4 バースデーケーキのお名前は?
4 バースデーケーキのお名前は?
ケーキが食べたいのかため息をつくユーレイさんに、岬がいつかの仕返しだとばかりに言った。
「ため息ついたら仕合わせ逃げるんじゃねえの?」
「ため息くらいで吹けば飛ぶような仕合わせなら後から拾いに行くからいい。」
「……あっそ。」
よく回る口だなあと半分感心して半分呆れて口を閉じる。
しばらくしてから、ユーレイさんが小さく呟いた。
「もっと、動じないのがいい。ろうそくみたいに可愛くて、優しいのもいいけど。――もっとどっしりした、変わらないのがいい。」
「……はあ。」
うにゃうにゃと眠たいのかごろごろしていたユーレイさんが、ぱっと顔を上げると唐突に岬に聞いてきた。
「好きな子、いないの?」
先程までのどんよりした空気はどこへやら、とても楽しそうに岬に詰め寄る。
「は?」
「好きな子。想い人だよ」
「いないよ、前にも言ったろ」
「へえ? それは楽しみだねえ」
くるうりと岬の斜め上の定位置であぐらをかいてわらう。見下していないのはわかるけれど、何だか腹が立って岬は質問を返した。
「ユーレイさんはいるの……いたの?」
「うん。んふふー、いいものよ?」
「……ふうん」
あっさりと頷いて、嬉しそうにわらうユーレイさんにそっけない返事で応える。
そいつは今どうしているの、どうなったのなんて、聞けるはずもない。話題変えようかなと思っているとユーレイさんがのんびりとわらった。
「あはは、きみはまだたまごなんだね」
「は?」
うけけっと嬉しそうに、何かを思い出すように、優しい眼差しで言葉を紡いでいく。
「ひとを好きになると、ひとはひよこになるの。だから、きみはまだたまごのなかで夢のなか。ユーレイさんは卵から出たひよこなのよ。」
「なに、見下してんの?」
「んーん、楽しみだねって話。ちなみにひよこはニワトリにはならないんだってさ。ずっとひよこのまんま。ユーレイさんはひよこのひよっこだってよく言われたっけ。」
「誰に?」
「ユーレイさんの皮肉屋の父さん。いっつも皮肉ばっかり言ってからかってひとで遊ぶのよ」
くすくすとわらう。
何度も話題に上るユーレイさんの父親は、どうやら器の大きな人物らしい。ただどうやらひとを喰ったような性格らしい。岬は近くにいなくてよかったと思った。鱗のある娘を自分の子として育てるところも、ユーレイさんから聞く考え方やものの捉え方も、尊敬はするが。母親だってすごいなあと思う。料理の腕も相当なものらしいし、こちらは近くにいてもいいのになと思った。ユーレイさんも相当恵まれているなと、岬は話を聞くたび思っていた。
「ひよこはふわふわしてて、弱い。ヒナ鳥は誰かがいないと生きていけない。でも、外に行きたがって、親鳥に連れ戻されて、また外に飛び出して。その繰り返し。ニワトリになれないのは、いくら大人になったって完璧にはならないからなんだってさ。――それならニワトリだって完璧じゃないのにね」
「皮肉よりか、理屈っぽいな」
「ああ、確かにそうかも。さて、話を戻せば、たまごに守られてるうちは傷ついても眠れば治る。でも、殻を破ってしまえば二度とたまごの中には戻れない。だから、傷つくこともある。眠ったって何したって癒えない傷を負うこともある。自分がこんなにちっぽけで子供だったのかって思い知って、力も何もかも足りなくて悔しくなることもある。そりゃあもう、嫌ってほどにね。――でも、朝起きるのが楽しみになるの。何でもないことがすっごく大切になったり、こんなに嬉しくなれるんだって、知らなかった自分に出会える。嫌な自分も知ることになるけど、案外悪くない自分を知ることだってできる。自分より大切な誰かがこころにいるってのは、素敵なことよ」
