特訓開始
結局その日はなにも聞けなかった。僕はエネルギーをセーブするように眠りにつく。所在ない以上、翌朝を迎えることしかできなかった。
「太刀川くん、起きなさい」
まどろんでいると、声が聞こえる。体はそこはかとなく重い。目を開けてみると暗闇の中、昨日と同じように四つん這いになって僕を覆う愛梨彩がいた。
「うわぁ!?」
大慌てでメガネを探す。しかしメガネは見当たらない。ああ、そういえばもうメガネは必要ないんだっけ。
「今日からは訓練をしてもらうから」
相変わらずの抑揚のない声で愛梨彩が言う。その声を聞けば、四つん這いで僕を覆っていることに大した理由はないのがよくわかる。
「く、訓練?」
「ええ。魔術の訓練よ」
「よっしゃ!」
ついに僕も魔法を放つ日がきたのだ!
僕は浮かれ気分となり素早く上体を起こした。起きると愛梨彩は僕の足の上に座りこむ形となり、ちょうど正面に彼女の顔があった。
「あ……」
至近距離で愛梨彩の顔を初めて見た。どう話を続けていいのかわからず言葉に詰まる。
顔は売れっ子のアイドルのように小さく、線が整っていて鼻が高い。肌は透き通るように白く、不気味にすら感じる。人形のようにまんまるとしたブルーグレーの瞳はじっと僕を見つめて離さない。どれもが魅力的で目を逸らしたくても惹かれて逸らせない。
「さあ、いくわよ」
静寂を破ったのは愛梨彩の方だった。どうやら彼女はこの見つめ合いの中でなにも感じなかったらしい。僕は胸が押し潰されそうなほどドキドキしたのに。
「いくってどこに?」
愛梨彩は床を指差すとそのまま部屋を後にする。下のホールのことだろうか? それとも客間?
ともかくついていくしかなさそうだ。
廊下を出るとそう遠くない所に愛梨彩がいた。
「フィーラ・オーデンバリがくる以上、人並みに戦闘ができるようになってもらわないと困るの」
駆け寄ると愛梨彩はぶっきらぼうに言い放った。僕に見向きもせず、愚痴をこぼしているかのようだった。
「そいつって昨日ハワードが話していた魔女?」
「ええ、そう。私が教会を襲撃したと知れば、ほかの魔女がすっ飛んでくるのは道理でしょう?」
「それはまあ……」
愛梨彩はすたすたと階段を降りていく。僕は思うことがあり、階段に差し掛かる直前で足を止めた。
愛梨彩とアイン以外の魔女……どんな相手なのだろうか? 愛梨彩が顔を曇らせるほどの相手とは一体……。
「そいつは強いの?」
「北欧圏最強の魔女よ。その実力は嫌というほど思い知らされたわ」
あっけらかんと彼女は答える。強いのは百も承知だと言わんばかりの勢いだ。つまり愛梨彩はフィーラの強さを恐れているわけではない。
だとしたら愛梨彩にとってフィーラとはどういう存在なのか?
「もしかして友達?」
階段を降りきったところで愛梨彩の足が止まった。上の階にいる僕を仰ぎ見て、睨みを利かせる。
「あなたって時折凄まじい洞察力をみせるわね」
「ごめん。『思い知らされた』って言ってたから……つき合いが長いのかなって」
慌てて階段を降りて、愛梨彩に駆け寄る。
「有り体に言えば『友達』ね。私の数少ない知り合いの一人がフィーラ・オーデンバリよ」
愛梨彩の顔を覗いて見ると、意外にも怒ってはいなかった。代わりに浮かび上がった表情は過去を顧みているような感傷的なものだった。
「やっぱり友達と戦うのは嫌だよね」
「勘違いしないでくれるかしら? 魔女である以上一族以外はほぼ敵よ」
だがそんな表情はすぐに引っこみ、いつも通りのつんけんした態度になる。彼女に共感しようと思ったが、的外れだったようだ。
愛梨彩は冷徹な魔女だ。私情を入れこむことはないのだろう。だから、きっと友達との戦いも割り切っているのだろう。
でも、本当に? 本当にそうなのか? じゃあさっきの感傷に浸った顔は?
「悲しそうな顔……してたからさ」
自ずとそんな言葉を口にしていた。
愛梨彩は目を背け続けている。恐らく図星だったのだろう。友達と戦うことになっても、気丈に振る舞おうと頑張っていたんだと思う。沈黙を守るのも無理はなかった。
「私が憂いているとしたらそれは……この日がきてしまったことかしらね」
静謐な空気の中、独り言ちるように愛梨彩が呟いた。
「この日?」
「戦わずに済むのなら戦わないでいたかったってことよ。けど戦わなきゃいけない以上、フィーラには負けられないの。だから、あなたを訓練します。さあ、きなさい」
愛梨彩は先を歩いていく。僕も玄関ホールを横切り、彼女を追う。
愛梨彩が立ち止まっているのは対面にあるホールの壁だった。その先に通路や部屋などはなく、いき止まりだ。
追いつき、壁の周囲を一瞥する。見ると、彼女が立ち止まっているところの壁だけ煉瓦を積み重ねたような石造りになっている。幅は人が二人収まるくらいで、妙に意味ありげな感じがする。
愛梨彩が中段の右端にある石のブロックを押しこむと、壁は観音開きの扉のように開いていく。
「絵に描いたような隠し通路だ……」
こんなあからさまなものを見せられると自然と期待が高まってしまう。
隠し通路の先は秘密の地下室で……そこには研究の魔道具、氷漬けにされた生物の死骸や散らかった人骨!
なんて妄想が捗る、捗る。
「ついてきて」
それだけ言うと愛梨彩は壁の先の闇へと沈んでいった。
通路は仄暗く、下るための階段がうっすらと見える。僕は男心くすぐる地下室への期待とは裏腹に、恐る恐る足を踏み外さないように下っていった。