第34話 決断
赤ワインが壁と床に飛び散って、ガラスの破片が薄暗い中で刃のようにきらめいた。
リリーが、テーブルを殴る。
こんなことになるなんて、腹の底から絞り出すようなリリーの呟きを僕は聞き逃さなかった。
打ち付けた彼女のこぶしから、血が滲んでいる。
「知ってたんじゃないんですか」
「知らないわよ。どうでもいいもの」
使う側の状況まですべてに責任は持てない。
「アルベルタが誰を惚れさせようが、私には関係ない。でもまさか、恋敵が妹だったとは思わなかった」
「人が一人死にかけたんですよ」
「私のあずかり知らぬことよ」
「放っておいていいんですか、あなたの作った惚れ薬のせいで……」
「……どうして、知ってるの? よく考えたら」
ああもう、隠しても仕方ない。黒百合の女神に、リリーとアルベルタの会話の様子を見せてもらったと素直に白状した。
「あなたが魔女だとはなんとなくわかっていましたけど、惚れ薬で死人が出そうになるとは思いませんでした」
「ドールハウスに収まる精霊と、人間に化ける猫をつれている私が、普通の人間だと本気で思ってたんじゃないでしょうね」
テーブル越しの、彼女の赤い髪が、ピンク色に変化していく。
そして、瞳の色も、赤から金色に変わる。
「これは偽りの姿。本当の私は、いつも冴えない赤い髪の方よ」
「メイクじゃなかったんですか」
「私にとってはメイクよ。この国の、普通の人はできないでしょうけどね」
本物の魔法使い。
男受けするドレスもアクセサリーも、彼女にとっては、技術のひとつに過ぎなかったのか。
アメジストの指輪が、音も立てずに短刀に変化する。無造作にその刃が、小指の先を切った。
滴った血を唇に塗ると、リリーのドレスは、体にぴったりと張り付くようなシルエットに変化し、三角の帽子が現れた。
長めのアイラインに、赤い唇、黒いブーツ。
零れ落ちそうな胸元に、アメジストのネックレスが大輪の薔薇のように出現した。
「私はリリー・ロック。この国を滅ぼすために遣わされたラウネルの魔女。この街では暁の魔女と呼ばれているらしいけれど」
改めてリリーが魔女だと思い知る。それが偽りの姿だと知っていても、僕は心のどこかで、彼女が『普通の女の子』であるように願っていたのかもしれない。
手が届かない存在ではないと、思いたかったのかもしれない。
不思議な力を持っているけど、僕だけに優しい美少女。誰もが抱く幻想だ。
「私の仕事は女王リリースワンの暗殺よ」
「何故……ですか」
「私の恋人を誘拐したから」
ああ、恋人がいるのも知っている。
それでも僕は唇を噛んで痛みに耐えた。ガーネットの小鳩のような胸は張り裂けそう。
早く、ガーネットの姿から、元に戻りたい。
「ラウネルの王子を連れ帰って、この国を滅ぼすのが私の仕事」
「……本当なんですか。殺さないといけませんか」
「仕事をやり遂げないと、故郷に私の居場所はないわ。どうする? 嫌なら、元の世界へ帰してあげる。それでもいいのよ」
元の世界で僕を待っているのは、疲れた母親と、退屈な学校生活だけだ。
金もない未来もない、手元にあるのは夢だけのあの街と、幻想のようなリリーのの暮らし、いったいどちらが楽しい?
仕立屋さんだと思っていた目の前にいる美しい彼女は、暗殺者。
隣国の女王を殺して、王子様と幸せになる未来が待っている。
なんてこった、僕には帰る場所もないじゃない。
それなら僕はどうしたらいい。
僕はどうしたい。
いつも流されるだけのその辺の中学生に戻るだけ。
そんなのつまらない。
リリーのいない世界なんてつまらない。
僕は涙が頬を流れたのに気づき、リリーは驚いたように駆け寄った。
「どうして泣くの?」
「……さあ……。なんででしょうね」
「泣くのはおやめ。君が泣く必要なんてない」
リリーが頬の涙をごしごしと拭ってくれた。
不器用な魔女。素のあなたは、なぐさめるのが下手ですね。
いつもは、気をかなり使ってくれていたんだ。
こんなことで、暗殺なんて本当にできるのか。
「元の世界に帰してあげる」
「待ってください」
「戦いに巻き込みたくないの。君もアルベルタもゾーラも。私とシャーロットだけでラウネルに帰るわ。君の手を汚したくない」
嫌だ。ひとりきりで帰るのは、どうしても嫌だ。
僕はまだ幻想に浸っていたい。自分の意思が通らない夢現のような世界に戻るほうが苦痛だ。
「待ってください、僕にはあなたが、恐ろしい暗殺者だとはどうしても思えない。なにか事情があるのでしょう。聞かせてくれませんか」
あなたのそばにいたい。
報われなくてもいい。
「君を巻き込んでしまった。人殺しにしたくないのよ」
「仕方ないことです、もう戻れません」
「まだ戻れるわ」
「嫌です」
置いていかないで。
一人にしないで。
「おそばに置いてほしいと思ってた、僕は……、リリー様あなたのそばにいたい、せめて、友達としてでもいい」
「友達なんていらないわ! いつか君は元の世界へ帰ってしまう、また私はひとりぼっち」
「……ひとりぼっちなのは、僕も同じです。友達なんて、いなかった」
ネットの中にしか居場所がなかった。
都会の片隅で一人で薄い毛布にくるまってた。わずかな金を得るために、精液で汚れた体で。
孤独なんて薄っぺらい言葉だと思っていたけど、この人も。
寂しかったんだ。
今の僕は、女の子……、ガーネットの姿に変身していて、日向森暁ですらない。
リリー様との未来も、約束ひとつない。
今の僕だって、ひとりぼっちだ。
地元で死にかけて、別の世界に放り出されて、魔女に事情も説明されず利用されるだけ利用されて、今ここにいる僕は何者だ。
その辺の中学生だったあの時と、何も変わらないじゃないか。
「ドレスのデザインを描いてって言われた。絵を描くのと、女王の暗殺では、わけが違う」
手伝えというなら手伝おう。殺しでもなんでも。リリーのそばにいられるのであれば。
「せめて話してください。何があったのか。これから僕は何をすべきかを考えたい」
「アキラ、私なんかに真剣に向き合ってくれるというでも言うの」
「あなたは僕を拾ってくれたじゃないですか。僕は、あなたのものです。でも、僕の心の主人は僕です」
僕は変わりたい。
自分がしたいことを、自分でできるように。
今から、自分の未来を選べるようになるんだ。
リリーと視線がぶつかる。
もう逃げない。流されるままに生きたくない。当てなく続く絶望なんて冗談じゃない。
「僕がどうするかは、僕が決める」




