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ユーレイさんの鱗  作者: 水瀬透
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3 シュガーレス・フレンチトースト

3 シュガーレス・フレンチトースト


 フレンチトーストは気長に焦らず、じっくりと。

「お子ちゃまにできるかしらー?」

 なんて、ふふんとわらいながら、ユーレイさんはふうわりと岬の斜め上、定位置で人差し指を立てた。

「どっちが子供なんだか」

「張り合うほうが子供でしょ」

「じゃあユーレイさんだ」

「なんですと?!」

 こほん、とユーレイさんが仕切り直す。こっそりわらった岬が材料として指定されたたまごと牛乳を冷蔵庫から取り出した、八月十二日の朝。

「あれ、砂糖は?」

「ユーレイさんとこのフレンチトーストはお砂糖入れないんだ。もちろんお砂糖入れるとこもあるし、練乳入れるとことか、砂糖まぶしてカラメルふうにカリッとさせるのもあるよ。でも、カリッと焼こうとするとね、お砂糖入ってると焦げやすいんだ。だから、ユーレイさんとこはお砂糖抜き。シロップかけるから、美味しくあまーくなるんだよー。だから使うのは卵と牛乳、あとはマーガリン。バターでもいいけれど。一晩浸しておいてもいいけれど『あ、今朝はフレンチトースト食べたい!』ってなったりするからねえ。今朝はチーズ食べたい! たまご! とかさ。……あれ、ならない?」

「ならない。」

 まじまじと岬を見つめたユーレイさんはため息をついた。

「……まったく。きみは本当に食わず嫌いというか。ま、そのうちお腹がすくでしょう」

 食べさせられるんならユーレイさんの母さんの料理を食べさせてやりたい。

 そう頬を膨らませるユーレイさんに岬が「へえ」と聞く。

「何かと美味いって言うよな、そんなに料理上手な母親なの?」

「そうだよー! クッキーはきなこクッキーがいっちばんおいしいのっ。きなこ入れるとサクサクになるんだよって言ってたなあ。ご飯も美味しいんだよ。麻婆茄子とか大好きだった……唐揚げ、オムライス、ホットサンドに、プリン! おむすびも美味しいんだよねえ……」

「聞くたび増えるなあ……でもさ、おにぎりなんか誰がやっても同じだろ?」

「ちーがうよ! 誰かが作ったおむすびはひと味もふた味も違っておいしいの。ユーレイさんの母さんのは格別。……あ、父さんのも美味しいよ。ちょっとでっかいけど」

「へえ、きなこクッキーって食べたことないな」

「あー、食べさせたい! 黒ゴマ入ったりもしててね、ほんっとに美味しいんだよ」

「……でもユーレイさんて、何でも美味しいって言うよな」

「なんと?!」

 ユーレイさんは呆れたような目の岬に、ふっとわらうと「これだからお子ちゃまは」と肩をすくめた。

「好き嫌いなくなんでも美味しく食べられて、しかも好きな人たちとご飯を食べられるってのがどれだけ幸福なことだと思っているのよ?」

「好き嫌いなら俺もないけど」

「きみは好きなものもないでしょ」

「……」

 とにかく、とユーレイさんがぱちんと手を合わせて仕切り直す。

「ユーレイさんちのフレンチトーストはお手軽なのよ。お手軽な仕合わせ、プライスレス。混ぜて浸して裏っ返して、しばらくおいたらマーガリン溶かしたフライパンに乗っけて、菜箸で穴あけて、残った卵液を流し込む。あとは焼き色がつくまでじーっくり焼く。焦がさないようにね」

