その51 潰される人形、潰される心
消えない記憶に苦しむ悠季。
その眼前で、さらに責められ続ける葉子。
「さっさとやるんだ! 何をグズグズしてる!
お前はホントーに毎日毎日、ダメな奴だ!!」
鉄棒にぶら下がったままの葉子に、容赦なく浴びせられる罵声。
クラス中の子供たちが彼女を注視し、嗤っている。
「や……やめてぇ……
もう、許し……て……」
葉子の手は次第に汗ばみ、棒から落ちないよう掴まることさえおぼつかなくなっていく。
――そして。
「――!!」
必死の努力も虚しく遂に葉子は、鉄棒から落ちてしまった。
固い砂地のグラウンドに直接腰を打ち、しばらく動けなくなってしまう葉子。
それを待ってましたと言わんばかりに、どっと笑い出すクラスの子供たち。
さらに。
「全くお前は……出来損ないめ!
さっさと戻れ!!」
そう怒鳴りながら、葉子の細い腰を思い切り平手でぶん殴る教師。
何とか立ち上がりかけていた葉子だったが、その一発でまた転びかけてしまった。
それでも痛みをこらえ、よたよたと列に戻る。その顔は砂と涙にまみれ、ぐしゃぐしゃだ。
砂だらけになってしまった彼女を、汚物を見るような目で眺める子供たち。容赦のない笑い声。
――あぁ……そうか。
環境は全く違うけど、結局は同じだったのかも知れない。俺と、葉子は。
子供を導くべき立場の大人に、ひたすら殴られるばかりだったのは。
苦手な場所に無理矢理連れ出されて、苦手なことを強要されて。
出来なかったら出来損ない呼ばわり。
これは……
学校なんか、行きたくなくなって当然だろう。
悠季がそう感じたその時、またしても風景が変わった。
グラウンドも学校も、教師も子供たちもぐにゃりと歪み、全てが黒く塗りつぶされていく。
やがて闇の底から浮かび上がったのは、教室。
子供たちが楽しげに、それぞれの机に新聞紙を敷き、その上で灰色の粘土をいじっていた。
犬、熊、パンダ、馬。中には人間を象ったものもある。
子供たちはそれぞれ思い思いの粘土像を、楽しく作り上げていた。他の友達とじゃれ合いながら。
ただし、教室の窓際――
一番前の席でぽつんと座らされている葉子。彼女だけは誰とも喋ることなく、ただ淡々と粘土をいじっていた。
その手は懸命に、粘土を人の形に作り上げようとしている。恐らく、ドレスを着た女の子を作ろうとしているのだろう。
何とも不器用に、ゆっくりと粘土を重ねては首をかしげている。ドレスの形がうまく作れず、四苦八苦しているようだ。勿論、進み具合は他の子たちよりも大分遅れている。
ドレス自体は、小さな粘土の花や星、フリルをつけて葉子なりに工夫を凝らしているが、人の形自体があまりよろしくないようにも見えた。長い髪やドレスが重しとなって、全体がやたらぐらぐらしている。
よく見ると、ドレスから下に突き出た両脚があまりに細すぎて、そこから上の部分を支え切れていなかった。
そこへまた響いたのは、ベレトの囁き。
――確かにこのぐらいの歳じゃ、土台が大事だってのはなかなか分からないよね。
僕らもよく、ヒマな時には泥人形作ってたけどさ。強く見せようとして剣だの槍だの宝玉だの大量にくっつけてた奴の人形は、すぐぶっ倒れてたなぁ。
葉子を眺めながら、ベレトの言葉に悠季も苦笑いを隠せない。
「だけど、何となく分かるぜ。
色々飾り立てると強く見えるし、可愛らしく見えるかも?って思いがちなんだよ。そうやって失敗しながら、だんだんと強くなっていくもんだ。
なんたって、葉子はそうやって俺を育ててくれたんだからな。
ガキんちょの頃から、失敗を重ねてもコツコツ積み上げていくところ、何も変わらな――」
だがその瞬間、葉子の眼前に現れたのは――
またあの、ずんぐり肥ったジャージ姿の女教師だった。
「……!」
当然、びくりと身体をちぢこめる葉子。
ぶるぶる震えながら、粘土を触っていた手を反射的に引っ込める。
そんな彼女の様子に目ざとく気づいた教師は、黒縁眼鏡の奥の眼球を光らせた。
ぎょろりと音が出そうなほどに。
非常に嫌な予感がして、悠季も身構えた。
教師の口端が、にやりと引きつった気がした――その瞬間。
グチュッ
「あ……っ」
教師の右手が大きく粘土像の上に伸ばされ、一気に叩き潰した。葉子が懸命に作り上げていた像を。
何が起こったか一瞬では理解できなかったのか、拍子抜けしたかの如き葉子のかすれ声。
彼女が必死で作っていたドレスも、裾を形作っていたレースも、星も花も宝石も
全てが教師の一撃のもとに潰された。
細かった人形の首が根こそぎもげ、ころころと転がり、力なく床に落ちていく。
茫然とした葉子の上から降りそそぐ、教師の罵倒。
「天木!
