0:破滅の音色は演者を選ぶ
一人の男が夢を見ていた。
自分の過去の夢を。
★
深夜。
魔道士イグルは宿屋の一室の隅で耳を塞ぎ、いつものように無言で涙を流していた。
薄い壁の向こうからは恥も遠慮もない男女の声が響いてくる。
「ああっ! いい! いいよっ!」
狂ったように喜びの声を上げている十代後半の女の名前はメイア。
……イグルの婚約者だ。
「俺もだ! いくぞメイアッ!」
続いて男の声が響く。
イグルの本能が自分の精神を守ろうと、壁の向こうで起こっている現実を可能な限り都合良く解釈しようと試みる。
もしかしたら、彼らは賭博に興じているのかもしれない。
確かに声だけから判断するならば、その可能性は十分にある。
あるいは彼らが麻薬の快楽に溺れていたのだとしても、今ならその事実を歓迎できそうだ。
しかし規則的に軋み続けるベッドの音は、そんなささやかな希望を容赦無く否定した。
壁の向こうで二人が今何をしているのか。
その答えはもう一つしかない。
壁の向こうでメイアと一緒にいる男の名はシゲル。
魔王を倒すために異世界から呼び出された勇者だ。
イグルが勇者の恩寵を与えられたシゲル達と共に魔王討伐のための活動を始めてから既に数ヶ月。
彼らは魔王の影響によって活性化した各地の魔獣の討伐を行っていた。
主要な拠点を脅かす魔獣を狩った後で本丸の魔王を攻め落とす予定になっている。
勇者パーティは全部で六人内、シゲルとイグルを除いた四人は全員が女性だ。
イグルの婚約者メイアとその妹マイア。
イグルとは実家が隣同士で幼い頃からの知り合いであるナエル。
そしてイグルの実の妹であるミナ。
いずれも年は十代後半。
いよいよ大人になりつつあった彼女達は、シゲルによって文字通り大人の階段を昇った。
初夜を経験した彼女達はそれまで仲良くしていたイグルに対して手の平を返したように冷たくなり、代わりに毎晩交代でシゲルと交わるようになった。
若い男女の濃厚な肉欲の時間。
当初、魔導士のいないパーティの補強であったはずのイグルの役目は、もはやただその証人となることとなっていた。
「兄さん。その目、もしかしてまた寝てないの?」
翌朝、いつものように赤い目をしたイグルを見たミナが彼に向けたのは、いつものように嫌悪感の満ちた視線である。
彼女の横にはマイアとナエルもいた。
「やめてくれない? 私達がシゲル様と”してるの”を聞いてるとか、マジでキモイんだけど」
ミナの言葉に同意するように、他の二人もイグルに軽蔑の視線を向けた。
しかしシゲルとメイアが部屋から出てきたのを見つけると、さっさとそちらに行ってしまった。
「シゲル様ー、一緒に朝ごはん食べましょー?」
「ああ、そうだな。運動したから腹が空いたよ」
「ちょっとやだー、シゲルってばー」
五人で楽しそうに宿の食堂に向かっていく。
一瞬だけ、勇者シゲルが勝ち誇ったような視線をイグルに向けたが、ただそれだけだ。
そしてその数週間後、勇者パーティは巨大な龍の姿をした魔王を危なげなく倒して王都に帰還した。
決定的な場面が訪れたのはその時だ。
勇者パーティの凱旋式。
街中の人々の視線のその先にいたのは勇者シゲルと四人の少女達。
しかしそこにイグルの姿は無かった。
勇者パーティの中で唯一、恩寵を持たないイグル。
魔道士がいないという理由で勇者パーティに加えられた彼だったが、英雄譚には邪魔だと判断された。
……それはいい。
最初から期待はしていなかった。
問題はその後に広場で行われた勇者の演説だった。
「みんなありがとう。ここで一つ報告がある、聞いてくれ。昨日、国王陛下から王女ロゼ様との結婚の許しを頂いた。そして実は先日、一緒に魔王と戦ってくれたこの四人にもプロポーズをしてOKを貰っている。僕は心の底から愛している五人を、妻として迎えたいと思う」
突然発表されたシゲルの結婚。
それも相手が王女ロゼとメイア達四人とあって、既に興奮していた聴衆はさらに沸き上がった。
もちろん呆然とするイグルを除いてだ。
彼はこの事態を理性でこそ想定しながらも、心の何処かでは悪夢の終焉を期待していた。
勇者の補佐役として女神から恩寵を与えられたとはいえ、メイア達四人はあくまでもイグルと同じ平民だ。
もしかしたら魔王討伐後はシゲルと離れて元に戻ってくれるではないかと、十代の少年に残された無垢が信じたがっていた。
過去を無かったことには出来ない。
しかし彼女達がそれを後悔し、自分が地獄は過ぎ去りもう二度と訪れないのだと水に流せれば、そう悪くはない未来がやってくるのだと。
しかし現実は、ただただ残酷だった。
「メイアにっ、メイアに会わせてくれっ!」
「ダメだッ! 立ち去れ!」
