弐
たった五分。そう思っていた私は、自分の乗り物に対する弱さを侮っていた。とにかく、乗り物に乗るとすぐに酔うのだ。自家用車、タクシー、バス、電車。船はもちろんのこと、海に行った時に浮き輪で酔ったこともある。
もうすでに気の持ちようの問題なのかもしれないが、動き出した電車の揺れに早速青ざめていた。ヨロヨロと座席に座った私は、そっと目を閉じる。貧血のようにさあっと冷たくなっていく体と、込み上げてくる唾液を忘れ去るように寝てしまう。長年の乗り物酔いとの付き合いの中で編み出した対処法。乗り物に乗ったら秒で寝る。これで少しの時間ならやり過ごせる。すぐに押し寄せてくる眠気に抗うことなく身を任せればいい。
防衛本能によるものか知らないが、乗り物に乗って目を瞑ればあっという間に眠れる特技を身に付けていた私は、窓の外からざあざあと喧しく話し掛けてくる雨の音も置き去りにして、いつものように眠りの淵に沈んでいった。
* * *
ふと気がつくと、私は住宅街の中に立っていた。それも何というのかレトロな感じ? 小さな似たような平屋がギュウギュウと並んで建っている。
「なんだ……? どこだ、ここ。……夢?」
なんとなく事の前後がはっきりしないが、こんな知らない場所にいきなりポツンと立っているなんて夢だろう。それにしてはリアルだけど。
まず最初に感じたのは、やけに蒸し蒸しして澱んだ空気。なんか目がチカチカするような刺激がある。
周りを見渡せば、空は薄暗く厚い雲に覆われたように煙っていて、遠くが見通せないほどに霞んでいる。近くを流れる小川の水はひどく濁っていて変な臭いがするし。うわ、あれって魚の死体じゃないかな……? キモッ!
「ギャアッギャアッギャアッ!!」
いきなりの大合唱に驚き見上げると、どこから現れたのかコウモリの大群がバサバサと羽根を鳴らして空を行き交う。なんか世紀末っぽくて怖い……。
でも、ここは世紀末の荒野じゃない。やけに多い気がするが電柱が立ち電線が走っているし、チマチマ並んだ家々も日本風に見える。ブロック塀の前には案内板のような看板が立っていて、「日本国有鉄道×××宿舎」と書かれていた。
「……よくわかんないけど、ここは日本ってこと?」
夕暮れ時の公園からは、どこか素朴な印象の子供たちが我先にと飛び出してきて家路を急ぐ。バラバラに別れて小さな家へと散っていった。まだ陽はあるのに妙に焦っている風にも見えて不思議だった。
「ケホッ、ケホッ……。喉が痛い……」
感じられる全てがあまりにもリアル過ぎる。こんな不思議なことなのに夢っぽくない。いつの間にかずれてしまっていたマスクを直し、鼻までしっかりと覆い隠す。空気が汚染されているのかもしれない。こんな簡単なお母さんの手作りマスクにどれだけ効果があるのかわからないけど、しないよりはマシだろう。
そういえばこれも少しでも気分が明るくなるようにと、私の好きな赤色のギンガムチェックの布地で作ってくれたんだった。……お母さんが嫌いな訳じゃない。ムシの居所が悪いところに小煩いお小言を言われてウザかっただけだ。
なんだか急に心細くなってきた。