お前もこの人形と同じだ。元々の土台が弱っちいから、こうなる!!
どれほどうわべを取り繕おうと、親からどれほど甘やかされようと、世間に出ればすぐ貧弱な本性が現れる!!」
そう叫びながらさらに教師は、葉子の机を強引に掴み、なぎ倒した。まるで癇癪でも起こしたかのように、容赦なく。
轟音と共にひっくり返る葉子の机。彼女の小さな悲鳴は誰にも届かない。
そして机の中から放り出される中身。
そこには教科書やノートだけではなく、ボロボロになったプリントの数々、給食の食べかけのコッペパンまでが転がりだしていた。
完全に破壊された粘土像を、倒れた机が押しつぶしていく。
周囲の子供たちは全員手を止めて、遠巻きにしながら葉子と教師を見つめている。
くすくす、くすくす。どこからともなく聞こえてくる、かすかな笑い声。
屈辱と暴力と羞恥に耐え切れず、葉子はついにしゃくりあげてしまった。
それでも教師は容赦しない。飛び出した机の中身からパンを取り上げ、葉子の眼前に突き出した。
パンは完全に乾ききり、ところどころに黒い粒々が付着している。
「これはこの前の給食か?
先生に黙って、残したパンを机の中に入れていたのか? あぁん!?」
「あ、あの、食べきれ、なく、て……その……」
「お前は毎回、食べるのがのろいからなァ! 食べられたとウソをついてごまかして、隠していたのかい!!
この間も、牛乳飲めずに捨てようとしていたよなァ!!」
「あの、あの時の牛乳は……なんか、生臭くて、どうしても……」
「うるさい! 言い訳をするなァッ!!」
ぱぁん。
異様な音と共に、葉子の小さな尻が思い切り平手で叩かれた。
それを見て、どっと笑い出す子供たち。
「このプリントも、ちゃんと家に持って帰って親に見せるものだろうが! こっちは2週間前の宿題か!?
何故いつまでもいつまでも、机の中にある!?」
「あ、あの、わ、わすれ、て、て……」
そんな葉子の言葉すら、教師は大音声で叩き伏せる。
「き・こ・え・な・いなぁ!!!