「あ、そ。」
「きっときみは、素敵な恋をするよ」
予言めいたことをいたずらに口にして、ユーレイさんはうけけっとわらった。
そして受け売りだと言葉を並べた。
「失恋は男のコを強くする。いつか、守れるように。その恋に出会えたから出会える、自分の人生かけて守りたいって思えるひとを、一生かけて守れるように、ね。」
「じゃあ、女は? 綺麗になるって言うけど」
「女のコは恋をするとキレイになるよ? それはほんとの話。なら、失恋したらぶさいくになるかっていえば――ちっち、甘いなあ。女のコはしたたかなの。失恋は女を磨くのよ。恋は女のコをキレイに、勇敢にするの。男のコはいつだって鈍感で、女のコが言わなきゃわかんないばっかりでしょ?」
「はあ。」
「好きだって伝えることは、結果はどうあれ素敵なことだよ。だって、好きは言うだけ増えるの。減るもんなんかじゃあないのよ」
「振られても?」
「そ。好きじゃないひとに告白されてもね。」
ふうん、と相槌を打った岬に、ユーレイさんがうけけっとわらった。
その顔は告白されたことはあるみたいだね、と。図星だった。
「愛されたければ愛しなさい――それでも寂しくなったら、わらっとけばいいよ。思いっきり泣きたいだけ泣いてもいい。だって、まだきみは愛し方なんて満足に知らないでしょう? 材料はあっても、料理の仕方を知らない。愛される時間だって必要よ。子供のうちは、愛され方を心と身体でめーいっぱいに知る時間なの。でないとわかんないでしょ?」
材料持ってるかわかんない? だったら、確かめる方法なら、ないこともない。
ユーレイさんがうけけっとわらった。
「寂しくなったこと、ある?」
優しい眼差しで、問いかけた。
「さびしくなれること。それは、ちゃんともらってたってしるしだもの。何よりの証拠よ。愛情をもらうって、決して家族からとは限らないの。大きくなってから出会った誰かからでも、ちゃんと心に届く気持ちを、愛情をもらって――きみがちゃあんと受け取れていたのなら。なくなったときに、空っぽの場所ができる。それは寂しさの生まれる場所だけれど、悪いものじゃない。愛すべき、空洞なの。」
そう、目を細くして岬を見た。
目がこんなに語るのを、岬はユーレイさんに教わった。
「寂しくなれるんなら、あったかいのがあったってこと。ほんとにひとりだったら、寂しくなんかならないよ。寂しくもなれないの。悲しいも、寂しいも、寒いも、涙も、ぜーんぶ! あったかい仕合わせから生まれたんだって、ひとりじゃなかったしるしなんだって思えば、――ほら、悪くない。悪いときだって、悪いだけじゃない」
落ち込んでどん底まで行けば足が着いて落ち着くものよ。
ユーレイさんがふうわりと漂う。受け売り? そう、どっちからだと思う? ……母親? ぶー、父さんでした。
なんか意外、と呟いた岬に「ユーレイさんもそう思う」とわらった。そして、じっと岬を見た。優しい眼差しに、岬は少し戸惑った。
「さっくんは、どんなひとを好きになるんだろうね?」
「さあ。……面倒じゃないやつ?」
「ううわ、出た。省エネ少年」
「それはヤメテクダサイ。」
「心配なのよ、大丈夫かなあって。なんか、さっくん手のかかる弟みたいだもの」
「……は?」
まあでも、大丈夫かな。岬の怪訝な視線も何のその。ユーレイさんは頷いてわらった。
「きっと、さびしくなれる。寂しくなれたら、寂しくないよ」
「はあ」
その呪文のような暗号のような言葉の意味を、岬はさして気にもとめなかった。
★
ピロリン、とメールの受信音のような電子音で岬がうっすらと目を開けた。
