6:一衣帯水、四面楚歌
王都で聖剣を受け取ったイグルは、西方の森林の中にある自分の家に戻ってきた。
この二十年間、自給自足をして生活してきた場所である。
「帰ってきたか。薬草茶を貰っているぞ?」
扉を開けたイグルを椅子に座って茶をすすりながら迎えた男が一人。
漆黒のローブを身に纏い、テーブルの上には脱いだスカルフェイスが置かれている。
デイカン=モナ。
先日シゲル達を一方的に屠った男。
世間では魔王と呼ばれている人物だった。
「……」
家の中に誰かがいることを認識した時点で剣を抜いていたイグル。
しかし相手に動きがないのを見て取ると、すぐに剣を納めた。
魔王が使うと聞いていた大鎌の姿も、家の中には見当たらない。
「勇者イグルは聖剣を使わないんだな」
イグルが聖剣を腰に差したままで元々使っていた剣を握っていたのを見たデイカンは、静かに笑った。
魔王にとって天敵とされる存在が目の前にいるというのに、そこには一切の焦りが見られない。
まるで意地を張るかのように、イグルはもう一つの椅子に座った。
位置はちょうどテーブルを挟んで正面だ。
そんな彼に対して、デイカンは無言でカップに入れた薬草茶を差し出す。
「カップとポットは茶代の代わりだと思ってくれ。特に他意はない。ただの容器だ」
イグルが普段使っている土で自作した赤土色の粗末な容器とは違い、彼が持ってきたらしき白い陶器は優雅な雰囲気を纏っていた。
中に入った液体が白を背景にして琥珀に輝き、普段よりも数段上品に見える。
「毒を入れたりもしていないぞ?」
イグルの警戒心を見透かしたようにデイカンは付け加えた。
ここまで言われたら飲まないわけにもいかないだろうと、カップに手を伸ばす。
いつもと同じ味。
しかし普段のように粗末な飲料しか口に出来ないという惨めさはなく、逆に少し贅沢をしているような気分が口の中に広がった。
「昨日、ゴーレム達に力を与えた。そう遠くない内に王国に向けて侵攻を始めるだろう。……止めたいならそれが最後の機会になる」
「……」
イグルはやはり何も答えない。
その口も、そして瞳もだ。
「あるいはこの場で俺を殺せば全てが収まるぞ? そうすればお前は今度こそ英雄だ。ちょうどいい聖剣だってある」
「……興味はない」
「……そうか」
会話はそこで途絶えた。
沈黙。
静かに茶をすする音だけが響く。
そして無言で薬草茶を飲み干し終わった後、デイカンは立ち上がった。
スカルフェイスを被りながら家の出入り口へと向かう。
「また来る」
一言だけそう言って返事を待たずに家を出た男の瞳は、イグル同様に底無しの空虚で満たされていた。
★
イグルが王宮で聖剣を受け取ってから数週間後、北方の山岳地帯からゴーレムの大軍が王国に向かって進軍を始めた。
土や鉄、黄金と、様々な物質から生まれたゴーレム達が南に向かって歩き続ける。
その動きは知能が低いとされるゴーレムとしては考えられないほど組織的に統制されており、北部に散らばっていた街は瞬く間に壊滅した。
「大地カラ生マレタ我ガ同胞タチヨッッッ。我ラハ神ヨリ知恵ヲ授カッタッッッ! 今コソ我ラガ理想郷ヲ作ルノダッッッ!」
刻々と南下する最前線。
王国は迫りくる脅威に対してありったけの戦力を投入するも、ゴーレム達の耐久力と圧倒的な物量の前には為す術無く、その戦力を急速にすり減らしていった。
さらには大衆の不安を煽る形でついに反乱を起こした反国王派の貴族達。
中核となる南部と東部の諸侯に加え、さらに北方から避難してきた貴族や僧侶達を受け入れることで数の優位を手にした彼らは、教会と組んで全ての責任を国王派に押し付ける形で大義名分を掲げた。
即ち、国王派は勇者と女神を敵に回したのだ、と。
二十年間のシゲル偏重にせよ今回のイグルの懐柔失敗にせよ、そこには彼らとの政治力学が多分に影響したというのに、自分達に都合の悪い事実は全て無視されていた。
それでも簡単に扇動されてしまうのだから、大衆というのも安いものだ。
感情や理想論のままに動いても、それが上手く行かないからこそ為政者達は苦労していたのだというのに。
北からはゴーレム軍、東と南からは反国王派と教会の連合軍。
