩を落として、思い出したくないように首を振る。
「ただ……僕の場合、義理チョコと称して大量の安いチョコをチーム全員から山のように押し付けられましたけどね」
「義理チョコ?」
さすがにそこまでの知識は、高次記憶伝播術でもインプット出来なかったのか。
悠季はまたもやコテンと首を傾げる。
「あぁ、女性がチョコを贈る相手は、別に意中の相手だけじゃないんですよ。
お世話になっている職場の先輩とか上司とか部下とか、家族に贈る場合もあります。
だいたいそういうチョコは、本命相手のそれより遥かに安価だったりする。
そういうチョコが、いわゆる義理チョコと言われてるんです」
「へ……へぇ~~?」
悠季の顔が、半笑いのまま引きつりだす。
言葉は分かるが、意味が納得出来ない。そんな表情。
「そして……恐ろしいことにですね。
義理チョコを貰った場合でも、ホワイトデーにはお返しを要求されるんです」
「へ?」
「表立っての要求こそないですが、無言の圧という奴ですね。
ホワイトデーになると、朝っぱらから感じるんですよ。オフィス全体から、お返しはまだかっていう空気が。
入社1年目のホワイトデーなんかもう、ちょっとしたホラーでした」
案の定、悠季は前髪をぐしゃぐしゃとかきむしりながら呻きだしていた。
「あ~~、何だそれ!? メンッドくせぇ!!
何でそんな行事が職場でもあるんだよ。ただでさえ仕事でいっぱいいっぱいなのに、そんなことにまで気を遣わなきゃなんねぇのか。
そこでしくじったら、人間関係崩壊しかねないんじゃ……」
岩尾君はそんな悠季をじっと見つめながら、一口コーヒーを啜る。
「神城さんも他人事じゃないですよ?
2月になったらきっと、義理チョコが大量に貴方の元へと」
「いらねーよ!
俺は葉子以外からは絶対受け取らねーからな! お返しとやらも葉子以外にはするつもりねぇ!!」
悠季――そう言ってくれるのは本当に嬉しい。
だけどね。
「それじゃ、悠季。沙織さんから貰っても拒否するの?
そういうわけにはいかないでしょ」
「あ。
いや、それは……その……」
「例え義理チョコだって、そこには職場の人たちの感謝の想いがこめられているの。
それを無下に拒否するのは、とても難しいよ」
「だったら……
職場全体でそういうの、禁止に出来ねぇのか」
「元々ウチの職場は虚礼廃止で、年賀状やお歳暮などのやり取りは禁止されてる。
でも、バレンタインやホワイトデーのやり取りは、どういうわけか見逃されてるんだよね。
抜け駆けする人が多いせいかな」
「葉子が知らないだけで、実は年賀状や歳暮とやらもこっそりやってる奴はいるのかもな」
う。それはあるかも……
でも、今回の河澄さんと今の話、何の関係があるんだろう。
そんな私の疑問に答えるように、岩尾君はぽつぽつと話し始めた。
「話を戻すとですね……
今年の2月に河澄さんからチョコを頂いて、同時に僕……
本気です、って言われたんですよ」
うわぁ。
完全に告白じゃないか。
「僕には勿論そのつもりはなかったし、彼女はあくまで同僚の一人にすぎなかった。
その時の僕は、情けないですが、はっきりとは答えられなくて。
どうしようか迷っている間に、彼女は走り去ってしまったんです。多分、恥ずかしかったんでしょうね。
それを皮切りに、彼女はどんどん僕に接近しようとして。
彼女が本気だっていうのはもう分かっていたので、僕は何とか逃げ回っていたんです……」
逃げ回っていた?
彼女に自分の気持ちを、伝えることもせずに?
そんな私の疑問を、悠季が代弁してくれた。
「逃げ回るだけじゃなく、ちゃんと伝えたらどうなんだ?
僕は貴方とお付き合いするつもりはない、と」
岩尾君はため息をつきながら、さらに肩を落とす。
「勿論、それは考えました。
だけど、その時点で僕はもう、怖かったんですよ。
乗る車輛や時間帯をどれほど変えても現れる彼女も怖かったし、自宅までついてこられたらと思うと、気が気じゃありませんでした。
それに、直接彼女に気持ちを伝えて、ただでさえ複雑な職場の人間関係がさらに滅茶苦茶になるのが、怖かった。
でも、結論から言えば……神城さんの言うとおりでした」
女性だらけの職場の中、岩尾君のストレスは半端じゃないだろうとは思っていたけれど。
まさか、そんな事態になっていたとは。全く気づかなかった。
藤田さんからも、河澄さんの話は出たことなかったし。
「……なるほどな。
それで? 3月のホワイトデーの時は、どうしたんだ」
悠季が先を促すと、岩尾君は一旦ごくりと唾を呑み込んだ。
そして、非常に言いづらそうに顔をしかめる。
「僕は、ずっと考えてました。
その気がないことを、何とか河澄さんに伝える方法はないかって。
相手がストーカーまがいのことをしてくる以上、面と向かって1対1で話したのでは、こじれる危険もあると思いました。
それで……僕、ホワイトデーを利用したんです」
利用した?
それって、どういう……?
首を傾げた私に、岩尾君はそっと視線を向けた。
「天木さん、覚えてません?
今年の3月、ホワイトデーに僕、天木さんにもクッキーをお渡ししたこと」
「え?
あ、あぁ! そういえば!!」
今更思い出した。
岩尾君がホワイトデーの日、チームの人たちは勿論、チーム外の女性にまでクッキーを配っていたことを。
私は、彼に義理チョコすら渡していなかったのにも関わらず、だ。
その時は、ものすごく色々気を遣う人なんだなぁと思っただけだったけど――
彼の口から明かされたのは、とんでもない事実。
「僕はその時、オフィスの女性全員に、お返しのクッキーを配りました。
河澄さん一人を除く、全員に」




