何せうぞ、くすんで、 一期は夢ぞ、ただ狂へ
桜は散るからこそ美しいという。本当にそうだろうか、と俺は思う。桜が美しいこと、それ自体は俺に異論は無い。だが、美しく永久なるもの―海だとか宝玉だとか絵巻だとかはいくらでもある。自分の嫁が若く美しいままとなれば喜ばぬ男などいないだろう。散るからこそ美しい、というのなら、時の将軍が建てたという黄金の寺院などは燃やしてしまえばより美しいとでも言うのだろうか。
だから俺は、年中桜が咲いたとしても、きっとそれは美しいままだろうと思う。
そういうことをぼんやり考えながら、俺は獣道を踏み分け山奥へと向かっていた。
羊歯を踏み抜き葛を払いつつ進んでいくと急に斜面がなだらかになり、少し開けた丘に出る。何年前に倒れたのか分からない、雷に打たれた大木を超えてもう一度羊歯をかき分けると、そこに、俺だけの桜がある。
この桜を見つけたのは二年前の春だ。友人と喧嘩した俺はむしゃくしゃして闇雲に山を突き進み、険しい方へ、何もない方へと足を向け、そして、ここに出た。
三本立ち並ぶ桜の木の、うねり、絡み合う根の合間に腰を下ろし、八分咲きの花を見上げる。麓の桜よりも若いのであろうこの木は、周りの大木に囲まれて至極頼りなく、枝枝に多くの木々の若葉を、その先に青空を透かして見せる。
ここに来なければ出会えない、ここに至る道は誰も知らない、俺しか知らない、俺だけの桜だ。
俺は手足を放り出し、ただただぼんやりと桜を見上げる。このまま寝入って一日過ごしてしまったとしても、道中仕掛けた罠にかかった獲物を提げて帰れば当面暮らしていける。やがて首が疲れ、目を閉じると首回りを冷たい風が吹き過ぎていく。陽の当たる足は暖かいが、風はいまだ冷たく絶えずさわさわと吹き抜けて行く。その音のせいか、目を閉じていると自分が何百、何千本もの桜の森の満開の下、涯の無い花吹雪の真ん中に囚われているような気がしてならない。
―葛城山に咲く花候よ
あれをよと、よそに思うた念ばかり
目を瞑ったまま謡ってみる。この桜に出会う前、よくこっそりと謡っていた小歌だ。花ってのは不思議なもんで、これだけ独占していても俺だけの桜とは言い切れない、手の届かない感じがある。
うつらうつらしていると、急に風の流れが変わった。目を開けると、視界の端に茂みが大きく揺れているのが映った。そっと立ち上がり、腰の鉈に手を伸ばす。兎や山鳥ならば仕留めて帰るが、鹿、万一猪だとしたら命が危ない。こんな所で死んでしまったら、俺の屍は誰にも見つけられることなくここに晒されたまま、山の土くれと消えてしまいかねない。
じっと揺れる茂みを見据える、が、すぐに俺は肩の力を抜くこととなった。茂みから先ず現れたのは人間の手、次いで、十二、三歳頃の少年が顔を突き出した。
「あ・・・どうも。お兄さん、ここから里ってすぐですか?」
「・・・迷子か。ちょっと道はきついがそう遠くない。案内する。」
「ありがとう。そう、迷子。用を足そうと思って脇道に入ったら目の前にでっかい蜂の巣があってさ。必死で走り回ってるうちに仲間とはぐれちゃった。」
そういいながら少年は一通り自分の身体をはたくと、ぐるりと俺と、桜を見回した。
「良いところだね。」
「・・・おう。」
俺が溜息を抑えようと口を引き結んでいると、それに気付いたのか少年は申し訳なさそうに眉をひそめ、
「ひょっとしてここ、お兄さんの秘密の場所だった?」
と尋ねてきた。
「ん。いや、いい。放っとけ。」
「ごめんなさい、でももう僕がここにくること、無いと思うし。僕、旅芸人の笛吹きなんだ。花見の席で、楽を奏する。」
俺はというと、黙って里へ向かって歩き始めていた。秘密でなくなったからといって、桜の美しさが減じることはない。けれども俺は、一刻も早く少年を桜から引き離したかった。少年は相変わらず喋りながらも付いてくる。
「桜って、暖かくならないと咲かないでしょう?つまり、南の国の桜から先に、続いて北の国の桜が咲いていくわけ。だから僕たちも桜と一緒に、南から北へと旅をするんだ。どっかで偉い人やお金持ちのお気に召したら、しばらくそこのお抱えになるんだけど。」
