7:平和な世界
灰色の曇り空の下、デイカンは王宮で最も高い塔の頂上に座り、眼下の様子を眺めていた。
視線の先では感情に乏しそうなゴーレム達が黙々と作業に勤しんでいる。
その中に生きている人間の姿はもちろん一つも見当たらない。
デイカンによって以前よりも高い知性を手に入れたゴーレム達の進撃が始まってから一ヶ月。
既に王国全土は彼らに蹂躙され尽くし、段階は各地で積み上がった大量死体の処理作業へと移行していた。
国王派と反国王派のような人間の中での対立軸は既にその意味を失い、理想的という表現の使用を検討してしまうほど平等に、彼らは敗者となった。
この短期間に殺到した死者の魂達。
しかしその弔い方を決めるのは弔う側である。
ゴーレム達が屍となった人々の衣類を引きちぎり、その体を挽肉になるまで叩き、すり潰す。
別にそこに誠意の類が無いわけではない。
それがゴーレムである彼らにとっての一般的な遺体の処理方法だ。
彼らは死んだ同胞達もそうやって大地に還す。
コロンブスの卵。
現在の彼らにとってはそれが死せる者達に対する唯一の行動であり、それ以外の選択肢があるという発想にはまだ至っていない。
――生を終えた者達は等しく母なる大地へ。
全身を大量の血で赤黒く染めたゴーレム達は、亡者の魂を弔うべく、作られたばかりの挽肉をせっせと手掴みで地面に撒いていた。
老若男女、あるいはその身分の上下を問わず、その扱いは変わらない。
人間にとって猿の個体を区別するのが非常に難しいのと同様に、彼らゴーレムに人間の個体を識別するのはまず期待できない。
故に、いったいその中のどれが国王でどれが宰相なのかを判断することは、不可能と言い切りたい衝動すら湧くほどに困難だ。
あるいはどれが国王派でどれが反国王派であるのか。
ドロリとしたペースト状にすら姿を変えた両者の血肉は入り混じり、本人達の意図からは大きくかけ離れた形での融和を果たしていた。
そしてそれはもちろん、シゲルの妻だった四人に関しても同じである。
参戦当初こそ恩寵の力でゴーレム達を薙ぎ払っていた彼女達ではあったが、昼夜を問わず押し寄せる軍勢によって休息を取る猶予すらも奪われ、最後は疲労の色が濃くなったところをその物量によって押しつぶされた。
例に漏れず肉骨片となった彼女達はいったいどの辺りに撒かれたのか、という質問に対して明確に答えられる人間は、きっとこの世界には存在しないだろう。
いや、そもそも人間そのものが、もう殆ど生き残っていないである。
街や集落から逃げ出し、近くの森や山に避難することに成功した者達は僅かに存在する。
しかしこれまでの生活基盤を失った彼らが生き残れる可能性は皆無だ。
もはやこの世界のどこを探しても魔獣やゴーレムの脅威がない地域など存在せず、その中で生きていけるだけの武力を彼らは持っていない。
例外がいるとすれば、それは特に強力な魔獣の蠢く西方の森で二十年を過ごしてきた実績を持つ”魔道士”イグルだけだろう。
だがその彼は最後まで姿を見せることはなかった。
滅亡の危機を前にし未だ対立し続ける人々を仲介する勇者も、迫り来るゴーレムの大軍を圧倒し屠り去る勇者も、現れはしなかったのである。
ましてや救いを求める大衆の声に答えて魔王に挑む勇者など、論外だ。
「……呆気ないもんだ」
デイカンは一人呟いた。
無風に近いほど穏やかな空気にも関わらず、その言葉は彼以外の誰の耳にも届かない。
食欲も性欲も睡眠欲も無く、一部の例外を除けば主張に乏しいゴーレム達。
以前よりも遥かに賢くなったとはいえ、大地から生まれ自然との共生を本能とする彼らに同胞同士で争う理由は見当たらず、ただ必要に応じて指揮と演説に長けた者がその役割を果たすだけだ。
そんな彼らに対し、大きな内紛を抱えたまま対抗しようとした人間達。
個々の戦力では大きく劣り、単騎でそれを上回るのは恩寵を持った四人の未亡人のみ。
さらには組織力も規模も劣る上に補給線まで潰されたとなれば、勝機などあるわけがない。
デイカンがやったのは、ただゴーレム達に知性を与えただけ。
しかしその結果としてこの世界の主役が人間からゴーレムへと入れ替わるのは、必然以外の何物でもなかった。
世界の平和、永遠の安楽。
人間達には夢物語と言われたような理想郷の実現が目前まで迫っている。
――彼らが求めたのだ、それを。
望まぬ者達が争いに巻き込まれることのない世界。
飢えも乾きも、孤独も絶望も、一切の苦痛を感じることのない世界。
即ち生きることの放棄。
空虚と虚空、移り変わる両者の境界を孕んだデイカンの瞳が動く。
見上げた曇天は日光が直接大地に差し込むことを一切許さず、天の全てから青い空を追放していた。
――苦痛のない人生?
――自分が肯定される世界?
……戯言だ。
肯定されることに、いったいどれだけの価値があるというのか。
自己を賢者と思い上がった愚者に見える世界など、たかが知れている。
見通せない未来、知らない物事、読めない他人の心。
生きるというのは即ち不安や孤独、そして絶望との戦いだ。
自己を否定され、誰もが心を折られてその歩みを止める……、そんな現実に挑むということだ。
目を閉じて何が見える?
嘲笑を恐れて何が出来る?
歴戦の戦士はその古傷を誉れとする。
無傷で手の届く物など、惰弱の証明でしかない。
苦難と困難の狭間、価値のある未来が存在するのはそこだけだ。
過去の栄光にいったい何の意味があるというのだ。
自分自身が今の自分を否定しなければ、高みに手は届かない。
デイカンは無言で立ち上がると、躊躇うこと無く塔から飛び降りた。
人々の血肉の撒かれた大地を両足で容赦無く踏みつける。
三つの目的の内、二つは既に達した。
残るは一つ。
人間達の死体の山とそれを叩き潰し続けるゴーレム達の間を抜け、デイカンは西の森へと向けて歩き出す。
”勇者”イグル。
希望と栄光に背を向けた男。
この二十年間、一人で孤独と絶望に向き合おうとした男のいる場所へと。
……かつての自分と同じ道を歩み始めた男に、魔王として改めて会うために。