演説を終えて王宮の中へと入っていったメイア達を追いかけたイグルを、王宮の兵士達は門前払いした。
イグルが勇者パーティに参加していた事実は彼らも知っているはずだというのに、その態度には何の慈悲も配慮も無かった。
「なんだお前。祝い事に水差しやがって!」
「そうだそうだ!」
周囲にいた人々も、先程の勇者の演説で熱狂した勢いで彼に罵声を浴びせ始めた。
自分を賢者と思い込んだ愚者ほど無用に攻撃的な者は世の中にそう多くない。
事情を把握した気になった彼らから、やがて地面に転がっていた石までもが飛び始める。
「……!」
唇を噛み締めてその場から走り去ったイグル。
涙を流していたのは決して体の痛みが原因ではない。
打ちひしがれた心は彼に撤退を促したが、安全地帯だと思っていた実家もまたイグルに対して牙を向いた。
「イグル。すまんがお前とはたった今から他人だ。この家を出て行ってくれ」
震える足で家に帰ったイグルに対し、父親から告げられた絶縁。
「そんなっ……! なんで急に……?!」
「ミナがシゲル様と結婚するからだ。シゲル様はゆくゆくは国王になられる御方。お前がいては色々とまずい。マイアの家との関係もあるしな」
兄と妹のどちらを優先するか。
兄のイグルを優先すれば王家と勇者の反感を買い、マイアの実家とは敵対することになる。
しかし妹のミナを優先すれば、王家と勇者の親族となり、マイアの実家と敵対することもない。
兄と正義を取るか、あるいは妹と利益を取るか。
先日までは婚約破棄に憤っていた両親も、所詮は俗物でしか無かったということだ。
心と体、という表現はまるで体とは別に心というものが存在しているかのように言っているが、少なくともその精神活動と言うべきものは脳を主体とした臓器の活動の上に成り立っている。
即ち肉体とは完全に独立した存在である魂が肉体を用いて行う活動こそが精神と呼ぶべきものであって、精神的ダメージというのはそのまま肉体的ダメージと同じ軸の上にある。
この時のイグルが精神的な支えの一切と共に気を失ってその意識を暗闇に委ねてしまったのは、決して彼が肉体的に貧弱だったというわけではない。
★
異世界から召喚された勇者シゲルが魔王を倒してから一ヶ月後。
王都では勇者パーティの凱旋式に続いて、結婚式が大々的に行われた。
新郎はもちろん勇者シゲル。
そして新婦は王女と、勇者パーティに参加して彼と共に戦った女性四人の計五人。
第一夫人は王女ロゼ。
第二夫人は魔弓士ナエル。
第三夫人と第四夫人は戦士メイアとマイアの姉妹。
そして第五夫人となるのは治癒士ミナだ。
王女の結婚と事実上の次期国王の決定の割には準備期間が短いのではないかという声もあったが、熱気の冷めきる前にという現国王の配慮によって強行された。
そしてその目論見通り、魔王という脅威からの開放、そして王女と英雄達の結婚によって国中がお祝いムード一色となっていた。
……ただ一人の男を除いて。
狂乱じみた街の喧騒に背を向け、ただ俯いて王都を去っていく男がいた。
魔道士イグル。
勇者パーティの一員として勇者シゲルや四人の夫人達と共に魔王を倒した男。
そして勇者の第三夫人メイアの元婚約者。
すなわち第四夫人マイアにとっては義理の兄になるはずだった人物であり、第二夫人ナエルとは子供の頃からの親しい隣人同士、そして第五夫人のミナにとっては実の兄である。
それなりに苦労を伴いながらも順風満帆だったはずの人生。
しかしそれも勇者シゲルという存在によって全てが覆った。
婚約は一方的に破棄され、魔王討伐の道中では勇者と四人の肉体関係を見せつけられながら雑用か奴隷のように無下に扱われる日々。
帰還してみれば僅かな希望を踏みにじる勇者の演説と婚約の発表。
王への直訴も叶わず、祝い事に水を掛ける不届き者として門前払いされた上に勇者パーティに参加した事実そのものも無かったことにされた。
娘と勇者の結婚を喜んだ親達からは厄介払いされ、見ず知らずの人々から浴びせられる心無い言葉と暴力の数々。
この世界に彼の味方は一人もいなかった。
人間も、そしてこの世界の神すらも。
その心を死に至る病で満たしたイグルは誰にも引き止められることなく、人里から姿を消した。
★
「……夢か」
イグルは粗雑な作りのベッドの上で目を覚ました。
希望を失い空虚を極めた瞳が捉える視界を満たすのは、土を固めて作られた天井。
自分で魔法を使って作った家の天井だ。
「イグル殿、イグル殿は居られませんか?」
家の扉がノックされる音と共に、自分の名を呼ぶ男の声がイグルの耳に届いた。
あれから既に二十年。
王国の西に広がる森林地帯でひっそりと暮らしていた彼を最初に訪問する者が現れたのは、ようやくこの時になってからだった。
 