「へーい」

 牛乳どれくらい? と淡々と聞いてくる岬に「適当」とユーレイさんはこともなげに言う。

「え、お菓子は目分量じゃだめなんだろ?」

「これは別。よっぽどとんでもないことが起こらなければね」

「あ、そ。」

「ストップっていうから、牛乳少しずつ注いでねー」

 だいたいたまごと同じくらいか、やや多めかな。

 ユーレイさんに言われるがまま、岬はたまごを割り入れたバットに牛乳を注いでいく。

「まだ?」

「お、分かってきたねえ。それくらいだよ」

「ん」

「そしたら混ぜて、食パン浸してくださーい」

 食パンを浸している間に、フライパンを用意する。

「どれくらい置いとくの?」

「んー、適当」

「また?」

「五分も浸せばいいかなあ」

 のんびりしたやり取りに呆れつつ、食パンをひっくり返す。

「おお」

 食パン一面に、黄色いたまご色が染み込んでいた。

「もう片面はそんなに浸けなくていいよ、マーガリン出しちゃって」

「あ、そ。」

 コンロに火を点け、出しておいたフライパンにマーガリンをひとかけら。

 じゅう、と美味しそうな音と香りに岬の頬が無意識に綻んだ。

「いま表になってるほうを下にして、食パン入れてくださーい」

「うわ、裏側ぜんぜん染みてねえ!」

「いいのいいの。そしたら弱火にして、たまご液を流し込みましょう」

「穴あけるんだっけ?」

 そうそう、とユーレイさんに教わって、岬はまだら模様の食パンに菜箸で穴を開けていく。

「見た目悪っ」

「はいはい。染みてないとことか、耳のそばのふちっこに開けるといいよ」

「へーい」

「じゃあ、残りのたまご液を流し込んでくださーい」

「あーい」

「……こぼさないでよ?」

 そんなこんなで、じっくりと焼いていく。

「いつひっくり返すの?」

「んー、ちょっと端っこつまんでみ? 焦げ目ついてたらいいよ」

「……微妙」

「じゃあとりあえずひっくり返してみたらいいよ」

「そんな軽いの?!」

 まあまあ、と促されるままに菜箸で試みようとするも「初心者は大人しくフライ返し使いなさい」と言われて、意地を張っても仕方ないかとフライ返しを取り出した。

「焼けて、る?」

「んー、もうちょいってとこ?」

 裏側を焼いて、ひっくり返して、じっくりじっくり焼く。

「耳がカリっとしてきたら出来上がりだよ」

「ん」

 それならもうちょいかな、と岬が皿を取りに食器棚へと振り向くと、驚いている旭と鉢合わせた。

「びっくりした、岬か。何か作ってんの?」

「え、朝飯……?」

「おれの分もある?」

「あー、たぶん?」

 すぐ作れるし。と岬が言うと旭がにぱっとわらった。

「お前すげーな。料理得意だったっけ?」

「そうじゃないけど、」

 そんなやり取りをしていると、ふああ、と欠伸をしながら現れた母親が目をぱちくりさせた。鼻をひくひくとさせて、あらいい香りと顔をほころばせた。

「あら、今朝は早いのね」

「おはよう、母さん。これ、岬が作ったんだってさ」

「あらあら、フレンチトーストじゃない。嬉しいわあ」

 え、え? と岬が戸惑ううちに父親も起きてきて、岬は結局四人前の朝食をこしらえた。

 ユーレイさんは始めのうちこそくすくすわらいながらそばにいて、慌てる岬にあれこれ指示を出していたが、いつの間にか姿を消していた。

「あらあら、美味しいわあ」

「うまー。もひとつ食いたい」

「それは無理」

「そりゃあいきなりは無理だろう」

「旭も少しは作ったら?」

「ヤだよ。オレは喰い専門。美味しく綺麗にたくさん喰う!」

「またそんなこと言って」

 平日は揃って。休日は寝坊してもいいけど、するなら各自で食べなさい。――そんな中村家の朝ごはんは、ほとんど毎日家族揃って食べている。

 岬以外。

 その岬も含めて、あまり長々と眠ることをしない一家ではあるのだが、岬はどうにも顔を合わせづらくて、夏休みや休日は家族が出払った頃を見計らって部屋から出てきていた。だから、この夏休みが始まってから、一家揃って朝食をとるのは初めてだった。

 なんやかんやと食べて、食べ終えて。

「ごちそうさま、ありがとうね」

「ごちそーさん」

「ごちそうさま。」

 母親に、兄に、父親に言われて、岬はおどおどと返事をした。

「洗い物は母さんがするからいいわよ」

「あ……うん」

 岬は迷って「ありがとう」と早口言うと、階段を上って部屋へ戻った。


「なーんだ。きみんち、仲良しじゃん」

「うわっ」

 ふよ、と階段の途中でユーレイさんがにぱっと現れた。

「……は?」

「どうして、あんまり口利かないの?」

「別に」

「ふうん? ……似た者同士ってことか」

「あ? 似てないよ、見てただろ」

「ま、どうあれさ。家族って、いいものよ。ご飯が美味しくなる」

 部屋に戻ってベッドに腰掛けると、ふわりとあぐらをかいたユーレイさんがいつか言っていたようなことを口にして、ふよふよと言葉を続けた。

「似てなくっても、そりゃそーさ。似てるってのは、同じじゃあない。いくらパーツがいくつか同じだからって、おんなじものは出来ないでしょ。オムライスとプリンは同じ卵料理だけど、全然違うもの。アイスとプリンて言ったほうがいいかな? プリンは見たまんまだけど、アイスって卵が使われてることが多いんだよ……あれ、何が言いたかったんだっけ」

