序章
覚えているかい、と誰かが囁くのだ。
その声は穏やかな響きを持って耳に届くのに、自分の心底がひどく怯える。
理由もなく、それは本能が警告を放つ。
暗い闇の中、誰かの気配を感じる。時に背後に、時に正面に。
視力を奪われたような世界の中、伸ばした自分の手がうっすらと光を放って動く。
焦がれるほどに懐かしく、恐れるほどに愛おしい。
「きみはだれ?」
発する自分の声は、いつも幼く、その問いかけが常に『彼』を不愉快にさせる。それが分かっていても、応えのない問いを自分はいつも問いかける。
何のための戦いだったのだと、誰かが泣いている。
未来に価値はあるのかと、幼き『彼』が呟く。
何も語らぬ『彼女』だけが、その瞳の奥に持つ真実。
自分と自分以外の意識が混同する。
世界がぐるりと輪を描いて反転する。
頭蓋に整理のつかない感情と事象が怒涛のように流れ込んでくる。自我すら保てず、喘ぐように伸ばした指先の向こうに、自分を見つめる瞳がいつも居る。
その『彼』が言うのだ。
「君は全てを覚えてる。なのに、いつまで忘れたフリをしているつもりなの?」
応える声は幼く、侮蔑すら含んで、消えゆく自分を見下ろす。
声もなく跳ね起きて、溺れかけた者のように呼吸を繰り返す。のどが鳴き、苦しい呼吸に咳き込んで、胸を抑え込んだ。冷や汗が額を、頬を流れ落ちていく。
(…またか)
べっとりと張り付いた前髪を掻き上げようとして、カルスはギョッと身を強張らせた。
自分の視界の中に、紅い何かが飛び込んでくる。
(くそっ)
それを揉み消すように握りしめて、強く瞼を閉じる。強張る身体を強引に起こし、水場で乱暴に顔を洗った。
夜明け前の闇に沈んだ中、ポタポタと滴る水滴を見下ろしていた視界を上げる。
闇に浮かび上がる鏡の中、見知った自分の表と、見慣れない紅。
夢を見る度に増えてきた、紅い前髪。
黒髪にその色は目立った。
しかも、ここ一年は夢の回数も増えたせいか、簡単には隠せないほどの量になっていた。染めようとしても、染まらないそれは、まるで夢と同じに追いつめてくる何かのようだった。
(覚えているはずだと? 何を?)
血のように赤く、宝石のように紅い一房の髪を握りしめて、カルスは絞り出すように息を吐き出した。胸に残る重いしこりは、今や全身を押しつぶさんばかりの圧力すら感じる。
脳裏を過る自分でない記憶と感情の波に、強い吐き気が襲ってくる。
全身の力が抜けて、ずるりとカルスは座り込んだ。
思わず握りしめた胸に、固い何かが触れた。そのまま握りしめ、止まりそうな息をそろそろと吐き出しながら、波が去っていくのをじっと耐える。
どれぐらいかの時を、そうやってやり過ごしてきた。
何かの病かと、薬師にもかかったが、彼らにも原因は分からなかった。医術と魔術の二つを知る宮廷医術師は、一種の術的なものが働いているのではないかと言った。
(ただの戦争孤児に、そんな大層なモノ…)
十九年前の魔族と人間との最終戦争の時、自分は魔族側の土地に近い場所で養父に拾われた。故郷は戦に巻き込まれ、焼け野原の状態を見るに、両親はおろか一族の生存も絶望的だったと聞いている。今も草一本生えない不毛の土地となっている故郷。
養父が高い立場にあったために、快く思わない者の術かと思われたが、年を追う毎に頻度を増す夢が、その手のモノではない事を教えた。
胸の重りを吐き出すように、カルスは大きく息を吐いた。
呼気と共に身体は楽になり、カルスは瞼を上げる。手の中にある十字を見下した。
紅い十字の石が微かに光を反射している。
養父に拾われた時、自分が身に着けていた宝石。血のように赤い、透き通る紅の美しいそれは、カルスの髪に増えていく赤髪と同じ色だった。
夢の後の不調を、これさえ抱いていれば落ち着けることが出来た。
「また、世話になったな…」
この石の事を自分は覚えていなかった。どういう謂れがあるのかも、自分が手にしている経緯も覚えていない。それでも、自分を守ってくれている事は分かっていた。
手に抱き、胸に抱くと、安堵感と共にひどく懐かしいような、泣きたいような気がした。
ここは乾燥した大地が大半を占める、魔力満ちる大地
しかし、住まう人々がその名を理解することはない。
《世界》の名を理解できるのは、世界を渡る力を持つ者、世界を守る者、そして、『神』のみ。
遥か彼方に広がる乾燥した大地を見下ろしていた。
吹き抜けていく風が、まだ見ぬ大地へ誘うようにその髪を撫でていく。
「行くのか」
背後からの声に、少年は振り向かずに頷いた。
弄るような強風の中で、華奢な少年の肢体は頼りなげに見えた。一瞬、少女かと見紛うほどの美しい赤紫の透き通る髪の下で、その瞳が何かを捕らえて微かに細くなる。
そして、少年は声の主を振り返った。
そこにあって目を引かずにはいられぬ真紅の髪が、強い風に反して美しく揺れていた。おおよそ表情など読めぬ表に、一瞬困惑が浮かぶ。
「持って行け」
しかし、声音はどこまでも無機質に響いた。声と共に投げられた『何か』が紅い軌跡を描いて少年の手に収まる。
それを手に収めた少年は、一瞬驚愕に目を見開き、しかしすぐに破顔した。その表情に主は思わず顔を背ける。
「お前は、父に似て…敵わない」
その声の、どこか震えているような感情を少年は感じた。今までにも何度か言われてきた言葉だった。その度に気付かないふりをしてきたが、この逢瀬を逃せば次はないのだ。
「母上、親父殿の名前、聞いても良いか?」
細い肩がビクリと震えるのを、少年はじっと見ていた。
いつの間にか、その身長を超えていた。隣に並んで、今やこの母を自分の母だと言い当てられる者などいないだろう。全てが正反対な自分と母親。
「…トファ」
長い時間をかけて、母はそれだけを言った。
その音を発することが、どれほどの苦痛を伴うのか、良く理解しているつもりだった。
「母上がそんな顔をする必要はないはずだ」
彼は――トシュアはそう言って、屈託ない無邪気な笑顔を向けた。投げ渡されたモノを首にかける。紅い光が反射する。
自分の表情を母の目に映ったのかを確認することもなく、彼は眼下に広がる大地へと視線を戻した。
遥か眼下に広がる、混沌の大地
その瞳の色が、先ほど母へ向けていたモノから一変する。穏やかな色から、獣のような残忍さが燃える。
力強く跳躍した。
遅れて舞い上がった羽根が風に弄られ、遥か上空へ舞い上がる。
叫びだしたいほどの衝動。
魂の底から膨れ上がり、腹を突き破って全身へと駆け巡る歓喜にも似た衝動。
全身に風を受け、トシュアは声を上げて歓喜を叫んだ。