第86話 アミシの過去
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「違うなら違うって言いなさいよ」
「……」
「あなたは絶対に違うとは言わないわ」
目を見開いたハトホルは肘置きの端を握りしめて、その口は何か言葉を紡ごうとして震えていた。
「普通なら、そんな与太話やめろって遮ってもいいはずなのに、あなたは最後まで聞いてた。なぜなら、自分だけの話ではなくて、あなたと王様の物語だったからよ」
「……」
「なんなら、王様と直接話す? 博物館で会えるわよ。ニネ王は……彼はあなたを覚えてる」
ニネ王の名前を出すと、固まったように見開いたままだった、彼女の両目から涙がすっと溢れた。
「……わかったわ。降参よ」
ハトホルは団員たちを後ろに下がらせ、レネネにお茶とお菓子を新しく用意させた。
「私の本名はアミシ。この国の言葉で『花』という意味。あんまりよくある名前過ぎて、だいたい名無しという感じで使われているわ」
気づいた時には奴隷だった。
おそらくは、捨てられて奴隷市場で売り買いされたのだろう。
踊り子たちのお世話をする毎日。衣装の洗濯と皿洗いが主な仕事だった。ある日、大河で洗濯をしていると、大勢の大人たちが川底の砂を取りはじめた。川底には砂金が転がっているのだと彼らは教えてくれた。
それ以降、暇があれば、仕事を終わらせて砂金採りを始めた。しかし、現金に替えるといってとたいした額にはならない。
奴隷から抜け出せるぐらいの金が欲しい。子供心に、家事ばかりの毎日に飽き飽きしていた。
踊り子たちは、街から街へと渡り歩く生活だ。どこの街に行っても、大河と砂漠の景色はだいたい同じだ。大河を離れては人々は生きていけない。踊りを教えてもらっても、それだけでは集団から抜け出すことは叶わない。
ある日、いつものように川で砂金採りをしていると、ざるにいつもとは違う、ずっしりとした手応えがあった。拾ったのは大きなエメラルド。どうせ偽物だろうと、手に取ると、頭の中に声が響いた。
『砂の中から拾ってくれて礼を言うぞ』
「なにこれ……。石が喋った……」
エメラルドを拾ったなんてバレたら、奪われてしまう。服の中に隠し、日が暮れるのを待った。
月の夜に誰もいない場所で、まじまじとエメラルドを眺めた。こすってみると、突然、石の中から光だし、女性の姿が現れた。
「だ、だれ……? なんなの……」
「私は神殿に飾られていた者。この国ではハトホルと呼ばれている」
「……女神ハトホル……。神殿の女神像の目は、たしか、エメラルドだって聞いたことあるわ……」
とすれば、目の前のこの精霊は、本当に女神なのだろう。
「ずっと川底にいた。退屈でな。拾ってくれた礼に、願いを叶えてやろう」
「……」
「なんでも言ってみろ」
金と綺麗な家、誰にも殴られない暮らし。溢れるほどの宝石と服と靴、腹いっぱい食べられる生活。
欲しいものは山程ある。
奴隷以外の人生。
家族がいて友達がいて。
「友達になって」
「それが望みなら叶えよう」
「……」
あれこれ考えていたのに、口から飛び出した願いは、それだった。
奴隷から抜け出したかったんじゃない、孤独から抜け出したかったんだ。
「確かに聞き届けた。お前の名は」
「私はアミシ」
「アミシ。良き友として振る舞え。さすれば、お前の力となろう。永遠に」
それからは、私達は親友になった。相談すれば彼女は何でも解決策を教えてくれた。
真剣に舞踊を極め、城で披露するまでになった。
いつのまにか、奴隷から踊り子へ、そして王に見初められた。
「そこからはお前たちが知っている通りだ。長引く戦に、民衆は怒った……。そして我らは川に投げ込まれた」
話を聞き終えて、疑問が浮かぶ。
なぜ、良き友と呼んでいた女神は、戦争を続ける友を止めなかったのか。
「アミシさん、あなたは何故、生き延びたんですか」
「……夫が私の脚に、エメラルドを埋め込んだ。……女神は、私を生かしてはくれたが、それから姿を見せてくれなくなった」
友の忠告を無視し、信頼を失った。
家族になってくれた王も、王家も、国もすべて失った。
「私はまた、ひとりぼっちになってしまった」
「……」
「生き長らえた理由もわからない。夫とともに死ぬべきだったのかも知れないが……。その時、私に残っていたものは、すべてに対する怒りだった」
流れ着いたのは大河の果て、海に流れ出るところだった。
城下町へ戻り、大河の水をせき止めた。
「こんな国は滅びてしまえばいい。私が起こした洪水が、旧王国を水没させた。王政が倒れ、商人たちが新たに国を支配するようになった。それが、今のテル・アルマナだ」
話し終えたアミシは
「私はこの国を滅ぼした。愛しい故郷を。国を滅ぼした上に、女神の信頼を失った。おめおめと神の前に出ろというのか」
と笑った。洪水を起こして国を滅亡させて怒りも流れていった。
「私には何もない」
「なら、石だけでも返してくれない?」
「ああ。返してやろう。体に埋め込んである」
「取り出したら死んでしまうわよ。石の魔力で生かされているのだから」
「私はもう充分に生きた。夫にも会いたい」
死にきれず長い時を彷徨った。
「女神ベリロスが遣わした者よ、持っていけ」
「そうね……。と言いたいところだけど……」
「リリー様、彼女を殺して石を持ち帰るつもりですか? お友達が聞いたらどう思います」
「ええ。わたしもそう思っていた。トレニアは優しい子だから」
そんなことを知ったら、きっと怒る。目覚めさせたところで、友情が壊れてしまっては、その方が何万倍も辛い。
命を軽んじるようなことをして、友達の命だけ助けてもらおうなどと、馬鹿げている。
「女神ベリロスが遣わした者よ、遠慮するな」
「……他人を殺して、助けても、私の友は、トレニアは喜ばない」
女神ベリロスと話さなくてはならない。
友と呼んだアミシを殺したら、女神ベリロスは怒るのではないか。
……友達なら、なぜ、詳しいことを何も教えてくれなかったのか?
「あなたも来るのよ」
「……」
「ベリロスは、人間は自分を利用しようとする者ばかりだったと嘆いていた」
アミシもまた、女神と向き合わなければならない。
生きていれば、友情は回復できる。そのためには恥を忍んで会わなくてはならない。
「女王様、民を殺したあなたを、きっとベリロスは怒っている。あなたは女神との友情を投げ出した。友に謝らなければならないわ」
「……」
「あなたも謝らなきゃって思っていたはずよ。誇りを取り戻すの。女神の友として生きていた時分は、あなたは良き友として振る舞っていたはずよ」
「許されるはずがない」
「許されたいんでしょ。だから生きてた」
明日の朝、迎えに来るとリリーは立ち上がった。
「ま、待って下さい!」
出口を塞ぐように、レネネは両手を広げた。
「レネネ、おやめ」
「お姉さまが何者であっても、私達を拾って育ててくれました。ここのダンサーはみんなそうです。リリー・ロック、あなたの都合で私達から母を奪うのですか」
なるほど、100%こちらの都合だ。困ったわねとリリーが両手を上げて見せた。
リリーが殺すかベリロスに殺されるかの違いのような気がするが、それを言ったところでどうなる。
「……レネネ、一緒にいらっしゃい。ベリロスとは、アミシが話をつけるとして、その後は、あなたが彼女を取り返して連れて帰ればいいじゃない」
「……」
「女神ベリロスが返してくれればの話だけど。じゃあ明日ね」