「……家族でも似てないって話。似てるは同じじゃないって話。」

「そう、それ。」

 岬が慣れたように話を戻すと、嬉しそうにわらった。

 いつもふわふわと、姿通りの半透明なことばかり言っているのに、突然踏み込んでくる。その突飛なところにも、だいぶん慣れていた。正論というには自由な、それでもしっかりとした言葉は、傷と痛みに裏打ちされていて、耳が痛いこともある。命も身体も持っている、実体もちゃんとある岬よりも、半透明でふわふわしている幽霊のユーレイさんのほうがよっぽど生き物らしいなんて、自分は一体何なのだろうと。

 言葉は続く。

「――ひとつでも違ってたら、いまの自分はいなかった。そう思えばさ、無駄じゃないって思えない? 両親が出会わなければ生まれてくることはなかった。両親が少し違う性格をしていたら、あの言葉を言わなかったら、あのときこうしていたら。もし、きみがいままでの人生でひとつでも違う行動を起こしていたら、言葉を口にしていたら、きっと、確実にきみは、いまのきみとは違っていた。その積み重ねで、きみがきみを作っていくの。――ほーら、これでもまだ、誰かを、自分をけなしたりする?」

「……」

 それでも、岬は素直に頷けなかった。

「綺麗事だろ、そんなん」

「ん?」

「ずっと、綺麗事ばっかり言う。――こっちの気も知らないでさ」

「さっくん?」

 首をかしげるユーレイさんに、岬は苛立ちしか募らない。

 綺麗事ばかり並べて、わらって、――そう、半透明のくせにやけに明るくて、眩しくて、陽だまりみたいで。

「俺の嫌いな奴、そっくりだ」

「……きみの嫌いなひと?」

「そうだよ――兄さんに、そっくりだ」

 その明るさも、天真爛漫なところも、人懐こい笑顔も、人見知りしないところも、感情豊かな内面も、世話焼きなところも、年上ぶるのも、テンションが高いのも、子供っぽくすねたり、素直に怒ったりわらったりするところも。

 岬が持っていない、子供らしい明るさだった。

 元気いっぱいで、太陽がよく似合う、ひとに好かれる人となり。

「どうせ、俺はひねくれてるし素直なんかじゃない。省エネ少年とか言われて、いつも一人で。ずっと一人だったわけじゃないし、学校行けば誰かとつるんだりもする。でも、本気で喧嘩したり、好きになったり、例えば怒ったりする相手って、いないんだ。」

 俺が悪かったのかな、岬は呟いていた。

「嘘でもわらってれば、子供らしくしてればよかった? 兄さんみたいに――ユーレイさんみたいに? 普通の子供みたいに、元気いっぱいで、とか、……それができない子供だっているんだよ。綺麗事に、そうだねって、さびしかったよとかって泣けない子供だっている。感動もので泣ければ優しいやつなの? 淡々としてたら冷酷なの? 誰かから見た評価がないと、俺は俺のこと、何にも決めちゃいけないってこと?」

 元気いっぱいなんて出来やしない。だからこうしてて、これがいいのに。

「一人でもいいって言ってたけど、結局いつかは誰かと一緒にいてねってことだろ? 俺にそんな期待すんなよ。友達がたくさんいたほうがいいって、言われなくてもいい加減耳に入ってくんだよ。でも、――でも他人が怖いって、ガキなりに経験してることもある。手放しで信じるなんて出来ない。疑うより信じて裏切られたほうがいいとか、綺麗事もいいとこだ。無傷だから言えるんだ。俺は、――俺はそれなら初めからひとりでいい。疑うくらいなら、一人でいい。」

 もうあんな思いしたくない。

 溢れ出した言葉も気持ちも止まらなくて、岬は顔を歪めた。

「……ふむ。」

 岬の目を真っ直ぐに見て、耳を傾けていたユーレイさんは腕を組んで考え込んでいた。浮かんだまま、頷いて、もう一度目を合わせた。

 岬は自分が何を言ったのか、どうして言ってしまったのか、混乱の渦中で、ユーレイさんの言葉は聞いてはいるものの、返事をする余裕などあるはずもなく、耳を通り抜けていく。

「ホットケーキもフレンチトーストも、作ってる途中で見た目が悪いって、さっくん言ってたの覚えてる?」

「……」

「何かを作る途中や片付ける途中って、とっちらかってぐちゃぐちゃで、見た目が悪くなるものなの。片付けがいい例かな、一度全部出して広げて散らかさないと片付かない。さっくんの言う、あんなってのがどんな思いだったのかはわからないけれど、」

