その53 教師だからって、子供に何してもいいと思うなよ
クソババア。
悠季がその言葉を浴びせた瞬間、教師の動きが一瞬、止まった。
何を言われたのか分からないと言いたげに、その眼球が飛び出しかかる。
それでも悠季は敢然と言い放った。唇に笑みさえ浮かべて。
「お前さぁ……
そんなナリでも何とか結婚できたってのに、すぐ旦那に浮気されちまうぜ?
あー、もしかしたら、もうされてるってか。そりゃそんなブヨブヨのクソデブ、しかもしょーもないことでよく怒鳴るヒスババアなんざ、旦那もご愁傷様だよ。
だけど、それで人様から預かった子供に対してヒステリーはないんじゃねぇの?」
この教師が既婚という情報は誰から入手しているわけでもなかったが、この世界にいるうちに何となく脳に入っていた。おそらく悠季が最初に見た景色と同じように、当時の葉子の記憶の一部がおぼろげながら入ってきたのだろう。
だがそれ以外はほぼ悠季の推測、つまりあてずっぽうである。シーフ時代にはよく使ったハッタリであるが、どこまで通用するか。
それでも案の定、さらなる激昂で女教師の目は紅蓮にゴウゴウと燃え盛った。
『き、きさま……教師に向かって何を!!』
「教師だからって、子供に何してもいいと思うなよ。
てめぇが葉子にやってることは、指導でも何でもない。葉子を傷つけた上に他のガキどもを強制的に意のままに操る、暴力でしかない。
それは子供の心を恐怖で縛り抑えつける、支配者のやり方でしかねぇんだよ」
『何も知らないガキが、知った風な口をきくんじゃない!』
それ以上はまともな言葉にならず、ただただ悠季に向かって吼え続ける教師。その姿はもはや人間とは思えない血まみれの肉塊と変貌し、ほぼ異形と言っても差し支えない。
勿論これは現実の女教師がそうだったわけではない。葉子のトラウマの影響で、女教師をそう見せているのだろう。あまりに心に深く棲みつき肥大化したトラウマは、今もこうして葉子を蝕んでいる。
しかしその隙を利用して、悠季は女教師の記憶を探った。正確には、女教師に関する葉子の記憶を。
彼女の精神世界に長くいた賜物か、表層的な記憶であればある程度読めるようになってしまった。それが喜ばしいことなのか、悠季には分からなかったが。
「何も知らない……ねぇ。
お前こそ、何を知ってる? 葉子の何を知ってる?
ガキどもの、何を知ってる?」
「――――」
教師は答えない。くぐもった声を喉の奥で鳴らしながら、悠季を睨みつけているだけだ。
恐らく葉子の記憶の中で、このような形で教師に反抗した子供が皆無だったのだろう。「子供からの抵抗」は、この教師の――少なくとも葉子の中に棲息するこの『怪物』の中では、ありえないデータなのだ。つまり再現が困難。
かけられるはずのない「NO」を提示されたことで、教師は再びこう答えざるを得ない。
『何も知らないガキが、知った風な口をきくんじゃない!
この、生意気な不良が!!』
まるで「はい」以外の答えを許さないRPGのように、さっきとほぼ同じ答えを繰り返す教師。違うのは「不良」といった単語だけだ。
確か、さっきも葉子の母親が「不良」と言っていた気がする。街をほっつき歩いているらしい不良集団とか。
現実の葉子からも聞いたことがある。小さい頃住んでいた地域では子供が不良化し、学校や街を荒らし回ることも多かったと。
こういった教師たちの横暴も、それゆえかも知れない――
しかし、だからといって葉子を傷つけていい理由にはならない。
相手を挑発するかのような薄ら笑いを敢えて浮かべながら、悠季は慎重に教師についての記憶を探っていく。そして。
「お前、いくつだ?
贅肉もスゲーが白髪も多いし肌はシワシワだし、見た目は完全に40、ヘタしたら50過ぎに見えるけどな。ていうか、今の現実世界じゃお前より若く見える50代なんていくらでもいるけど……
え、25? マジかよ」
『――!!』
この挑発に、非常に分かりやすく怒気を露わにする教師。鼻孔から放たれる熱気は最早噴煙と表現しても差し支えない。
だが、年齢に関しては悠季も少し驚いた。今の葉子や自分と、そこまで変わらない年齢じゃないか。
確か、広瀬からも聞いたことがある。この国で「教師」と呼ばれる者たちは――
「お前、自分のことを教師だ先生だとか散々崇められて舞い上がってんのかも知れないけどよ。
勉強ばっかりの大学出てから会社勤めもしたことねぇし、正社員で働いたこともねぇ。
社会人の何たるかをろくに知らないひよっ子同然の癖して、子供に向かって神様ヅラかよ。
そりゃ子供も不良になるぜ。それこそ俺みたいにな」
そう呟きながら、悠季はそっと身を屈めた。
いつの間にか目の前に転がっていたのは、先ほど教師に潰された、粘土人形の頭。
それを静かに拾い上げながら、悠季は呟く。
「まぁ、確かに土台はユルユルだったかも知れないが……
それでも、顔はきちんと可愛く整ってんじゃねーか。眉や睫毛までバッチリ作ってるとか、なかなか出来ることじゃないぜ?