少年の話を聞き流しながら、仕掛けた罠を確認する。山鳥がかかっているのを見て、少年は歓声を挙げた。
「すごい、大きいね!お兄さん、何でも獲れる?僕、猪肉が食べたいな。一度だけ食べたことあるの、おいしかったぁ。鍋だよ、鍋。」
「・・・俺は、あんたが出てきた時、猪が出端じゃねぇかと思ってヒヤヒヤした。弓矢があれば、射かけてたかもな。」
「あれ、もしかして僕、危なかった?でさ、お兄さん猪捕まえられる?」
「・・・あそこで出てきたのが猪だったら、俺はあそこで死んでいたかもな。」
「うへぇ。そしたら僕たち二人とも、あそこでしんでたのかもしれないね。怖いなぁ・・・あぁ、そうか!」
突然少年が手を打ち、俺は山鳥を落としそうになる。
「だからあの桜、あんなにきれいだったんだ。あそこで人知れず死んじゃった人がいたんだよ、三人。その屍を糧に咲いているのが、あの桜。僕が生まれる前、戦が激しかったんだよね?それで死んだ人が・・・」
「何言ってんだ、お前。」
そう答えながらも、俺はその言葉に引き込まれつつあった。敗れた家の奥方とその幼子、従者。必死で山まで逃げたものの、すがるもものも生きる道も見えず、母は従者に頼む。我と我が子を殺してくれと。従者は泣く泣く刃を振り上げ、そして、自分の腹にその刃を突き立てる―ふと、あの桜の糧となりその一部となるのならばそれも良い、という考えが浮かび、少年にばれないよう頭を振る。
「なぁ、お前―桜はどうして美しいと思う。屍を食らうからか。それとも、散るからか。両方か。」
振り返ると少年は、問いかけの中身のせいか俺の方から話しかけたせいか、訝しげな表情を浮かべるも、真剣な顔つきとなってしばし考え込んだ。そのまま二人、黙したまま足を動かす。よく喋る奴が急に黙ると落ち着かない、とはこのことか。もうすぐ里が見える、というところまで山を下りた頃、ようやく少年が口を開いた。
「たぶんさ、桜―というか、花の方は何も僕たちの為に咲いてるんじゃないんだよね。ただ、その季が来たから咲いてるだけで。咲くための栄養として、近くにあった屍を食らうこともあるかもしれないけど。別に、美しく咲こうともしてないよ。精一杯咲いて、豊かに実ることができるように、とは思ってるかもしれない、かな。でさ、たまたま僕たちの方が花を美しいと思うようになってさ。中でも桜のことを好きになっちゃったんじゃないかな。人間の片思いだよ、惚れちゃったんだ。でもしょうがないじゃん、ばーっと咲いて、咲いたらすぐに散っちゃうなんて、切ないというか、いじらしいじゃん?好きになっちゃうよ、そりゃ。」
―一生懸命なのに報われない子とか、可愛くて応援したくなっちゃうよね。など可愛げ無い言葉を小声で付け足すものだから、俺は思わず
「お前、年いくつだ。」
と尋ねてしまう。
「ん、知らない。そうだ、名前は圭。お兄さんの名前は?」
「・・・矢一。」
「かっこいいね。矢一さん、僕らの楽、聴きにきてよ。たぶん、僕らが次に行く予定だったの矢一さんの里だからさ。」
「・・・里が見えてきたの、分かるか?一番でかい、杉の門にしだれ桜のある家がうちの里長。その東、鐘のあるのが寺。他所から来たもんは大抵そこに泊まる。行けば、どっちかにはお仲間がいるだろ。」
「分かった。ありがとう、矢一さん。」
先に駆け下りていった圭を見送ると、俺はそのまま家に帰った。圭の一座が出るという花見に顔を出すつもりは、毛頭無かった。
二年前の春、花見の席では珍しく酒―といっても、カスもいいとこだったが―が出回っていた。俺はあまり呑まなかったが、周りはおおいに酔い、その酒の肴はというと、その春結婚したばかりの若い夫婦―二人とも、俺の友人であった。妻の方が里一番の美人と評判の女だった、そのやっかみもあったのだろう。酔った男どもは若い夫婦にしつこく迫り、下品な言葉を投げつけ、きわどい質問で責め立てた。女は遠巻きに、眉をひそめながらも耳を澄ませ、互いに耳打ちし、成り行きを楽しんでいるようにしか見えなかった。二人は酒と言葉で攻められつつもなんとか躱し続けていたが、やがて矛先はむすっと押し黙る夫から、笑みを保とうと必死な新妻へと集中した。
―なぁ、どこまでやった?やってないなんてこと、ないやろう?
