その52 融合する悪夢
――イーグル。
お前は永遠に、私のものだ。
ここから出ようなんて、くだらない夢を見るのはやめなさい。
血まみれの少女を前に、動けなくなった自分。
その背後からかけられた、身の毛もよだつ声。
全身を震わせ、骨の髄まで凍らせてくる声。
背中に無遠慮に伸ばされる、毛むくじゃらの手。
これまで自分を好きに弄っては操ってきた、汚い大人の手。
――俺は、それに断固抵抗する為に、少女のもとまで来たのに。
声を聞いた瞬間、手を見た瞬間、全身が固まってしまった。
いつだってその声を聞く時、俺は言いなりになってしまった。
どれほど抵抗しようとしても、無駄だった。
暴れれば殴られ、抑えつけられ、もっと痛い目に遭わされる。
それは俺だけじゃなく、他の奴らだって一緒だったけど……
どういうわけか俺だけは、他の奴らより散々いたぶられた。
「奴」がほざいたところによれば、俺には世にも稀なる術の才能があるから。
多分それも事実ではあったのだろう。だが恐らく理由は他にもあった。
「教育」「お前の為」「お前の才能の為」と言われまくって毎日毎晩俺がやられたことを考えたら、おのずと想像はつく。
幼い手には重すぎる大剣を引きずり、その刃からぽたぽたと血を滴らせながら、少女のいる部屋に飛び込んだはずの自分。
それなのに――
俺はこの時、何も出来なかった。
少女を助けることも、少女を守ることも。
地獄に囚われ苦しめられ続けた、多くの仲間を救うことも。
そんな悠季を嘲笑うかのように、大きく両手を広げる『あの男』。
――オーランド。
ずっと悠季を――イーグルを、「育てる」「才能を開花させる」という名目で痛めつけ、凌辱し、汚し続けた男。
その唇の端が、ニタリと明確に歪んだ。血まみれのまま、茫然とした少年を目の前にして。
――そうだよ、イーグル。
『あの娘』は、実に良い贄となってくれた。
悠季を捉えて決して離さない、忌まわしい過去。
その亡霊が今、葉子の精神世界の奥底で悠季に語りかける。
絶対に逃げられない現実を示すかのように、悠季を見つめ続ける血まみれの少女。
悠季は思い出す――
全て、計算づくだったのか。
俺が仲間を集めて反乱を起こすことも、この娘を救いたいと考えていたことも、てめぇは……
多分あの時俺は、そう聞いたはずだ。
そうして、返ってきた言葉は。
――全ては、愛するお前を強くする為。私は心を鬼にした。
おかげでお前はこうして、世界で最も美しく、強くなってくれたよ。
そうだ。あの頃俺は、オーランドによく小綺麗な服を着せられた。
一時は「平民どもの内情を知る為」と称して学校に行かされたことさえあり、その時はよく水兵服を着ていたっけ。だいたい、奴が行なう「術研究」「術修行」とやらで数日でボロボロになってたけど。
この時もちょうど、結構上等な執事服に白のブラウスといった恰好をさせられていたはずだ。
当然、この場に至る死闘の連続で見る影もないほど切り刻まれてはいたが――
そんな俺を眺めながら、奴は明らかに興奮していた。股ぐらを見るまでもなく。
――昔から、お前はとても愛らしかった。
子供の癖に何度も私に歯向かってきたものだが、そのたびに徹底的に叩きのめし、屈辱と羞恥に歪むお前の表情は至高だったよ。
何度闘技場に放り込んでも、魔物を使った術実験を繰り返しても、お前は必死に耐えてくれたよなぁ。
他のゴミどもがすぐに壊れても、お前はただ一人ずっと屈せず、いつまでも真っすぐに私を睨んでくれたよなぁ?