「……」

「あ、話す気はないのね。ならいいわ。それでもいい」

 ただね、とユーレイさんがふわりとブラウスのリボンをなびかせて、床に降り立った。浮いていると言っていたが、しっかりと床に足をつけているように見える。身長は岬のほうが気持ち高いくらいでそう変わらない。立っているのがやっとの岬と、ユーレイさんの目と目がしっかりと合う。

 向かい合わせに岬の前に立ったユーレイさんは深呼吸をひとつして、一喝した。

「失ってから泣くんなら、きちんと欲しがれ! 手を伸ばせ、馬鹿!!」

 ユーレイさんが岬を叩くことはない。

 触れられないから「叩けない」のだ。でも、いまユーレイさんは触れられないと知りながらも、岬の頬をひっぱたいた。腰をひねって、足にぐっと力を入れて、バットでスイングするように思いっきり岬を引っぱたいた。

「ようやっと、お腹が空いてきたってことかしら? まったくどこまで鈍くしてるのよ。ユーレイさんだってこういうのは性に合わないってのに。節約しすぎ、その揺り返しってとこかしら。――生き物なんだから怖いのなんて当たり前でしょう。生きるって怖いの。だから、綺麗事でも並べて、ポッケに飴玉入れとくみたいに気休めにするの。怖がるんなら心底怖がりなさい。それでいいの。――きみは、生きてるんだから。」

 感覚はない。

 痛みも――痛みはある。

 岬は叩かれた頬に手を当てて、呟いた。

「こ、わい」

 ユーレイさんは黙って、岬の言葉を待った。

「……こわかった。」

「うん」

「……動物が、可愛がってたねこが、死んで。」

「うん」

「みんな泣いてるのに、俺は泣けなくて。そしたらおかしいって。冷たいって、ひとじゃないって言われて。」

「うん」

 岬が小学生の頃だった、近所で捨て猫を拾って、みんなで飼っていた。けれど、もとから痩せていた猫はそのうち食べ物を受け付けなくなって、さらに痩せていった。そしてある朝死んでいた猫を埋めたのは岬だった。可哀想だと泣くばかりで、埋められないと顔を覆うから「ちゃんと眠らせてやろう」岬はそう思って骨と皮だけの、冷たい身体を抱いて埋めた。天国ではたくさんごはんが食べられてるといいな、幼いながらにそう思いながら岬は穴を掘り、猫の亡骸を埋めた。

 振り向くと、仲が良かったはずの「みんな」が岬を遠巻きに見ていた。兄は中学に上がっていて、そこにはいなかった。

 どうして泣かないのか。そんなことができるのか。可哀想じゃないのか。

 どこかおかしいよ。変だよ。

 人じゃない、お前なんか人じゃない。お化けだ、死神だ、悪魔だ。

 お兄ちゃんはあんなに優しいのに!

 そう言われた岬は、そうなのかと納得した。

 ああ、だから俺は兄さんみたいになれないのか。――ちゃんと、泣けないから。

 それ以来、岬は一人になろうとしてきた。

「……いまも、ひとは好きじゃない」

 ユーレイさんは岬の話を黙って聞いていた。わらいもしないで、「そんなことないよ」なんて慰めも言わずに、ただ最後まで聞いていた。

「ばかね、さっくんは。」

 ふわ、とユーレイさんが岬を抱きしめるように寄り添った。

「さっくんが好きじゃないのは、――嫌いなのは、自分でしょうに。」

 温度も感触もない身体は、それでも岬の心を満たしていく。

 いつか置いてけぼりにされた、あの日の岬の手を、ユーレイさんが引いてくれる。

「感情を節約したって、何の貯金にもならないの。後から使えやしないのよ。――傷だって、癒せない。治療費になんかならないの。達観して、悟ったようなこと今から言っててどうするの?」

 ばかね、とユーレイさんは岬の目を覗き込む。

 ゆっくりと、小さな子供に言い聞かせるように岬に微笑む。

「確かに見えない傷は痛いし、治りもまちまちで、ずっと残る傷もある。でも、だから知っておいたほうがいいの」

「……なんで?」

「いつか、さっくんに大切なひとが出来たとき、その誰かが悲しんでいるときに役立つからよ」

「?」

「心は、同じものなんてない。自分と同じ考え方や価値観を持ってる誰かなんていない。それは、いくらそばにいたって、大好きでも同じこと。だからね、大切にしたい人がかなしいとき、傷ついているときに、その傷をわらったり、軽んじたりしないためには、ある程度、自分も傷を知っておかないとね」

