エピローグ ユーレイさんの鱗
エピローグ ユーレイさんの鱗
母さんの腕には、傷がある。
困ったみたいに「ごめんね」ってわらって、どうしてついた傷か教えてくれた。
自傷の痕だって。
自分でつけたんだって。
そのときのあたしは、言われたことの意味がわからなかった。それでも、成長するにつれ、母さんの言いたかったことがなんとなく、わかってきた。ほら、メディアが発達してると、聞きたくないことでも耳に入るでしょ? それが声が大きいとか数が多いってだけで正しいとされていてもさ。――だから、分かってしまった。
母さんが半袖を着て出かけようとは絶対にしない、その理由も。
そんなあたしの母さんは、ピーターパンみたいなひと。
本で読んだ、うぬぼれ屋で、向う見ずで、いつも危ないほうを選ぶ、男の子らしいあのピーターパンみたいな性格だって意味じゃない。それならあたしは、わがままで本能のまま飛び回るティンカー・ベルの方が好き。――ああ、じゃなくって。あたしの母さんの話。ピーターパンみたいな母さんの話。
子供だったときのことを忘れてないってこと。
傷があるのを母さんはとても気にしているみたいだけれど、あたしは母さんが大好きだし、上の弟は大のお母さん子。末っ子は一目置いているって感じかな。中々いないもんね、子供だったときの気持ちを忘れてないひとってさ。
『学校なんて命を賭けてまで行く所じゃないの。』
小学生の頃、あたしのことが気に入らないって先生がいた。あたしも好きじゃなかったけれど。一人だけ立たされたり、みんな同じことしても一人だけ怒鳴り散らされたりしてた。それが母さんにばれたとき、あたしは情けなくて、泣いてしまって。馬鹿みたいに謝ってた。そしたら母さんは、あたしをぎゅっと抱きしめてくれた。そして、言ってくれたのだ。
『メグは何にも悪くない。おばかさん、謝ることなんかなーんにもない。ひとりにしちゃって、気付けなくてごめんね。――いいの、学校なんて行かなくっても生きていかれるんだから。メグが痛い思いしてまで、行かなくていーいの。』
――さあて、晩ごはんは何食べたい?
軽やかに言い切って、母さんはわらった。
父さんが学校に怒鳴り込みに行っていたのを、つい最近になって聞いた。
あんなに怒ってるところは久しぶりに見たわ、と母さんは夕飯を作りながらわらっていた。
知らぬ間に母さんが連絡を済ませていて、あたしは学校に行かなくなった。その間、母さんとお洗濯を干したり、本を読んだり、お菓子を作ったり、幼稚園から帰ってきた弟たちと遊んでお昼寝したりしていた。なんとなくもう一度学校に行き始めたきっかけは忘れてしまったけれど、確かにいまはちゃんと高校生として生きている。
そのとき聞いたのだ。母さんが、いじめられっこだったこと。
――傷つくことを忘れなければ、傷ついたときを忘れなければ。きっと、いつか誰かの痛みに寄り添える。傷は痛いままでも、ちゃんと痛かったって、酷い目にあったんだって、誰かとなら泣いたり、ちょっとわらえたりするかもしれない。
「ひとりになったって、言えないまま、癒えないままで貯まってくだけよ。」
それなら泣いて、怒って、暴れたっていいの。――そのほうが、ずっとよかったのかもしれないなあ。
泣きそうなのに、綺麗にわらってた。
「ああー!! ツキ! あんたまたあたしのプリン食べたでしょー!!」
「はあ? 太る太るって騒いでたから食べてあげたんじゃん。むしろ感謝しろ」
「何その言い方?! あたしが楽しみにしてたの知ってたくせに!」
「名前書いとけって言ったじゃん。」
「な、ん、で、高二にもなってプリンに名前書かなきゃなんないのよ!」
「小六にマジギレしてる高二も十分ありえないって気づけばー?」
「はああっ?!」
双子の弟、眼鏡をかけた睦生はこれでも双子の兄なのに、口は悪いし態度も悪いしでいつもあたしに突っかかってくる。
「お姉ちゃんもツキも落ち着きなよ。ツキ、からかいすぎ。」
いつもこうして間に入ってくれるのは双子の弟の基樹、眼鏡はかけていないのと性格以外は睦生とそっくりだ。末っ子になのだけれど、幼稚園から睦生の引き起こすトラブルを丸く収めてきた仲裁役としての手腕はすでにベテランの域だ。
まあ、家族の誰も止めないのは睦生があほらしいいじめだとかは絶対にしないからであって、どころか、そういう奴らに面と向かって「下らない」って、例の上から目線の非常に腹の立つ顔で言ってのけるからだった。しかし彼は、いじめられている子に対して優しくするわけでもない。