お前は本当に素晴らしい。私の究極の宝物だ。愛しているよ。
そう言われた瞬間、俺は確信したんだっけ。
自分の命も生涯も、全てこの化け物の掌の上だったと。
この少女を救う為、屋敷に囚われていた皆を必死で扇動し、反乱を起こしたことさえも――
オーランドの手で、強制的に屋敷に連れてこられた美しい金髪の少女。
両親と一緒に馬車に乗っていたところを盗賊どもに襲われ、家族は皆殺しにされ、そこをたまたまオーランドが救ったのだという。
どう考えてもオーランドの手の者が襲ったとしか思えない。奴は術の才能があると見た子供や、自分の好みの子供を執拗に追いかけまわしては、そういった所業をはたらいた――
実際、俺が連れてこられた手段とほぼ同じだった。俺の場合は殆ど物心つかないうちにやられたから、家族の復讐という思考に至らなかったのは幸か不幸か。
偶然にもこの少女と会話する機会があり、俺はその境遇に共感し、その優しさに触れた。
夜ごとに何度も傷つく俺を労わってくれたし、自分がつらいにも関わらず心から心配してくれた。
なのに――
俺は、彼女を救えなかった。
それどころか、彼女を救いオーランドを倒す為だけに、他の仲間たちの殆どを巻き込み、死なせた。
どんなにリーダー風をふかしていても、どれほど強い術を使えようとも、俺はただの子供にすぎなかった。
ガキの杜撰な計画は、全て奴には筒抜け。まさにこの瞬間に絶望のとどめを刺す為、俺の反乱は敢えて放置されていた。
つまり俺はずっと、奴の思うがままに踊らされていただけだった。
その究極が、この瞬間。
――そんなことないよ、イーグル。
炎と血の香りの中、聞こえてきたのはベレトの声。
――君は確かにこの瞬間、オーランドを倒した。
あの剣で心臓をぶっ刺して、奴は息絶えた。
犠牲はとてつもなく大きかったけれど、おかげで僕と君、そしてアガタだけは、何とか助かったじゃないか。
「だけどな、ベレト。
それさえも……奴の望みだった。
俺が奴に反逆し、奴を殺すこと自体が。
その証拠に……奴は言いやがったんだよ。
――『ついに、完成した』ってな」
ベレトは答えない。
「正確には、『ついに完成した。お前のその姿こそ、私の求めていた究極の……』だけどな。
その先は分かんねぇ。俺がぶった斬ったから。
それに、ベレト。その時助けたお前だって……結局は……」
――イーグル。
僕は、ずっと不安だった。
君がずっと、オーランドの影に……そして、僕の影に怯えてるんじゃないかって……
だが、その言葉が終わらないうちに。
絶叫が、闇を裂いた。
「い、いやああぁあああぁあああっ!!?
何、これ……?
これ、あなたの世界……なの??」
そこに立ち尽くしていたのは、いつの間にか場に紛れ込んできた葉子。
しかも、血を流し物言わぬ少女のすぐ横で、彼女はこの光景を凝視し続けている。
「こんな酷い世界に……
あなたは、ずっと、いたの?」
そんな葉子の問いに答えようとする前に、周囲の闇からざわめきが湧きあがる。
否。それはざわめきというより、嘲笑だった。
何も出来ないイーグルを嘲笑う大人たち。そして、つるし上げを喰らう葉子をバカにする子供たち。
その両方の嗤いが混ざり合い、不気味に空間を揺らしてくる。
そして、オーランドの影に重なるが如く浮かび上がったのは――
例の、でっぷりしたジャージ姿。あの女教師だった。
『あ、ま、ぎぃ~』
『あい、して、いるよ~』
『に、げ、る、なぁああぁあああぁああ!!!』
教師の怒声とオーランドの猫なで声が混ざり合い、それは非常に生理的嫌悪感を催す音声及び台詞となって悠季の背筋を震わせた。
当然、あまりの恐怖に立ちすくむ葉子。
「い、いやぁ!」
「下がれ、葉子!!」
本能的に悠季は葉子の前に飛び出し、教師の前に立ちふさがる。
悠季の全てを凌辱してきたオーランド。
葉子の全てを否定し、怒声を浴びせる教師。
その二人が悪魔合体でもしたかの如く闇の中で歪み、溶けあい、左半分がオーランドに、右半分が教師へと強引に変化を遂げていく。
奇しくも女教師の巨大な顔面はオーランドのそれとあまりサイズが変わらず、合体するにはちょうどいい大きさだった。ただしその表情は一方が怒り、もう一方が愉悦に歪み、吐き気を催すほど気持ちが悪い。
怒りで真っ赤に充血した女教師の右眼と、淫らな欲望で燃え上がったオーランドの左眼が、同時に二人を見据えた。
――だがもう、この期に及んで黙っている悠季ではなかった。
オーランドはもう、この世のどこにもいない。今俺を苦しめているのは、過去の亡霊にすぎない。
ならば、俺のやるべきことは。
すぐ背後で震え続ける、幼い葉子。
恐怖で高まる心音と荒れる呼吸をすぐ耳元で感じながら、悠季は一言一言、はっきりと言ってのけた。目の前で膨張を続ける怪物に。
「いつまでも、他人の子供でしょーもねぇ鬱憤はらしてんじゃねぇよ。
クソババァが」