それすら分からずいきなりぶっ潰すとは、お前こそただの暴れたがりの子供じゃねーか。子供が子供教えてどーすんだよ」
このような悠季の言葉と教師の様子を、じっと見つめていた葉子。
最初は勿論教師の風体にただただ恐怖するばかりだったが、あまりに堂々たる悠季の態度に、次第にその瞳から怯えが消えていく。
「葉子。こんなのの言うこと、マジで信じるこたぁないぜ?
まぁ、この時のお前に言っても無理なのも仕方ねぇが……
少なくとも、こんなのの言葉を真に受けてお前が傷つくことなんて、絶対にない。
猿山のボス猿……いや、自分をボス猿だと思っているクソガキババアが暴れ回っているだけだからな」
『さ……猿以下……だと……!』
「こんなの」の部分を敢えて強調し、葉子を庇う悠季。
これ以上やったら、何が起こるか分からない――その危険を肌で感じながらも、彼は葉子にウィンクしてみせた。
「俺にはちょっとした能力があってな。未来を見ることが出来るんだぜ、葉子?」
「えっ?」
「勿論、お前の未来も少しぐらいなら分かる。
大丈夫。お前は、駄目なヤツなんかにはならない。こいつと同じぐらいのトシにはお前、滅茶苦茶に優しくて強くて努力家の、いい女になってんだからさ」
「――!」
そんな悠季の言葉に、少しずつ眼の光を取り戻していく葉子。
さらに教師を睨み返し、挑発を続ける悠季。
「俺ぁ知ってんだ……葉子が大人になった頃の未来、教師たちがどんなことになってるかも。
お前みたいに子供に理不尽な暴力暴言無双な教師は世間で叩かれまくり、ヘタすりゃ警察のご厄介。教師なんて未来じゃとても肩身狭く、授業中に暴れる子供を注意するだけでもひと苦労。
勿論、親だってもう教師なんか信じちゃいねぇ。だから学校にゃ親のクレームがひっきりなしに入ってる。教師たちはそいつにビクビクしながら、土日も休みなく働かされる毎日だぜ?」
『グゥ……ゴォオ……!』
最早言い返す術がないのか、唇の端から軽くよだれまで垂らしながら呻く教師。
厚く塗られた真っ赤な口紅が剥がれ落ち、よだれに混じり彼女の口角を汚した。
「そんな風に教師の立場がやたら危うくなっちまったのも、昔てめぇみたいなのが散々暴れ回ったから、かもな~」
教師はそんな悠季に直接は答えず、その代わりに教室中に響き渡る大音声で子供たちに怒鳴った。
『聞いたか! このクソガキの言いざまを!
お前たちも、こんな奴の言葉など聞くんじゃない!! おかしなアニメや漫画ばかり見て先生の言うことを真面目に聞かないから、大人にこんな嘘ばかりを吐くクズ、不良になるんだ!!』
教師がそう叫んだ瞬間、子供たちの視線が一斉に悠季と葉子を睨みつけた。
子供特有の、むきだしの敵意、嘲笑、嫌悪、侮蔑。それしかない感情が音のない圧力となって二人に集中し、葉子は再び震え上がってしまう。
この状況に、さすがの悠季も軽く唇を噛んだ。
――俺を言い負かせないと分かると、即座に他の子供の力に頼るか。
悠季にも分かっている。同じ子供の視線は、子供ならより強く感じ取ってしまうことぐらい。
純粋なだけに染まりやすい子供たちは、とっくにこの教師の暴力に屈した。ひたすらに教師が神、教師が絶対正義だと信じている。この、教室とか学校とかいう小さな小さな世界の中で。
そしてそれに従えない悠季は勿論、ついていけない葉子は――子供たちにとっては駄目人間であり、侮蔑すべき対象でしかない。
教師の暴力は勿論、子供たちのこういった蔑視もまた、葉子にとっては心の傷になっていたのは間違いない。
本来は仲間であり、大人に傷つけられる者同士であるはずの子供たち。そんな彼らから容赦ない視線を向けられるのは、教師の罵倒と同じくらい傷ついたに違いない。
さらに最悪なのは、教師も恐らく子供たちのそういう特性を利用して、自分に従えない子供、自分の気に入らない子供を容赦なく叩き潰し、排除しようとしている点だ。
それも、「子供の為」「お前たちの為」などとお題目のように唱えながら。
――何も変わらないじゃないか。
あの屋敷で、子供たちにひたすら暴力をふるい続けていたオーランドと。
そんな敵意の渦から葉子を守りながら――
悠季はそれでも、薄い軽蔑の笑みを浮かべる。
「俺を従わせようったって無駄だぜ?
