その50 「痛み」を軽く見てはいけない
――駄目だ。
葉子は俺を、信じようとしていない。
その瞬間あたりに響きわたったものは、大勢の子供のけたたましい笑い声。
窪地の地面にも壁にも浮かび上がる、無数の目。それらは全て葉子に向き、彼女をあざ笑っていた。
――あいつ、まーた忘れモンしてやがるー。
――この前は宿題忘れたの、黙ってやがったしな。俺がセンセーに言いつけてやったけど!
――教科書忘れたらこっちの教科書覗き込もうとしてくるし、キモチワリー。
――机の中には古いプリントずっと入ってたし、あの子汚くて気持ち悪いよね~
――全然喋らないから、一緒にいてもつまんないしー
――ウソまでつく卑怯者で人間のクズだから、ちゃんと私たちが見張ってないと。
――こんなダメなヤツは、悪いことしたらすぐセンセーに言いつけなきゃな!
響きわたる子供の言葉。それは遠慮もなければ容赦もない。
これが本当に彼女に叩きつけられたものだとすれば、幼い葉子の心を不信で満たすには十分すぎる仕打ちだ。
――そうか。こいつらと俺は、全く同類なんだ。
『この』葉子にとっては。
悠季の心にまた、絶望が拡がっていく。炎の魔女の本心を知った時と同じような。
あの時はあくまで葉子の一部だと考えることも出来たが、今相対している葉子は、精神世界の最奥にいる彼女である。
しかし、だからこそ悠季は心のどこかで期待していた。
この世界の葉子であれば、どこかで自分を受け入れるはずだと。たとえ悠季を悠季だと認識していなくても、きっとどこかで――と。
だがそんな存在が今、悠季を真っ向から拒絶した。
彼の希望的観測を、ありったけの力で破壊するかのように。
他の子供たちと同じように、悠季も自分を嗤うと思い込み。
他の大人たちと同じように、悠季も自分を理解してくれないと思い込み。
――その姿はどこか、あの「闇の魔女」にも似ている気がした。
酷いモラハラによって全てから心を閉ざし、世界の全てを憎みきっていたあの魔女を。
どこか幼く見えたあの魔女の姿が、今の葉子の姿と重なる。
それだけじゃない。
全てを奪われ心を閉ざした「闇の魔女」。
絶望に抗う為、他者を徹底的に利用しようとした「炎の魔女」。
成長を諦めた「風の魔女」。
何かと妄想の世界へ引きこもる「水の魔女」。
それらの魔女の性質を隠蔽し、真っ当な社会人として葉子の体裁を整えようとした「土の魔女」。
――あぁ。あの魔女たちは確かに、『この』葉子から生まれていたんだ。
まだ小さかった葉子に植えつけられた、数々の痛みの記憶。それを元にして。
こうして葉子は最早悠季を振り返ることなく、大人たちに引きずられるようにして無理矢理連れ去られていった。
どれほど悠季が暴れようとしても、どうしようもない。彼女を捕まえたまま、大人たちはふっとその場からかき消えてしまったのだから。
たった一人窪地に残されたのは、悠季だけ。
大人たちが葉子だけを連れ去り、悠季を放置しているのは――
ここが葉子の精神世界だから、としか言えないだろう。
彼女を徹底的に監視し、管理し、学校を始めとする世界のルールに無理矢理はめこみ。
彼女に味方するものは容赦なく排除するか、無視する。
実際がどうだったかは分からない。しかし『当時の』葉子にとって、彼女の周囲はそういう世界だった。
そして響いてきたものは、またしてもベレトの声。
――やれやれ。イーグルも災難だね~。
せっかく可愛かったのに、昔とあんまり変わらない姿になってない?