静まり返った暗闇に、真夜中であることがなんとなくわかった。
「……?」
目を開けているものの、ほとんど眠ったままの頭で、携帯どこだっけ、と少し身体を横にすると、ふありと浮かんだ天井の近くで白い光がぼうっとユーレイさんの半透明の姿を透かしていた。
「――、――」
ユーレイさんが何か言っているようで、聞き取ろうと耳をすませた岬はそのまま眠りの世界に戻っていった。もともとほとんど起きてはいなかったのだから仕方のないことだろう。
ぶつぶつと何やら呟いていたユーレイさんが動きを止めた。
ほんの少し前に岬が目を覚ましていたことには気が付いていないようだ。
「……み、さき――岬?」
はっとしたユーレイさんが岬を振り向いて、唇を噛み締めた。
目を閉じて頷くと、岬を優しく目を細めて見つめていた。眠ってしまった岬は知らないけれど。
★
ユーレイさんが唐突に成仏宣言をしたのは、夏休みもあと二日の八月三十日の朝だった。
「そろそろ、成仏しよっかなって。明日とか。だから、ばいばいしましよっか」
「は?」
「いや、そろそろ気もすんだからさ」
「誕生日ケーキ食べないと成仏できないんじゃなかったのかよ」
「焼いてくれたじゃん、ユーレイさんが来た日に」
「あれは失敗したからって、お前が言ったんだろ」
「まあまあ。夏休みも終わるしさ」
誤魔化されているような、何かを隠しているような物言いが気にかかったけれど、岬にはそれ以上どうすることもできなくて口をつぐんだ。
「自覚っていうのか、ああもう消えるなとか、わかるの?」
「んー、たぶん。気づいたらいないってことはないと思う」
ちゃんとお礼くらいは言ってくよ? とおどけたようなユーレイさんの笑顔がこのときばかりは腹立たしくて、岬はごろんと背を向けた。
「どしたの?」
「なんか、頭痛い。寝るからそこら辺見てこれば?」
話すのもきついから、どっか行け。
目を合わせることもなくそんな言葉を投げて寄越す岬に、ユーレイさんは何も言わずに「そっか、ゆっくり寝てなよ」といつもみたくお説教もしないで出ていく。それも気に入らなかった。
岬が頭なんか痛くないのも分かっていて頷いたことも、がきそのものみたいに、拗ねている自分も持て余していて、腹立たしくて、自分が情けなくてどうしようもなかった。
「ちょっとその辺ひとりで散歩してくるね」
ユーレイさんはそう言って、ふいっと姿を消した。
そのまま、岬が眠る頃になっても戻ってこなかった。
仕方なく眠ることにした岬だが「おやすみ」なしで眠るのが、なんだか物足りない気がした。
思えば夏休み初日から岬の部屋に居候しているユーレイさんだったが、戻ってこないのは初めてだった。
真夜中過ぎに戻ってきたユーレイさんに気付いて、寝たふりしている岬のそばを、そっと通り抜けて部屋に入ってくると、いつもの部屋の隅っこで丸くなった。
おやすみを言わないで寝たのはいつぶりだろうと考えて、ユーレイさんが来るまでは、家族ともろくに「おやすみ」どころか「おはよう」も言わなかったことに気がついた。
おはよう、おやすみ。
おかえり、ただいま。
いってきます、いってらっしゃい。
いただきます、ごちそうさま。
何気ない挨拶をすら、「節約」していたのかと岬はなんだかわらってしまった。
いまの岬なら、わらってしまえたから。
「おい起きろ」
「ふえあ?」
「朝。はいオハヨーゴザイマス」
「おはよーございます……?」
「ほら、さっさと起きて降りて来い」
「へ?」
「いーから」
翌朝、八月三十一日にユーレイさんをたたき起こした岬は、ジャージを羽織って寝ぼけ眼のユーレイさんに呆れた顔で腕を組んだ。もう、朝晩は少し肌寒いのだ。