『いじめられてたからって、正しいわけじゃないだろ』
いつか、そんなことを言っていた。
『いじめられていたからこそ、いじめることもあれば、無関係に両方味わったりもする。理不尽にさ。まあ、最低九年、たいていは十二年、大半は十六年も学校なんてのに通うんだから、何にも遭ったことがないってほうが稀だろ。幼稚園も入れたら十九年。遭いはしなくても見聞きはするくらい日常茶飯事だ。簡単になくなるなら、戦争だってとっくに流行遅れだっての。はあ? 壮大なんかじゃないし。』
となりで聞いていた基樹も、概ね同意していた。
『まあ、いじめられたのは、確かに不運だったし、つらいことだと思う。でも、だからってそのひとが全て正しいってことにはならない。――しちゃいけないんだ、きっと。あんな目に遭ったんだから何をしてもいい、って思ってしまったら、相手と同じになってしまう。……でも、ツキはやり過ぎ。いくら先に手を出してきたのがあっちだからってさ』
意外にも、睦生は基樹のいうことならわりあいとすんなり聞くのだ。母さんなら二つ返事。お母さん子ってやつだ、そこはあたしと一緒。
「えー、何だよ。お前は面白みがないなー」
「ほーら、いいから持ってくるもん持ってくる」
ちぇ、と睦生が懲りずにべえと巡に舌を出してリビングを出ていく。おや? といまいち状況を飲み込めていないあたしに、基樹が小さな包みを差し出した。
「トキ? えーと、どしたの?」
「これ、ツキと、母さんと一緒に選んだんだ」
「ツキも一緒に? ありがとう……開けていい?」
「うん、出来たらあいつが戻ってこないうちに開けて」
絶対照れて悪態つくから。
片割れの性格を知り尽くし、日々苦労している弟の言葉にわらって、あたしは包みを開いた。
「わあ、可愛い……!」
それは、白い花の髪飾りだった。ふんわりと大きなまあるい花を、レースやリボンが小さなヘッドドレスふうに可愛らしく飾っている。
「それ、ツキが選んだんだよ」
「嘘。」
「んーん、ほんと。ほかにも三つくらい候補があったんだけど、あいつが絶対これがいい、これがお姉ちゃんに一番似合うからって譲らなかったんだよ」
でも、内緒だよ?
基樹が柔らかくわらったタイミングで、睦生が戻ってきた。
「ほら、これ。食いたかったんだろ?」
「うわああ、プリンにホットケーキだあ!」
「……だから太るんだよ」
「こーら、ツキ。女の子にそういうこと言わないの」
「母さん!」
はーい、と素直に返事をする睦生の後ろにはエプロンをつけた母さんの姿。
「食べたいって言ってたでしょ? 特製いちごソース付きでーす」
「あああもう母さん大好きっ!」
「はいはい、母さんもメグがだいすきよー」
母さんのホットケーキは美味しい。いちごソースは手作りで、メープルシロップとマーガリンを合わせれば仕合せの味だ。
テンションも高らかにハートを飛ばすあたしに微笑むと、もちろん睦生も基樹もだーいすきと、むっとした顔をしていた睦生の頭をなでる。顔をほころばせる睦生の横で、同じくなでられていた基樹が母さんを呼んだ。
「母さん、もうひとり忘れてる。」
「ん?」
「父さん」
「ああ、いま車に荷物積んでるのよね」
「いいのいいの、父さんなんか放っとけばいいんだよ」
「ツーキ。……メグは、昨日支度したものね?」
「ん、ふぁいふぉうふふぁよ?」
「……メグ、飲み込んでから話しなさい。急いでないから」
母さんのプリンは市販のより美味しい。カラメルソールが多めなのもあたし好みだ。仕合わせに浸りながらプリンといちごソースのホットケーキをほおばりながら頷くと苦笑いされた。
うわ、もうほとんど平らげてらと睦生が苦い顔をした。辛党の睦生には信じられない光景なのだろう。基樹は甘党なので同じものを先に朝ごはんに食べているはずだ。お姉ちゃんもツキが辛党なんだからプリン余分に食べやしないっていい加減気づけばいいのに、とさっき言われた。末っ子のくせに冷静な彼は――ああ、一番父さん似かもしれないな。
「ごちそーさまっ! 美味しかったあー」
「はいはい、お粗末さま。嬉しそうでなにより」
「まだ時間あるでしょ?」
「そうね、少し休んだら着替えてらっしゃい」
うん、と巡が頷くとリビングのドアが開いて父さんが入ってきた。
みんなでわらって、からかって、あたしは着替えに部屋に入った。