そう言われた悠季は、改めて身体を起こし自分の姿を見てみる。
清潔だったはずのセーラー服は土だらけになり、胸元や右肩は血の赤がじわりと拡がっていた。
「とはいえ、『あの野郎』にやられまくった時を考えりゃ全然マシだけどな」
――ハハ。あの頃はホント毎日、酷かったよね。
イーグルは学校から帰るなり、あいつの術の実験に晒されてさ。
「しかもあいつの趣味で、この恰好のままやられることも多かった。
さらに言えばあの野郎、これと似たような替えの服をいくつも用意してやがって……
毎日毎日、あらゆる方法でボコボコにされたもんだぜ」
――そうだったねぇ。どれだけボロボロにされても翌日には元通りのセーラー服になってたから、どういう理屈だろうと思ってたよ。
もっと可愛い服の時も多かったけど、だいたいの場合最終的には素っ裸になってたね。
だけどさ、アレはイーグルも結構悪かったと思うよ? だっていつも最初は滅茶苦茶反抗的な態度とってた癖に、大体の場合最後は泣き叫んで命乞いして終わるんだもの。アレって正直、奴の嗜虐心ってヤツを大いに刺激したんじゃないかと……
「……だってよ、仕方ねぇだろ。
ああしなきゃ終わらなかったし」
――そんなイーグルも僕は好きだったけどね。
ともかくアレに比べたら、さっきの教師なんてひよっ子同然だろ? 君にとっては。
あんな定規を叩きつけるぐらいでトラウマとか……こっちの世界の子供はやっぱり弱いよね。
そんなベレトの言葉に、悠季は少し口を閉ざした。
本当にそうだろうか。
「ベレト。
俺……その考え方は、違うと思うぜ」
葉子の精神世界において、ずっと脅威だったはずのベレト。
気づけば悠季は彼に対し、昔と同じように話しかけていた。
そんな自分を可笑しく思いながらも、悠季は静かに呟く。
「自分が昔もっと酷い目に遭ったからって理由で、他人の痛みを軽く見るのは……
やっぱり違うと思うんだ。
そういう考え方は大概、『自分があれだけ苦労したんだから、他の人間も同じくらい苦労して当然』『あれだけぶん殴られた自分が大丈夫だったんだから、ちょっとぐらい他人を殴っても平気だろう』ってな思考にいきつく。
そういうヤツは葉子の会社にだっているしな」
何となく沙織の上司――幸部長の顔を思い出す。
あの時沙織の為に必死に抵抗した、みなとの言葉と共に。
――御自身が苦労をされたからってそれを他人に押し付けて、会社が成長していくとお思いでしたら……
大間違いだと私しゃ思います。
みなとと沙織はどうしているだろう。
間違いなく今の葉子を支えている仲間である二人。そんな二人すら、この葉子の世界には存在しない。
それが悠季には無性に寂しく思えた。ほんのわずかな時間のはずなのに、随分長いこと二人と会えていない気がする。
「確かに葉子と俺の過去を客観的に見たら、葉子は恵まれているかも知れない。
両親だっているし学校だって行かせてもらえてる。火あぶりも水責めも飢えもなければ、術の実験と称して身体を弄りまわされることもない。
理不尽にモンスターどもの闘技場にぶち込まれることもないし、裸になるまでムチ打たれることもねぇよ」
ふっとひと息つくと、悠季は改めてベレトの声のする方を見据えた。
ほんの少し、在りし日の彼の姿が見えた気もして。
「しかしだからといって、葉子の痛みを軽く見ていいことにはならない。
葉子自身が『痛い』『苦しい』と感じていたなら、それは間違いなく痛みなんだ。他の誰かと比較していいものじゃない。
自分や他の子供がどれほど酷い目に遭ってるからって、それが葉子の苦しみを無視していい理由にはならねぇんだよ」
それに対し申し訳なさそうに流れたのは、ベレトの言葉。
――あぁ……イーグル、ごめん。それで僕も思い出した。
君と出会った頃、僕や僕の周りの連中は……君を散々軽蔑してた。
清潔ないい服着せてもらえて、従者と一緒に馬車に乗って貴族と同じ学校行かせてもらえて、高名な術士から直接術を教わってる、とても恵まれた子供だって……
僕の周りの子供たちはみんな君を羨んでたし、憎んでもいた。世界はこんなにも不公平なのかって。
僕も最初、イーグルのことをそう思ってたよ。
毎日毎日馬車で学校まで送り迎えされる君をずっと下から眺めながら、思ってた。
――親の顔も知らない僕なんかには、絶対手の届かない存在なんだなって。
「今でも思い出すよ。たまたま俺と知り合って実態を知って、腰抜かしてた時のお前の顔。
面白かったよなぁ」
――言わないでよ。僕は今も反省してるんだから。
面白かったで済むような状況じゃなかっただろ……
「あの野郎の変態ぶりは、当時のクズ貴族どもの間でも群を抜いてたからな。
散々いたぶった子供を強制的に回復の泉にぶち込んで無理矢理治癒させてもう一度愉しむ無限ループなんて、思いつくのはヤツぐらいじゃねぇか?」
――僕はそれを笑いながら話せる君が未だに恐ろしいよ。
君が回復の泉を嫌がる理由があんなことだったなんて……
「俺も……未だに思うことがある。
結果的に、オーランドへの反乱にお前まで巻き込んで……本当に良かったのかって。
『あの子』のことも……」
他には誰もいない窪地に、ふと落ちてくる静寂。
風のざわめきと、葉が落ちる微かな音だけが聞こえてくる。
空気だけはかなり澄んでいるし、空を見上げた時に目に映る樹の緑も鮮やかだ。
この風景はきっと、葉子の良い思い出として記憶されていたものに違いない。当時の中では数少ない、良い思い出に。
「それはともかく!」
自分を鼓舞するように言いながら、悠季は立ち上がった。
「ベレト。お前、葉子の学校は分かるか?」
――えっ?