「……台所にいるから」
そう言って、ふいと部屋を出ていく。
まだ朝も早い六時過ぎ。足音を立てないように急いで皿の上の仕上げにかかる。
夏の朝日が差し込む台所に、ふわりとユーレイさんが現れて目を輝かせた。
「わあっ! ケーキだ!」
「パンケーキだけどな。バケツプリンでもないし」
スポンジケーキは無理だと判断した岬は、ホットケーキが作れるならとパンケーキを作って積み上げて、生クリームを山盛りに絞って飾った。生クリームを買いに行ったスーパーで売っていたネームプレートとチョコペン、ろうそくのセットを買ってきて、四苦八苦しながら名前を書いた。
おたんじょうびおめでとう、と印字で書かれたチョコレートのプレートには「ユーレイさん」と少しいびつな文字で、それでもちゃんと読める字で書かれている。
ユーレイさんがテレビ番組の特集で、生クリームたっぷりの積み上げられたパンケーキをうっとりと見つめていたのを岬は覚えていたのだ。ハワイアンパンケーキは誕生日ケーキじゃないと言っていたけれどそこは我慢してもらおうと、内心どきどきしながらユーレイさんの反応を見る。
目をきらきらと輝かせていた。
「誕生日ケーキになるかはわかんないけど、そのままで気が済んだなんてこっちの立場がないだろ」
「なるよ、じゅーぶんだよ……りがと、ありがと」
まともに目を合わせられなくてケーキを見ていた岬は、涙混じりの声に驚いて顔を上げて吹き出した。
「ありがとうはこっちの台詞。なんだよその顔」
「だって、嬉しくってさ」
うけけっとわらうユーレイさんは、涙をぼろぼろ流しながら、それでもわらっていた。
ほんとうに嬉しそうに、仕合わせそうに、鼻をズズっとすすって、わらう。
「どういたしまして――うん。そろそろみたい」
そうユーレイさんが言うと同時に、透ける身体が揺らぎ始めた。
「胸を張れ、少年」
出会った時から変わらない、お姉さんぶった物言いはこんな時まで変わらない。
ユーレイさんは拳をトンと岬の胸に当ててみせた。
顔を上げて、いたずらっぽくわらう。
「きみの未来は、けっこう目まぐるしく仕合わせなんだよ?」
うけけっとわらう、ノイズ混じりの声と、揺らぐ姿。
それでも、岬は目を逸らさずにユーレイさんを見つめていた。
「きみが生まれたことに意味はない。ゆるぎない価値があるだけ。」
存在の理由も意味もさがすもの。
持っては生まれないの。――でも、価値だけは揺るぎなくあるの。
「価値を自分で見いだせたとき、きみにしか見つけられない理由と意味が、見つかるよ。」
一瞬大きくユーレイさんの姿が揺らいで、ノイズがひどくなった。
おや、という顔をしたユーレイさんは、持ち直すと頷いて、岬を真っ直ぐに見た。見て、うけけっとわらった。
「ねえ、きみは格好いいんだから、もっと格好つけていいんだよ?」
こんなときでも変わらないんだな、と思わず少しわらってしまった。岬のことばかり気にかける。自分だってどうなるのか怖いくせに、いつだって、ユーレイさんは誰かのことばかりだ。
「きっと、また会える。だから、ちゃんと、――、見つけてね」
聞き取りづらいノイズが、ユーレイさんの言葉を途切れさせる。
岬は必死で耳を傾けた。掴めないとわかっていて、手を伸ばした。
「――、待ってるから」
もう、ほとんど姿は見えない。
「ありがとう、さっくん」
一瞬だけ、あのやたらとクラシカルな服のユーレイさんの姿がくっきりと岬の目に映る。
「……ありがとう。俺も、楽しかった。美味しかったよ」
「そ。よかった。心も身体も、お腹空いたまんまにしたらだめだよ?」