―聞いてんだよ、答えろや。
―どうなん、あいつ。満足できとるか?
醜かった。山猿の方がまだ上品に見えるぐらいだ。とうとう耐えられなくなった俺は群がる野郎どもを引き剥がし、はやし立てる友人をぶん殴り、黙り込んで愛妻を助けようともしない夫をどついてやろうと思った、が、思っていたことの半分もできないうちに取り押さえられ、なだめ、或いは罵られた。友人の一人は
「おい、折角盛り上がってきたのに白けちまったじゃねぇか。どうしてくれる。」
と俺を小突いた。馬鹿が。何が場が白ける、だ。彼女の苦痛を肴にお前らは酒を呑むのか。そう、こんな野郎どもよりも俺は、彼女がどうなったか心配で、その姿を探した。探すものはすぐに見つかった。目が合ったその人は、先程と変わらず、困ったような笑顔を浮かべていた。俺は、その人が好きだった。嫁入りしてからも、ほのかに思慕の念が残っていた。俺は真っ暗な俺の胸の内を照らしていたその思いを、大事に大事に抱えていたのだが、その灯火はあっけなくかき消えた。
「―っるせぇ、糞が。」
俺は、酔っ払いどもを振り払うと、がむしゃらに走った。誰もいない所へ行きたかった。夕まぐれの中、より暗い茂みへ、より道のない方へと突き進み、葛やシダが絡み合う中へ引きずり込まれるように山へ入った。そして、三本の小さな桜の木に出会った。闇が深さを増し、風の音ばかりが冴え渡る中、その桜は楚々とした小さな花の輝きを強めることも弱めることも無く、ただ静かに咲き、ただ散っていた。そこには、俺が嫌いになってしまったものは何も無かった。一つ花が散る毎にまた一つ小さな花が開く。その営みが永遠に続くかのようであった。
そして俺はこの桜の元に通い詰めるようになった。永遠に咲き続けるかのように見えた桜も、やはりというかついには散り果ててしまったが、萌え出づる若葉も赤い実も愛らしく、秋には他の木々に先んじて朱く色づき、葉を落としてからもその枝振りや木肌には気品があった。俺には、この桜が一年中葉桜であろうと紅葉していようと裸樹であろうと、そして年中花を咲かせていようと、この桜を愛でる自信があった。花の季節にのみ桜に群がり、呑み、騒ぐ輩を、心の底から浅ましく思った。ただ、その暗い感情だけが、俺が素直に桜を愛でる気持ちを曇らせていた。
その宵、里長の家から微かに楽の音が流れ出してきた。圭のものと思しき笛の音は、花の香のようにつかみどころがなく、聞き分けようとすると闇にまぎれ、ふとまどろむと軽やかに躍り出た。
圭の一座が訪れた翌日、早速里で一番立派な桜の元で花見が催されることとなった。当然のことだが、二年前に宴をぶち壊した俺の元には誘いが来ない。こっちとしてもお断りだ。
いつもの通り罠の手入れをし鉈を腰に下げると、花見の席から離れるようにして山へと向かう。それでも急な催しに慌てて料理を仕上げ、普段の襤褸よりは幾分マシといった程度の一張羅でめかし込んで浮かれる連中があからさまに俺を見ると気まずげに、もしくは鬱陶しげに顔を歪めるものだから、俺は顔を隠すように俯き、一方でそこまで奴らに気を遣う必要などあるのかと苛立ってしまう。
俺の前方から近づいてくる足音が聞こえ、道の脇へと避けようとしたその時、その足音が止まり、小さく息を呑む声が聞こえた。その息づかいだけで、それが誰であるのか分かったが、逃げる前に呼び止められた。
「矢一君。」
「・・・千里か。」
のろのろと顔を上げると、里の中で一番見たくない顔―二年前に俺の友人、文吾の妻となった千里の、困ったような笑顔がそこにあった。
両手には料理が詰められているのであろう、膳を抱え、背には大きなゴザを背負っている。
「・・・旦那はどうした。」
「文吾さん、先に出ちゃったの。昨晩の楽の音、聞いた?あれを聞いたら、居ても立ってもいられなくなっちゃったみたいで。」
喋りながら何度も重さにずり落ちる荷を持ち直す様が痛々しく、俺はさっさとこの場を離れたくてならない。そうでないと、手を貸してのこのこと花見の席までついて行ってしまう。じゃあ、と切り上げて足を踏み出すが、
