第144話 今以外の選択を
疲れているはずなのに、頭が冴えて眠れない。
与えられた城の一室を抜け出し、テラスで夜空を見上げた。満天の星空とは言い難い。雲が月の半分を隠している。そういえば、あの月は、日本から見える月とはきっと違うんだろう。似て非なるもの。僕とガーネット、そしてクラウス。
出会ったあの夜、世界が変わってしまった。しかし、リリーにとってはクラウスがいる生活こそが元の暮らしで、アキラはただの、異世界から来た子供。
どうして私ではだめなの。
「眠れないの」
「……トレニア」
「うーん。まだ、元の姿に戻ってないね……」
女の姿には慣れたが、肌の柔らかさにはなれない。すぐ冷えるし疲れやすい。
「女の子の体は寒いです」
「そういうことはあるかもね。……この国の話をしようか。ここラウネルは寒冷なところでね。長い冬の間、野菜で作ったスープと、塩漬けの肉、固くなったパンで、生き延びる。森には熊が出るし、冬は雪だけ眺めて春を待つの」
「……私の、アキラの故郷は逆ね。雨が多くて、暖かい国だった。街には人が多かったわ」
「そうなんだ。ラウネルとは違うのね。……この森だけが、私達の世界」
テラスから闇に眠る森が見渡せる。国境までずっと森林だ。国を南北に入る川の流れが、弱々しい月の光に照らされて、光の道になっている。
「あの川は北へ向かって、海に注いでる。木材や農作物を船で運んで、輸出をしている。宝石とか鉱石とかね」
「ラウネルは鉱石が採れるのね」
「そうよ。リリーはお姫様になりたがっていた。子供の頃から。だから、宝石もドレスも王子様も自力で全て手に入れた。女の子は夢がないと生きられないの」
リリーの夢が叶ったら私の夢は叶わない。
「私はリリーの夢を邪魔している?」
「順番に夢を叶えた、最後まで行きたいのよリリーは。自分の夢を諦める理由がないの。アキラ、あなたはリリーの夢の到達点になれるのかしら」
川がたどり着く大海に、私はきっとなれていない。リリーは木を切って、筏を作って、海へたどり着く。私は一時、旅をしただけで、リリーはたどり着いた先が嵐の海でも、それでも満足なのだ。
「最初からリリーは王子を愛してた。城で幸せになってほしいのは本当よ。でもねえ、冷たい瞳の王子様だわ。復讐者の目をしている。……今のきみも」
「……」
「シャーロットは、あなたが協力していたのを最初から見ていた。アキラといるべきと思ってる。王妃様になることが本当にリリーの幸せなのかと、ね」
シャルルロアの襲撃を受けて、トレニアはずっと眠っていた。
「私はその場にいなかった。親友の夢を諦めろと言うことはできないわ。友達とはいえ、夢を奪うことはできない。夢や野心は、心の翼だから。でも、きみの幸せはなんだろうね」
自分の願いを叶えようと必死だったリリーを近くで見てきた。その姿を見ていた日々は楽しく、いつもどこか抜けている彼女を支えたいと願っていた。それが自分の希望であるかのように。
リリーとの旅と冒険は、元もと生まれた世界でのつまらない毎日よりもずっと、自分が役立っていると実感できた。
「彼女の近くで役に立つこと」
「でも、クラウスを取り戻した今、リリーは別に望んでいないわよ」
望まれていない。誰にも、アキラの気持ちに配慮などしてくれない。
可哀想な私と泣いてみても、なんにもならない。
「もし、逃げるなら助けるわ」
「逃げる……ですって」
「リリーと。城以外で生きることもできる。あなたにその勇気があるならね」
「勇気……」
「リリーに言ってみればいい。一緒に来てって。どう答えるかはわからないけど」
ここにいたか、とメキラとハイラが迎えに来た。
「いつまでも部屋に戻らないから心配していた。風邪をひいてしまうぞ」
「ありがとう」
「女性の体から戻れないのだろう。冷えてしまう。さあお部屋へ」
ハイラがショールを肩にかけてくれた。トレニアに礼をいい、部屋に戻る。夜中に何を話していたのかと聞かれ、リリーの結婚が辛いと正直に話した。
あくまで個人的な意見だがと、メキラは暖炉に薪をくべながら言った。
「アキラとして元の世界に帰るべきだ。お前の人生があるだろう」
「……私の。つまらない学生よ」