うけけっとわらって、頬を流れる一粒の涙は知らないふりで、ユーレイさんは最後まで、あのいたずらっぽい、きらきらとした目を岬に向けて、わらった。
「またね、――」
唇の動きだけで何か呟いて、ユーレイさんは光に包まれて消えていった。
何の跡形も残さずに、まるで初めからいなかったみたいに、夏の朝日に消えた。
――面倒なことになったなあ。
岬は苦笑いしてため息をついた。
ほんとうに、これはもう、まったく心底面倒なことになった。
でも、わらえた。
「こんなの、元の生活に戻れるわけないだろ」
喧嘩して、仲直りして、ユーレイさんに料理の手ほどきを受けて過ごしたこの夏休みを思い出すと、岬はわらってしまうのだ。なんだか、かげろうみたいで。
それでも、思い出すだけでわらってしまう記憶があるのは悪くないと思った。
失敗したり、躓いたり、わらわれたり、そんなろくでもない日々が、これからも岬に待っているだろう。でも、乗り切ってやろうと思えるのは、あの半透明のユーレイさんがくれた言葉とレシピが岬の中にあるからだ。
心に届いた、半透明なくせにお姉さんぶっていたユーレイさんとの時間があるから。
半透明なくせに、綺麗事なのに、傷だらけのユーレイさんの言葉は、がらんどうだった岬にしっかり根付いてしまった。種は芽吹いて、どんどん育っていくのだろう。きっと傷ついたりもする。わらえるくらいの悲しいときも、やってくるのだろう。
それでも、ろくでもないときもずっとは続かない。らしい。
どん底なら足がついていいわなんて、言っていたっけ。それなら悪くないものを見つけて、飴玉みたいな綺麗事をポケットに忍ばせて、どうにかこうにかやり過ごして――いつか、誰かを好きになろう。
――好きなひと? んふふー、いるよ。
そうわらっていたユーレイさんに、俺も好きな人ができたんだって、大切な子が出来たんだって、教えてやろう。
不思議なことに、岬は最後までユーレイさんには恋愛感情を持つことはなかった。
どうだ、なんて自慢したらまた茶化されてしまうそうだけれど、それでもいいと思った。馬鹿々々しいくらい誰かを好きになれたら、それは仕合せなことだと思う。岬はそう思えるように、なった。
まずは、なにはともあれ顔を洗って腹ごしらえから始めよう。
またねと言ったユーレイさんに、また会える日へとたどり着くために。
★
「なあ、中村って美人の姉ちゃんいる?」
「は?」
夏休み明けに話しかけてきた、前の席の少年は岬の反応に怯むでもなく「休みの間に見かけて」と説明を始める。
「なんか、古めかしいっていうか、変わった服だったけど、お前になんか似てたし」
「は?」
「え、そうじゃねえの?」
「俺一人っ子。……それよりお前、霊感あるとか?」
「え? ……え?」
それをきっかけによく話すようになった前の席の少年、宮田に誘われるままに、岬は文化祭の実行委員を務め、体育祭でも選手としてあれこれと忙しい秋を過ごした。
冷静な岬と陽気な宮田は、馬が合ってよくつるむようになり、その後も長い付き合いになった。
高校に上がる頃から岬は眼鏡をかけだした。もともと視力がいいほうではなかったのだ。
家から自転車で通える高校は、学力でいえば中の上といったところで、アルバイトも禁止されていない比較的自由な校風だった。岬は部活動には入らずに、ファミレスの裏方でバイトを始めた。
高二に上がって間もなくのこと。
近くの席から聞こえてきた会話に、岬は耳を疑った。
「あ、これ? きなこクッキー。きな粉入れるとサクサクになるんだよ」
知らなかったーと周りが手を伸ばす。
――クッキーはきな粉入れるとサクサクになっておいっしいの!