「矢一君、ねぇ!」
と日頃大人しい千里にしては大きな声で呼び止められた。一歩踏み出した分、近づいてしまった千里の顔は、相変わらず可愛らしかったが、目には疲れがあった。薄紅色の唇が小さく開いたかと思うと上目遣いに俺を見上げ、陰を落とすほど長い睫が震えた。
「お花見、行こう?」
「お前、」
馬鹿じゃねぇの?そう続けそうになり、俺は慌てて唇を噛む。千里なりに精一杯勇気を振り絞っての一言だったのだろう、頬を赤く染め上げながらもその瞳は俺への気遣いで溢れていた。
「・・・悪い。」
俯いてしまった千里をとっとと追い越せば良かったものを、俺は何故か
「お前さ、何で文吾なんかと結婚したんだ?」
と問いかけていた。千里は俺の問いに顔を上げ、しばらくきょとん、としていたが、ふっとその顔を和らげ、俺の知らない、幸せそうな笑みを浮かべた。
「優しい、良い人よ。」
俺は、ふぅん、優しい、ね。と口の中で呟くと、今度こそ足早に彼女の前を去った。しばらく、俺の背を追う視線を感じたが、やがてそれも離れ、代わりに俺は荷を下ろした時のような軽さと淋しさを覚えた。
山道へ入り誰ともすれ違わなくなった所で、ようやく俺は一息吐くことができた。気晴らしにがさがさと落ち葉を蹴りあげると、その下にはたんぽぽがぎざぎざの葉を広げ、蕨が薄緑の頭を突き出していた。食べ方によっては中々旨いのだが、手を出すのは帰り際にしよう。そのまま地を蹴りながら進んでいた俺は行く手に岩に腰掛けた人影を見つけ、思わず顔をしかめる。
「お前・・・何のつもりだ。」
ぴょこん、と立ち上がった圭は気恥ずかしげに笑うと俺の元に駆け寄り、改まった声で切り出した。
「矢一さん、お願いがあります。僕と・・・僕と一緒に、旅に出て頂けませんか?」
「はぁ?」
よく見れば腰にも背にも荷を背負い、出会った時よりもしっかりとした旅装束となっている。
「あの、突然というということは分かっているんです。でも、この機会を逃したらもう、次は無い気がして。」
喋れば喋る程必死さを増す甲高い声を治めようと、俺は圭の肩に手を置く。
「・・・つまり、俺にお前らの一座に入れっってことか?」
一つずつ事態を確認しようとしたが、初っぱなから全力で圭は頭を振り、否定を示した。
「そうじゃないです・・・僕と、二人で旅に出ませんかっていう・・・これでも僕、笛には自信ありますから。他所から引き抜きに遭うこと多いですし。しばらくは僕の笛だけでも、」
「ちょっと、待て。」
ふと俺は、圭の握りしめた笛が目に入り、愕然となる。
「お前。今日の花見・・・抜け出してきてんじゃねぇか、何してんだ!」
圭は俺の怒鳴り声にも怯まず俺を見上げ、その真っ直ぐな眼差しに少し頭が冷える。
「・・・お前、今の一座、嫌なのか。」
「山の中ではぐれた仲間を、探そうともしない一座だよ?」
俺が圭の肩から手を下ろすと、圭はくるくると十分の笛を弄び始めた。
「探そうともしない癖にね、引き抜きは認めてくれないんだよ。そもそも、前の座から引き抜いてきたのは自分たちなのにね。だからこうやって逃げてみたんだけど、今の所探しには来てないよ。戻ったら怒られるだろうけど。昨日みたいに。」
圭は弱々しくも、にっと笑った。
「僕が笛で稼ぐから、矢一さんは狩をして、ご飯作ってくれたらそれでいいよ。ごついお兄さんが一人いるだけで、大分安心して旅が出来るだろうし。それに、矢一さん結構いい声してるから、練習したら笛と謡とでやっていけるかもしれない。」
「・・・お前、俺が謡ってたの聞いてやがったな。」
「中々良かったですよ。」
「俺、小歌しか知らんぞ。」
「充分ですよ。いいじゃないですか、小歌。」
確かに、俺には小歌で充分だ。誰でも謡える小さなうた。しきたりも無く、出来を競うことも無く、こっそり一人で謡うための、それでいて思いがけず誰かに通じることのある、ささやかなうた。
「・・・ずっと二人で旅するつもりか。」
「途中、どこかで他の一座に入れてもらってもいいし、どこかに居着いてもいい。勿論、ずっと二人でも良いけど。」
「・・・どうして俺なんだ。」