いや、ごめん。当時の学校の場所となると僕にも分からないし、ましてやここは精神世界だ。
学校がどこにあるかなんて……
「精神世界だからこそ、ってこともあるだろ。
もしかしたら意外とすぐそこにあるかも知れない。これだけ葉子の世界を回ってきたんだ、何となくそんなラッキーもある気がする」
――そんなアバウトな。
「お前なら知ってるだろ。俺の勘っていざという時当たりまくるの!
だからこっちの世界でだって、そこそこ適応してやっていけてるし
――」
そう言いながら窪地を抜け出した悠季。
だがその先に展開された光景を見て、思わず言葉を失ってしまった。
――うわぁ……なるほど。
このご都合ぶり、さすが精神世界ってところか。
呆れたようなベレトの呟き。
悠季の眼前に広がっていたのは、何故かやたらだだっ広いグラウンドだった。
その向こうにある4階建てのベージュの建造物。あれは多分学校の校舎だろう。とするとこのグラウンドは校庭か。
よくよく見ると校庭と校舎の間あたりに、何やらわらわらと白い集団がたむろしている。よく見るとそれは、全員一律の白い体操着と白い帽子を被った子供たちだった。
どうやら体育の授業らしい。グラウンドの隅にある鉄棒で、何かが罵声をあげている。
「……あれは」
それは間違いなく、ついさっき悠季と葉子の眼前に出現した「先生」。
あのジャージ姿のまま、黒縁眼鏡と腹を揺らしながら鉄棒の前に仁王立ちし、誰かを怒鳴りつけている。
その誰かとは、勿論――
「葉子!!」
無理矢理着せられたであろう体操着姿で、必死に鉄棒につかまりながら震え続けている少女。それは間違いなく、先ほど連れ去られた葉子だった。
その細い腕は今にも折れそうで葉子の身体はとても小さく見える。それに対して鉄棒は異常に高く見え、ふらついている葉子の爪先から地面までは彼女の身長以上の高さがあるようにすら思えた。
そして響くのは、さっきと全く同じ、「先生」の怒声。
「天木ぃいいぃいいいいいぃ!!
お前は何故、前回りも逆上がりも出来ない!!?
こんな出来ない子供は見たことがないぞ!! さっさと回れ、前回りすら出来ないのはお前だけだ!!」
「う……うぅ……っ」
ほぼ半泣きになりながら、必死で鉄棒に掴まるだけでも精一杯な葉子。
それを当然の如くクスクス笑いながら眺めている子供たち。
その瞬間、悠季の脳裏に轟いた忌まわしき声は。
――イーグルぅううう!!
貴様は何故、また負けたぁああぁああ!!?
同時に眼の前を掠めていく、ほの暗い闘技場の光景。
中心となる戦いの場だけが、赤々とした照明で浮かび上がっている。
幾体ものモンスターの残骸がその場にまき散らされ、紫の血が海のように溢れ出ている。
その中心にいたのは――
全身を狼型モンスターに食いちぎられ、ほぼ素っ裸の血まみれで天を仰ぐしかなかった、幼き日の自分。
そこに叩きつけられる「ヤツ」の罵声。飛んでくるムチ。
それを暗闇から笑いながら見つめる、大勢の貴族たちの視線。
――あれだけ私の術を仕込んでおきながら!
たった10匹のポイズンウルフにすら勝てぬとは、情けない!!
「なんで……
なんでこんな記憶が、今……?」
悠季は思わず激しく頭をふり、その幻を打ち消そうとした。
しかし眼前の葉子と過去の記憶は、どうしてか悠季の中で混じりあう。
それは決して消せない傷ゆえか。