ばっと振り向いた岬に肩をビクッとさせたクラスメイトの真ん中、席に座ったままの少女は、おずおずと不器用にわらってみせた。
「え、えと……よかったら、食べる?」
色素の薄い、長い髪。白い肌に、気弱な微笑み。
藤崎茉莉はユーレイさんとは反対のようなのに、――どこか、面影があった。
「あ……ありがと」
「いいえ、どうぞー」
「……うま。」
そして、クッキーをかじった瞬間、思わず呟いてしまうくらいには料理が美味かった。
それから、岬は茉莉のことをそれとなく気にかけていて、いつも一緒にいる数名のなかに常に一緒にいた。
岬ははじめこそ、茉莉の中にユーレイさんの面影を探していたが、いつしかそれは薄れて、茉莉の不器用な、控えめなわらい方や、気の弱いくせに頑固なところだとか、長くてふわふわの髪、たくさんの優しさに惹かれていった。
茉莉が過去に傷を持っていることを、岬は告白した高二の夏休みに知った。
それでも茉莉への気持ちは変わらずに、気づけば八年経っていて、茉莉の苗字は中村になった。
中村家は今日も、夏の日差しにも塗りつぶすような蝉の声にも負けない騒がしさに包まれている。
さらに年月が流れて、茉莉と岬は母親と父親になった。
岬譲りの真っ直ぐな黒髪の長女、巡と、茉莉譲りの色素の薄い癖っ毛の双子の兄、睦生と弟の基樹。睦生は岬に似てしまったのか小学生の半ばから眼鏡をかけている。
忙しいというのに言い争う巡と睦生はいつものこと。ため息をついて仲裁に入るのもいつも基樹だ。
いつも通り茉莉に任せて岬は車に荷物を積み込んだ。茉莉はいつもふわふわとしているが、怒ると岬でもどうにもならないので、岬が出張るよりも任せたほうがいいのだ。
夏休みの旅行、などではない。それならよかったのに、と去年の旅行を思い返して、不安を振り払うように滲む汗を拭った。
「荷物積ん……え、何?」
家に戻った岬を茉莉と子供たちが一斉に見て、巡が初めにわらった。
「惜しい! も少し早かったら父さんも言ってもらえたのにー」
「いーのいーの、父さんはなしでいいよ」
「こら、ツキ。そんな言い方しないの」
「まあ、父さんあんまり間がいいって方じゃないもんね」
「え、ごめん何の話?」
まったく話を飲み込めていない岬に、睦生をたしなめた茉莉も堪えきれずに吹き出した。
「さ、そろそろ着替えてきなさい。ツキとトキも付いてくるなら支度しないと。」
はーい、と子供らがめいめいリビングを出て行くと岬がじーっと恨めしそうにため息をつく。
「……茉莉さんまでわらう?」
「ごめんね、岬くんもだいすきよ?」
「え、ほんとに何の話?!」
驚く岬にケラケラとわらい声が三つ重なる。
「照れてるー!」
「だーから父さんはいいって言ったじゃん」
「ラブラブだなあ……」
あらあらと茉莉はわらって、岬が「さっさと支度してこい」と追い出すと巡がわらった。
双子は茉莉に似た色素の薄い癖っ毛、巡は岬に似て真っ黒い髪。
「あたしたちもすきだよ? 父さんと母さんふたりとも。トキとツキもだいすきー!」
げ、ぐえ、と苦しそうな声がしたので、睦生と基樹は巡に抱きしめられているのだろう。「髪飾りありがとうー! 絶対つけてくからっ!」「分かったから離せえええ」と楽しげな声が廊下から聞こえてくる。
巡は夏休みの始まる今日、手術を受ける。
風邪も滅多に引かないような子供だったのだが、風邪かと思って病院に行ったらあれよあれよと手術の日程が組まれて説明を受けて、難しい手術だと言われた。
最新技術の麻酔で、巡はこれから長期の眠りにつく。
最低でも一ヶ月。長くて最長三ヶ月。巡は夢と現の間で過ごすのだ。
――巡さんの場合、こちらを利用することができます。
最新技術の麻酔、「Magical Land ~マジカルランド~」。
噛み砕けば、麻酔がチケットの手術患者でないと行けない仮想空間だ。
脳波を読み取り、仮想空間への数値に合わせることで「マジカルランド」で手術から目覚めるまでの時間を過ごすことができる。服装は麻酔前にスキャンしておけば好きなものが着られるし、向こうで選ぶのも自由。
遊びたければ遊園地、ゆっくりしたければ街の宿屋でごろごろしていたっていい。公園も、図書館もカラオケも、探検フィールドなんてものもあり、ジャングルが再現されているそうだ。マジカルランドで仲良くなった患者同士が、目を覚ましてから友人になることもあるという。