「それはね、」
圭は少し気まずげな顔をして、目を逸らした。
「昨日、聞いちゃったんだ。二年前の、矢一さんの武勇伝。それ聞いてね、思ったんだ。いや、会った時にも思ったけどさ。一緒に旅するならこの人がいいって。優しくて、強くて、真っ直ぐな人だって。」
「武勇伝、ではないだろう。」
「まぁ、ね。」
ぺろ、と圭が舌を出す。むしろ、悪口として聞かされた筈だ。それなのに、俺を肯定してくれたことは正直、嬉しかった。初めてのことだった。しかし。
「悪いが、行けない。俺には―」
「ここに桜があるから、だよね?」
圭が、ここからはまだ見えない筈の桜の方を見上げる。
「僕、最初矢一さんのこと、仙人かと思ったもん。こんな山の中で、桜に囲まれて眠ってるなんてさ。でも、人だった。普通の人だった。普通に、ものすごく普通に・・・いい人だった。」
今にも泣き出しそうになりながらも、声を振り絞る圭は今まで見た中でとりわけ、幼く見えた。
「いないんだよ、ふつうにいい人なんて。ぼくが助けてほしいときに、助けてくれる人なんて、他に。みんな、ほっとくんだ。見て見ぬふりするんだ。逆にぼくがだれか、困っている人を助けようとすると、今度はばかにするんだ、わらうんだ、こどもに何ができるって。矢一さん、ぼくといっしょに来てよ。ここにいたら、いつか桜に食われちゃうよ。」
「俺は・・・」
「それでもいい、とか言わないでよ!ぼくはいやだ、そんなのいやだ、矢一さんは、ぼくがはじめて出会った、いい人なんだ!」
まくし立てる圭の頭を、取りあえず撫でてやると、それで箍が外れたのか堰を切ったように泣きじゃくり始めた。迷子を案内してやっただけでどうしてここまで懐かれるのか、と思ったところで、こいつには、それさえしてくれる人がいなかったのか、と気づき、撫でる手に力を込める。
「圭、旅は好きか?」
俺は、桜から自分の心が離れつつあることに気がつく。あぁ、目の前の子どもが泣き止むなら、何だってしてやるさ。
「ぼくは、すき、だよ。」
旅。考えたこともなかった。俺は、何処に行きたい?何を見たい?何を得たい?分からん。だが、圭が言うならそれは楽しいんだろう。圭がいるなら俺は何処へでも行けるだろう。
「俺、見つけられるかなぁ。」
「ぼくが、あげる。」
圭は目に涙を溜めながらも、何を、とも聞かずに強い口調で言い切った。
「今までにもいっぱい、いっぱい見てきたんだ。きれいなもの。矢一さんの桜にだって負けないぐらい・・・。」
ふと、俺の中で一つの思いつきが浮かび、俺はその馬鹿馬鹿しさに自分で笑ってしまう。
「なぁ、圭。旅に出て、一番美しいものを見つけたら・・・そこに庵を結ぼう。そして、そこで生を終えよう。」
圭は涙を拭いながら生意気そうな笑みを浮かべた。
「いいですね。そうしましょう。」
その前に、と俺は獣道を目で辿る。
「俺も身支度をして・・・最後に、あの桜を一目見てからでいいか?」
圭は頷き、俺が荷を取りに戻るまでおとなしくそこで待っていてくれた。
桜は変わらず、そこに咲いていた。ほぼ満開と言って良いだろう。そもそも、咲いた端から散っていくものに、満ちるということがあるのだろうか。
花吹雪の中、圭はしばらく見とれていたが、ふと悩み顔になり、かと思うと急に笑い始めた。
「何だ、どうした。」
「いえ、なんだか結局、僕らの庵はここになるような気がして。ほら、あの辺りとか平らですし、庵を結ぶのにうってつけですよ。」
圭は嬉しそうにあちこちと指を差し始め、俺は、そうかもな、とは答えずに桜に背を向ける。これ以上見つめていると、本当に離れられなくなりそうだ。
そして俺たちは、行き当たりばったりの旅に出る。俺たちがどこで何をして、その結果野垂れ死のうとも、いつまでも彷徨っていようとも、きっとこの桜は変わらず咲き続け、散り続けるのだろう。桜は散るからこそ、人は狂う。そこに己の死を垣間見て。そしてこれは狂った俺たちの、夢の涯。
―何せうぞ、くすんで、
一期は夢ぞ、ただ狂へ
―何してるんだ、つまらない顔して。
この世は夢、夢なんだ。
ただただ、狂え。