まだ顕在化していないとはいえ、西方からは魔王の影響で活性化した魔獣達が押し寄せてくる可能性もある。
正に文字通りの四面楚歌だった。
おまけに神出鬼没の魔王は、いつどこに出現するかまったく予想がつかない。
「ええいっ! 勇者イグルはまだ見つからんのかっ?!」
各地から次々と王宮に届けられる被害報告を見ながら、執務室で宰相が叫んだ。
彼さえ味方に引き込めれば状況は変わる。
反国王派と教会の正当性は瓦解し、北方と西方からの脅威に対抗することができる。
しかしイグルに聖剣を渡して以降、王国は彼の足取りを掴めていない。
仮にも人が住むのに適さない西方の森林地帯で、二十年間も自給自足をしてきた男である。
気配を殺して強力な魔獣達と先手の奪い合いをしてきたような人間を追跡するのは、容易ではなかった。
彼が元々の住処に戻っている可能性も考えて再び使者は送ったが、そちらからも未だ音沙汰はない。
発見や説得失敗の報告以前に誰も戻って来ないのである。
計五回、合わせて十人以上を送り込んでこれということは、現地で何かがあったことは明白だった。
もしかすると、活性化した魔獣達によってイグルの家に辿り着く前に力尽きているのかもしれない。
いや、あるいは反国王派によって妨害されている可能性もある。
「宰相殿、勇者殿はやはり我々を……」
見捨てたのだろうか?
報告に来ていた役人の声は不安で震えている。
しかし王宮内では既にその見方が大勢だ。
「……」
宰相自身もその可能性が濃厚だと思っている。
しかし立場上、この状況でそれを口にするわけにはいかない。
なんと言えば良いかと答えを詰まらせた時、執務室にメイア達が入ってきた。
「メイア様……。皆様、その格好は?」
かつてシゲルと共に勇者パーティとして戦った四人の女性達。
その全員が戦闘用の装備に身を包んでいる。
宰相は彼女達の意図を即座に察したが、それには気付かない振りをした。
感情の機微に従って行動すれば全てが上手くいくほど、世の中は単純ではない。
現状の突破口を見出せない彼とて、それぐらいのことはわかっている。
「私達も前線に出て戦います」
「魔王に勝てるとは思いませんが、ゴーレムならなんとかできるでしょう」
勇者シゲルの補佐として恩寵を与えられた四人。
主役である勇者の恩寵には劣るものの、一般の兵士から見れば十分強力な戦力だ。
「……よろしくお願いします」
状況の深刻さが理解できていない者達の反対で頓挫していたが、彼女達を戦わせるという案は宰相も考えていた。
よって彼女達自身からの申し出は願ってもない話だ。
これで北方からの脅威はかなり緩和されるだろうと彼は予想した。
(後は貴族達か……。やはり教会と組んでいるのが厄介だな)
戦場へと向けて歩いていく未亡人達の後ろ姿を見送りながら、宰相は改めて反乱を起こした貴族達への対応を考えた。
現実問題として、大衆を味方につけているのは彼らだ。
彼らは北のゴーレムへの対応をしていないこともあって、かなりの力を温存している。
このまま国王派と反国王派がぶつかれば、おそらく王統は途絶えることになるだろう。
そして勝者となった彼らが新たな王を擁立することになる。
……が、おそらくそこまでだ。
国家の運営はそう簡単なものでないことは彼も身をもって理解している。
政治とは苦渋と辛酸の積み重ねだ。
非の打ち所のない英雄と名君を大衆は期待するだろうが、そんなものは空想の世界にしか存在しない。
人気を維持するために良心的な手ばかり打てば、国家運営は即座に破綻するだろう。
魔王は未だ健在だというのに、そんな状態でどうやって勇者を味方につけるというのか。
救いを求める民衆の声に新たな勇者が答える?
宰相は思った。
ありえない、と。
宰相を始めとする国王派が勇者に対して持っていた幻想。
勇者シゲルと過ごしたこの二十年間は、それを打ち砕くのに十分な時間だった。
彼らは機嫌を取れば動いてくれるような救世主でも、女神から遣わされた愛と正義の使者でもない。
ただ彼ら自身の損得勘定で動く、強力な傭兵なのだと。
(いよいよ詰んだか……)
積み重なる脅威達が互いに互いを補い合い、もはや突破不可能な段階に達している現実を、宰相はついに受け入れるしかなかった。