「向こうの世界で、神の石の力を使うことはできないと思う。本来のアキラとして生きるのがいいのではないか。無論、リリーを連れていけばいい」
「リリーが来てくれないわ」
「お前は彼女に協力しただろう。結婚を望む彼女が来てくれるかはわからんが、言わねば伝わらないぞ」
誰も助けてやれない戦いもある。
「自分の希望は自分で伝えなくては」
俺はメキラの意見とは逆だ、とハイラが口を挟んだ。
「無理して元の世界に帰ることはない、と俺は、思う。この世界にいれば、神々の石の力を持ち続けられる。それは得難い力だ。一度助けた相手と戦うのが良いとは言えないが、納得できないなら、戦わなくては」
「仏がそんなこと言っていいの」
「リリーがこのままクラウスと結婚して、君の心は救われるのか。リリーの結婚を止めたいなら、自分の口から伝えなくては。状況は定められているなんてことはない、変わり続けるものだ」
「……」
「今、以外の選択を」
「今以外……」
どっちらしろ時間はないぞ、とメキラとハイラは部屋へ戻っていった。
暖炉の火を見つめながら、何も決められない自分に腹が立つ。どうするばいい。ハープを奪って、元の姿に戻ってそれから。
彼女に気持ちを伝える。
それから。
それから。リリーの故郷である、この国を捨てるのか。王子はどうする。息の根を止める。それから。
リリーの気持ちはどうなる。時間は刻々と過ぎていく。
「……黒百合の女神……。話がしたい」
ロッドを握りしめて、女神に呼びかける。彼女はすぐに来てくれた。
眠れないのねと、彼女の白い手が髪を撫でてくれた。
「クラウスを殺したら、怒られるかしら」
「怒られるでしょうねえ。もうすぐリリーは王妃になる。最初から夢だった、王子様と結ばれる。どんな王子だろうとリリーが選んだ」
「私は好きじゃないわ」
「そう。リリーは私の力を使える器。この国にいるのが良いことなのよ。ふるさとなのだから」
「……そうね。でも、黒百合。私がどう思うかは、私の自由よね」
「もちろん。リリーがどう思うかも、リリーの自由よ」
黒百合の女神は、この結婚には賛成、と。
「お前をこの世界に呼んだ時、リリーの目的が達せられた時に、元の世界に帰すと約束した。私はまだ忘れてないわよ」
「……もう少し、考えてからでいい?」
「下手な考え休むに似たりと言うわ。でもまあ、いいでしょう」
おやすみ、と黒百合の女神は戻っていった。
彼女はこの世界の神のひとりでしかない。僕の運命の女神じゃない。
リリーと暮らしたい。しかし、リリーを逆賊にはできない。
彼女はクラウスと一緒になるのが幸せなんだろうが、そんなことどうだっていいと言えない僕は弱いのか。
そんなことない、弱かったらとっくに死んでいたはずだ。
夜明け前の闇から吹き付ける風は冷たく、歯の根が合わないほどの寒さが骨まで染みる。ロッドについたガーネットの赤は、クラウスを救出した時に流した僕の血の色と同じだ。
絶望の夕暮れ。陽の赤、血の色。
僕は魔女。 それなのに、僕の魔女、女の子ひとり奪えない。
無力だとは思わない。思うものか。
「ガレ、ここへ」
「主よ、ここに」
「私は、お前を扱うにふさわしい魔女だろうか」
「問われるならば何千回でも答えよう、その通りだ」
握りしめたロッドから、熱が伝わってくる。
「ランズエンドに放置されていた私を見つけ出した。お前はすでに普通の魔女ではない。私に言われずとも、知っているはずだ」
「……クラウスと戦う。勝てるかしら」
「それを決めるのは私ではない。欲しい物がある人間は強い。クラウスはその点でお前に勝っている。今は」
ハイラにも言われた。現実は、状況は変わり続ける。人の心さえも変わるものだ。
僕がやらなければならないのは、他人との競争を止めること。弱い自分にまず勝つことだ。一歩間違えば殺されるのは僕の方、しかし困難に立ち向かう勇気がなければ、そのへんの中学生だった時と、何も変わらない。
「お前の心に従おう。お前の主人はリリーではない、お前自身。戦うなら従う」
戦わなければ、きっと後悔する。
ロッドで新しいドレスを描いた。
「変わるよ今度こそ」
覚悟完了。最後の変身。