葉子と違って俺は完全に、この腐った教室の理の外にいる。てめぇがどれほどガキどもを暴力で服従させようが、俺がてめぇに頭を下げることなんぞありはしねぇ――
葉子を傷つける限りな」
『何を言うか!
傷つけるなどとんでもない。私は天木の為に敢えて厳しく叱っているまでだ!』
そして教師は不意に悠季を無視し、その背後で震え続ける葉子を覗き込む。
黒縁眼鏡の奥の大きなギョロ眼が、笑いの形に歪んだ。
『なぁ、分かるだろう? 天木。
私はお前が不良にならない為に、お前の為を思って、こうしているんだぞ?』
ひとしきり怒号を発した後は、突然猫なで声に変わり葉子を見据える教師。
その声音の変わりようには、悠季さえも若干驚いた。これまで発していたものとは段違いに優しい声に、当然葉子も顔を上げてまじまじと教師を見つめる。
「せんせ……い?」
ガタガタ震えながらも、必死で教師と言葉を交わそうとする葉子。
その瞳は明確に言っていた――
先生はやっぱり、私のことを考えてくれている。
私に厳しいのは、私がダメだから。
これは暴力なんかじゃなくて、ダメな私を直す為なんだ。先生は好きでこんなことしてるわけじゃない――
そんな彼女を見て、悠季はどこかで深い諦念を感じてしまった。
ただしそれは決して、葉子に対してではない。葉子の優しさと純真さを利用しようとする奴らに対して、だ。
――そう、葉子は信じたいんだ。どれほどの暴力暴言をふるわれようと、きっと相手は自分のことを思って言っているんだと。
会社でもそうだったし、あのDV野郎に対してもそうだった。きっと人は誰もが本来は優しく、どれほど厳しくとも自分を想ってやって「くれている」のだと……
葉子はこの頃からずっと、そう信じていたに違いない。その結果引き起こされたのが、悪意に満ちたパワハラに暴力だったが。
それでも葉子は、悠季のセーラー服の裾をきゅっと掴みながら、かすれた声で訴える。
「ひ……ひどいこと言うのは、やめて。
先生はきっと、私のことを考えてくれてるの。
ダメなのは、私、だから……その……」
俯きながらも必死で悠季を止めようとする葉子。
そんな彼女を眺めながら、満足そうに笑う教師。
『そうだぞー、天木。
ちゃんと先生の言うことを聞いて、みんなと同じように勉強も運動もきちんとして、机をきれいにして、宿題もちゃんとやって忘れものをしないようにすれば、先生だって怒ることはないし、お前が不良になることもない。
な~ぁ、天木。分かるだろう?』
――あぁ。こういう手段に、散々葉子も子供たちも、親たちまでも騙されてきたんだ。
「教育」の名のもとにアメとムチを使い分けて子供たちを心の底まで支配し、親や周囲の大人たちには決して粗暴には振舞わず、いい教師の顔しか見せない。
そんなところまで、オーランドの時と一緒とは。
「……てめぇも学校も嫌だから、宿題なんてやる気にならないし忘れものだってするって考えには至らねぇのかよ。
頭ごなしに怒る前に、その原因が何かを少しは考えたらどうだ。その腐った頭で」
『――!
まだ言うか、この不良がァ!!』
その瞬間、教室中の空気が一気に変貌した。どす黒い悪意に満ちた空間に。
いや、悪意だけならこれまでも満ち満ちていたが、それが肉眼でもはっきり見える真っ黒な霧へ変わっていく。
霧は見る間に子供たちを包み、その表情もせせら嗤いも覆い隠していく。
――よくよく見るとその黒い霧は、教師の身体から噴出していた。目に鼻の穴に口はもとより、ジャージの胸元から裾にいたるまで、あらゆる場所から噴煙の如く霧を吐き出していく教師。
その霧は妙に生暖かい上、腐った魚にも似た臭気を帯びていた。
「い、嫌ぁあ!!」
あまりの状況に、反射的に身を屈める葉子。
彼女の周囲から霧を振り払いながら、悠季はなおも教師に立ち向かう。その姿は霧に包まれ、いつしか奇妙に巨大化しつつあった。
――何か、来る。
言い知れぬ嫌な予感に、ほんの少しだけ脚を震わせる悠季。
それでも葉子の前に立ちはだかりながら、笑みを崩すことなく言い放った。
「お前の言う不良ってのがどんなもんかは知らんけどよ。
お前の基準で言うなら、確かに俺も立派な不良だろうぜ。なんたって泥棒集団のリーダーだからな♪」
「えっ?」
悠季がそう言葉にし、葉子が戸惑いを露わにした、その刹那。
どす黒い霧の中で、教師の二つの眼球が真っ赤に光った――