1か月も前のプリントが、なぁぜ、ここに、あるぅ!?」
ぐしゃりと無造作に掴んだプリントで、ぱんぱんと容赦なく葉子の頭を打つ教師。
紙なのでその打撃そのものはそこまでのダメージではないが、必死に抗弁しようとする葉子を一切許さず猛然と叩き伏せる教師の姿は、悠季には暴力以外の何物にも見えなかった。
机の中から飛び出した、見るからに固そうで食べにくく、しかもやたら大きいコッペパン。たとえカビていなかったとしても、お世辞にも美味そうとは言えない見た目だった。
恐らく食べるのが遅く、周囲の視線に耐えながら必死でパンを口にしていたであろう葉子。
味など何も感じられず、ただただ一刻も早く消化する為にパンを噛み砕こうとしていたに違いない。咀嚼しきれないまま無理に飲み込んでしまったことも多かっただろう――
食事を楽しむ余裕などなく、ただひたすら、次の授業に間に合う為にとにかく詰め込むだけの作業。
葉子にとって、給食はそんな時間だったのか。
そんな日々が続いていたら、教師から渡されたプリントなどどうでもよくなってしまうだろう。
家庭と学校と子供を繋ぐはずの、連絡用プリント。さらに、残されたままの宿題。
その重要性をほぼ説明しないまま、この教師はひたすら生徒たちに一方的に大量に押し付けていただけなのだろう。ただひたすらに、プリントは親に渡せ、宿題はやってこいと言うだけ。
学校そのものから逃げ出したかった葉子にとって、そんなプリントや宿題など見たくもないものだったに違いない。だからこうして、一方的に押し付けられたものが机に滞留し、さらに教師の怒りを買うことになる。
反論さえ許されず、唇を噛んだままじっと俯くしかない葉子。
ぶるぶる震え続ける細い身体。
大きな瞳から零れ落ちようとする涙を必死でこらえながら、彼女は教師の怒号に晒された。
そんな彼女を真上から見下しながら、教師は執拗に詰り続ける。
「ハン、泣けば誰かが慰めてくれるとでも思っているのかい。
全くいつもいつも、お前はどうしようもない甘ったれだよ! こんな泣き虫でだらしのないグズを、世間が許すわけがないだろう!」
悠季にも分かる――葉子は泣きたくて泣いているわけではない。
どれほど蔑まれても踏みつけられても、葉子は負けない人間だ。多少凹むことはあっても。
悠季の前で涙を見せた回数も、実はそこまで多くはない。
見た目によらず結構な負けず嫌いで、泣いて他人に甘えるなど決して是とせず、むしろ人前で涙を流すことを恥とすら思う性格じゃないのか――と、悠季は何となく思ったこともある。
その感覚は、彼女の精神世界を旅しているうちにより強くなった。
――何より、葉子自身が大の負けず嫌いだからこそ。
俺だって彼女のおかげで、強くなれたんじゃないか。
そんな彼女が、大人の圧倒的な力により一方的に踏みつけられ、辱められ、痛めつけられたら。
一切の抵抗を許されず、涙をのんで俯いているしかなかったら――
この時の葉子は一体どれだけ、心を傷つけられただろうか。
やめろ。
やめろ。
こんなことは、大人のやることじゃない。
お前は、教師なんかじゃない!
そう叫んで飛び出そうとした悠季。
しかし、そんな時に限って思うように身体が動かない。
見えない鋼鉄の糸に、四肢をがんじがらめにされたかのように。
床を思い切り蹴とばして、あの教師に何としても一撃食らわせたいのに。
半分以上が砕け散った粘土人形の頭。
ひとつだけ残った目が葉子の足元で、虚ろに天井を眺めている。
その瞬間、悠季の脳裏にも激しい痛みが走った。
同時に再び蘇ってきたものは――記憶。
紅蓮の炎に巻かれた屋敷。その最奥部に位置する、豪華絢爛を形にしたかのような主の部屋。
きらびやかな金糸で縫われた紅の絨毯も、豪勢な鷹や獅子の像も、国中から集めた魔の宝石で彩られた紫紺の壁も、柔らかそうな絹のベッドも、全てが炎に包まれていく。
そんな部屋の中心部に――
色とりどりの宝石で飾られた黄金の椅子が、不自然に置かれていた。まるで、古代の玉座の如く。
紅の絹に覆われた、黄金の玉座。
そこに座らされているのは、一人の少女。
激しい炎の中でも彼女は身じろぎひとつせず、じっとその場にたたずんでいた。
純白のドレスを身に着けた彼女の美しいブロンドが、炎を映して煌めく。
細い手首に嵌められた幾つもの腕輪。
幾重にも重ねられたネックレスにアンクレット。しかしそれらは全て椅子に繋がり、少女を固く固く拘束していた。永遠に。
そうだ。俺は、何をおいても助けたかった。
どんなことをしても、彼女を、助けたかった。
幼い日から奴隷として飼われ、永遠に続くかと思われたこの屋敷の地獄。
そこを破壊しようと考えた、最初のきっかけ。それが――