ハンガーに掛けておいたクラシカルな白のブラウスと、サスベンダー付きの膝丈の黒い半ズボンを身体に当てて姿見を見る。母さんと一緒にお気に入りのお店で買ったものだ。どうしてか父さんに服を見せたら固まっていたけれど。母さんと違って、いくらあたしがふわりと可愛いスカートなんかを着ないからってあの反応はどうかと思う。母さんはすごく似合うって褒めてくれて、珍しく睦生も「いいじゃん」って褒め言葉を口にした。あいつはあれでお洒落にうるさいのだ。父さんと基樹とあたしはジャージ愛好家なのだ。ジャージ万能。もちろん出かけるときには着ていかない……コンビニ、くらいで……。
普段は動きやすいスポーティな服ばかりだけど、ほんとは昔のフランス映画に出てくるようなクラシカルな服があたしは一番好きだ。フリルたっぷりの大きなリボンのブラウスは一目惚れで、本当は初デートに着ていこうと思っていたけれど、予定変更。
後ろ向きなのじゃなくて、難しいって手術がうまくいったらこのブラウスは宝物になるからね。
袖を通して、サスペンダーを整えて、あつらえたようにぴったりの髪飾りを留めようとしたけれど――上手くいかない。
仕方ない、母さんに留めてもらおう。――その前に、とあたしは引き出しを開けた。
大好きな親友と選んで、お守りだよってプレゼントしてくれた、とっておきの代物を。
「母さーん、髪飾りが留まらない。へるぷみー」
「あらあら、貸して……え?」
目をまん丸にした母さんに、あたしは思いっきりわらってみせた。
――母さんのせいで、何か言われたらごめんね。
少しかなしそうにわらった母さんは、きっとがんばってわらっていたんだと思う。
母さんが半袖を着て出かけようとは絶対にしないその理由は、母さんが何か言われるからじゃなく、あたしたちが何か言われるんじゃないかって思っているからだ。
「メグ、それ……」
「どう? キレイでしょー?」
流行りのメイクで、顔や身体に鱗をつけるものがある。
ファンデーションはもちろん、マスカラやグロスでさえ苦手で、お化粧なんてまったくしないあたしだったけれど、ピンときて、すぐさま飛びついて練習した。
「母さんにもやったげる。あたしが白だから、母さんはピンクね」
「え、え?」
戸惑う母さんの手を取って、桜の花びらみたいな鱗を乗せていく。
あたしの腕には、傷跡の残っている母さんのと同じ腕に、白い鱗が淡く、灯るみたいな不思議な光を放っている。
腕だけじゃなくて、左の頬から首筋を伝って肩と二の腕、右は肘の上から指先まで。脚は左の脛から爪先までと、右は膝の上から脛くらいまで。顔以外は朝のうちにばっちり着けておいたのだ。
きらきらより、さらさらと。鱗が母さんの腕で優しく光る。
やっぱり母さんには優しいピンク色が似合うなあって、少し自画自賛。
「ほら、お揃いだよ。キレイでしょ?」
上手に出来たのも嬉しくて、得意げにわらう。呆気にとられていた母さんは、わらおうとして失敗した。涙をにじませた泣き笑いで、あたしをぎゅっとしてくれた。ふわりとあたしを包む、大好きな母さんの匂い。
「ありがとう。……ありがとう、メグ」
「なーにが? お揃いがよかったんだもん」
母さんの背中に腕を回して抱きついた。久しぶりだなあ、こうやって抱きつくの。
怖くないわけじゃ、ない。――でも。
「ねえ母さん。あたし、大丈夫だよ。お揃いのお守りがあるんだから」
だから、待っていて。ケーキを焼いて、待っててよ。
母さんが髪飾りをつけて、ふわりとわらった。三段重ねでしょ、ご馳走も用意して待ってるから安心しなさい、と。
その笑顔がお守りだって、母さんは知ってるのかな。
「できた――うん、ようく似合ってる。メグは白が似合うわ。とっても可愛い」
「ありがとう。うけけっ、嬉しいな」
じゃあ、そろそろ行こうか。
一度だけ振り向いて、我が家に「行ってきます」と心で呟いて玄関を出る。車の外で待っていた父さんが、あたしの頭をぽんと撫でた。何も言わないから、あたしも何も言わない。
こつん、と拳を合わせてあたしは車に乗り込んだ。
fin.
2014.08.20.
ユーレイさんが自分はお気に入りです。
傷つくことも、痛みも、常日頃から思っていること、伝えたいことを詰め込んだ物語になりました。花火が両方の窓から見えるってのは実家のことです。毎年楽しく見ています。
もし何か届けられたなら、そんな幸いはありません。
読んで下さってありがとうございました!
水瀬透




