第58話 バート・ヴィースゼの泉
1杯飲めば1年、2杯飲めば10年、3杯飲めば死ぬまで生きる。
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せっかく温泉掘ったのにとリリーはブツブツ言いながらも、記憶を頼りに川を遡って歩いた。
「この先に、助けた子の別荘があったのよ確か」
森の中を10分ほど進むと、急に視界が開けて、温泉街と呼べるような街道に出た。
お土産屋や、宿が何軒かあるようだ。
温泉まんじゅうとか食べたいが、さすがにないだろう。
「バート・ヴィースゼの泉ってことは、源泉があるんですか」
「そうよ。川からも湧いてるけど、もともとすごい量のお湯が吹き出してて、植物が生えないところだったの。見たらびっくりすると思うわ」
広い街道を進むと立て札に『バート・ヴィースゼの泉 ここより上』とあった。
石段を登ること、さらに10分。水音がしてきた。
「ここよ」
「うわあ……!」
石段を登りきると展望台のようになっていて、眼下に井戸を大きくしたような丸い穴がある。横3メートルはあるだろう。
そこから、絶え間なく温泉が湧き出している。インクをながしたような、いや、空の青を映したような、驚くほどの透明度だ。
滔々と流れ出す澄んだ流れは湯気を上げ、轟々と広い川になって流れ出している。
「反対側から、川がもう一本あるでしょ? 川の水とバート・ヴィースゼの流れを、一本にしているの。だから下流は人が入れる温度になってるってわけ」
確かに、バート・ヴィースゼの周りに植物は生えていないが、真水と合流するあたりからは、草が生えている。
「川の始まりなんて、初めて見ました……」
「そうね、あんまり見られるものじゃないかもね。ここのお湯は体にいいから、飲むと長生きできるそうよ」
1メートルほどの長い柄杓で、お湯を掬えるようになっており、コップまである。
看板には『1杯飲めば1年、2杯飲めば10年、3杯飲めば死ぬまで生きる』と書いてあった。
効能は、怪我・皮膚病・慢性婦人病・切り傷・高血圧症・動脈硬化症・肌荒れ・膝の痛み・記憶障害・物忘れなどなど、ようするにいろいろ効くらしい。
「物忘れにも効くそうですよね、リリー様、もう一杯飲みましょうか」
「えー……」
ほぼ熱湯のお湯を、ふーふー言いながら二人で飲んだ。
「まあまあ、しょっぱいわね」
「塩気ありますね」
二杯で止めるのが結局お得なのではないだろうか。
「リリー様、ささ、もう一杯」
「まだ飲ませる気!?」
「思い出すまで飲ませます」
「ほんとに効くと思ってるわけ!?」
「観光地なんだから、景色も変わってないでしょう。その頃、おばあさんと来てたんですよね。で、川で溺れた女の子を助けた」
「ええ」
「別荘に呼ばれたんですよね。別荘ってことは、地元の子じゃなかったんですよね」
「そうね、遠くから来てて、家族と……。母親が」
リリーの目が、泉から溢れる流れを見つめて固まった。
「……思い出した」
「リリー様?」
行くよ、と手を引かれて、石段を降りる。
街道を脇に逸れ、ずんずんと彼女は進んでいく。
しばらくすると、かなり大きな洋館が森のなかに現れた。
玄関の呼び鈴を鳴らすと、中から初老の紳士が答えた。
「どちら様ですかな」
「数年前に、こちらにお邪魔した者です。私の記憶が確かなら、同じ名前のお嬢様だったと思うですが。私はリリー・ロックと言います」
「……ああ……。お嬢様を助けてくれた方ですね。覚えていますよ。さあどうぞ」