手術に至る記憶は脳波を合わせる際に抜けるようになっている。
ちいさな子供が存分に遊べるようにとの配慮らしい。
記憶は意識が戻るときにアイコンが出現して思い出すようになっているそうだ。このアイコンで仲良くなった相手のことを覚えておくこともできる。
アイコンに従って、マジカルランドの出口の扉を開くと意識が戻る。出口はその都度現れ、本人でないと通ることができないので、間違いが起こることはない。
術後の経過もマジカルランドに滞在している間にわかるので、意識が戻ればよほどのことがない限り翌日には退院できる。そういう仕組みらしい。
意識が戻らない場合は、仮想空間に意識だけがとどまることもあるそうだ。
死後の世界を選べる、といったら不謹慎だろうか。それでも、子供だって分かっている。小さくたって、大人が思うより子供は色々なことを考えている。
ちなみに標準がずれた場合、現実世界に仮想空間の姿が写ることはまずないらしい。よほど五感が鋭ければ姿を捉えることは稀にあるらしいが。
マジカルランドとはよく言ったものだと岬は思う。――不思議な、場所。
スキャンを終えて、手術着の巡がベッドに寝かされてやってきた。
行ってくるね、という巡に睦生と基樹が「行ってらっしゃい」と拳を合わせる。
岬に目を移すと、にっとわらった。
「ねえ父さん、忘れてないよね?」
「あ? あー……誕生日ケーキな」
「そう! 三段重ねのおっきいやつね!」
「……お前二つ喰う気か。」
「え?」
「何にも。母さんには聞いたのか?」
「いいよって言ったもん。ね、母さん?」
「味のリクエストからご馳走の献立までいただきました」
ちゃんと作るから、気をつけて行ってらっしゃい。頷いた巡の額を茉莉が優しく撫でるので、巡が気持ちよさそうに目を閉じる。
「じゃあ、そろそろ行ってくるね」
約束、とこつんと拳を合わせて巡がわらう。
あの、鈴を転がすような独特なわらい声に、岬はゆるくわらって手を振った。
扉が閉まって、巡の姿が見えなくなってからも、四人はしばらく立ち尽くしていた。
巡が手術室に入るのを見送って、四人で晩ご飯を食べた夜。
寝室に入ってきた茉莉が「まだ寝ないの?」と窓の外を眺めている岬にそっと微笑んだ。
明るい月夜だった。いつかの夏のような、雲のない夜。
「あの子なら大丈夫よ。」
「……茉莉、ちょっと話があるんだ」
「なあに? 改まって。」
「メグの手術なんだけど、」
茉莉が首を傾げて続きを目で促した。
「絶対、うまくいく。で、夏休み最後の八月三十一日に帰ってくるって言ったら、信じるか?」
「え?」
それって、あの子の誕生日の前日じゃない。
茉莉はベッドの岬の隣へ腰掛けて「どうして分かるの?」と聞いた。もっともな問いかけだと岬は思った。誕生日に間に合うように目を覚ますなんて、ご都合主義の作り話みたいにタイミングだってどんぴしゃだ。
「信じてもらえなくても、どころか不謹慎だと思われても仕方ないのは分かる、でも」
「そんなこと言ってないでしょ。岬くんは根拠もなしにそんなこと言わない。伊達に奥さんやってないんだから、それくらい分かるよ。だから、話して」
――夜は長いんだから。とくに、夏の夜は。
そっと肩に頭を預けてきた茉莉の手を取って、どこから話そうかと空を見上げる。
何せ岬にとって、自分から話したいような格好いい思い出ではない。――でも、大切で、夢のようなひと夏の記憶だったから。誰かに話すのは初めてで、言葉が上手く見つからないのだ。
岬はゆっくりと口を開く。
「……夢なんじゃないかって思ってた。もう二十年以上前のことだから。でも、」
自分によく似た黒い髪の赤ん坊が生まれたとき。
その子が初めてわらったとき、鈴を転がすようなあの独特な声で「うけけっ」とわらったとき――あの日の言葉に、岬はようやくたどり着いたのだ。
ノイズ混じりの言葉の、約束に。
「きっと、また会える。だから、ちゃんと、――、見つけてね」
きっと、また会える。だから、ちゃんと、ママを見つけてね。
「――、待ってるから」
未来で待ってるから。
「またね、――」
またね、パパ?