 役に立つよ、とユーレイさんは優しく囁いた。

「さびしいとか、悲しいとか、あんまりたくさんあると心が止まってしまうこともある。泣けないほどの悲しみも、泣いちゃうくらいの嬉しさも、わらえない喜びも、わらえるくらいの悲しみも、ちゃんと在るの。見えるものだけがすべてじゃない。心って見えないとこのがきっと多いの。か弱そうに見えて芯が強かったり、打たれ強そうに見えて脆さを持っていたり――だから、誰の心もあんまり悲しければ凍ってしまう。いくら大丈夫に見えても、大切な人の心がそうならない保証はない。こんな世界じゃあね。手を当てることが『手当て』になるように、近くに行きたい、もっと知りたいって思ったときに、傷を知らないと、分かろうとすることもできないの。――そういうときに、自分が悲しかったときや、傷ついたときのことを思い出して、自分がしてほしかったことを、相手にしてみるの。ちっちゃな自分が、ありがとうっていう声が聞こえるかも知れない。もしかしたら相手の欲しかったものとは全然違うかもしれないけど、――優しくありたいって心から思って生まれた行動は、きっと届くよ」

 だから、忘れなくていい。

 傷は癒える。

 それでも、忘れないから、大丈夫。

 そう、ユーレイさんは岬を抱きしめて、ずっと背中をさすっていた。

 ――手を当てるだけで、手当てになる。痛くなくなる。手当てって言葉の語源は本当にそうなのよ?

 こうして撫でてほしかったのかな、と岬は思ったけれど、聞かないままで目を閉じた。

 涙がこぼれたけれど、ユーレイさんは何も言わないので、気のせいだってことにしておいた。

 感触も温度もない手に優しく涙の跡を撫でられて、あの日の小さな岬が少しだけわらっている気がした。


 意地でも、何でもなくて、言葉にしてしまえばわずか数文字。

 悩みなんてそんなものだと、いつか母親が言っていた。悩みを数えてみれば、どんなに深刻でも数え切れるものよと。


 岬の抱えているものも数文字のこと――ただの劣等感と、コンプレックス。

「……なんにも、たいした理由なんかなかった」

 ぼすん、と倒れ込んで仰向けになった岬は腕で顔を覆った。

 絶対に誰にも言いたくなかった。言うつもりもなかった。

 それでも、言葉が溢れて止まらないのは、――今朝まじまじと見てしまったから。

 それにここまで話してしまったら、もう格好なんて付きもしない。

 ほとんどやけっぱちで岬は話した。こんなにもたくさんの言葉が自分の中にあったことに驚きながら。

「俺、昔から初対面の人が苦手でさ。人見知りがひどかったんだ。小さい頃はたまに会う親戚の人も苦手で、家族以外の誰かが来ると、兄さんの後ろに隠れてた。兄さんは、クラスのムードメイカーとか、そんなひとで。誰にだって話しかけて、すぐ打ち解けるんだ。友達も多いよ、大人数でよく出かけたりしてる。」

 ――岬すげーな!

 太陽のような笑顔でわらう兄の旭が、岬は苦手だった。

「小さい頃は、助かったって思ってた。でもさ、これくらいになると、相手がどう思うかってことに頭が回って、あからさまに態度が違うことにも気づいてさ。……そりゃあ、口もろくに聞かない仏頂面の子供と、愛想よく挨拶する子供だったら、どっちが可愛いかなんて一目瞭然だろ? 兄さんは誰もが褒める、自慢の子供。――弟はおまけの引き立て役。」

 人懐こく、明るく元気な子供そのもの。

 大人が好む「子供」そのものでありながら、同年代にも好かれる人気者の旭。

 岬は一歩引いたところから見ている子供だった。

 不思議なことに、勉強しなさいと言うくせに、大人はきちんと勉強する子供はたいして好きではないらしいと知ったのは小学生の頃。元気な子供がいいのか、と諦めたのをおぼえている。

「だから、それなら俺は一人でいいやって思ったんだよ。鳴り止まない電話も、びっしり埋まった休日にもたいして憧れなかったしさ。もともと一人でいるほうが気が楽で、好きだったんだ。……そんな、一匹狼気取りでさ。俺は兄さんとは違うんだって、だから俺はこれがいいんだって――そんな、ガキそのまんまの理由なんだよ。馬鹿だろ?」


「いいんじゃない?」


 ユーレイさんは、のんびりとした声で応えた。

「いいの?」

 いいよ、と答えたユーレイさんはふうわりとあぐらをかいてわらった。

「無理して意地になって一人でいるんなら、そりゃあ確かにおこちゃまだけれど。それだって必要なものでしょ、はずかしい失敗や、思い出したくもないあれこれなんかもさ――って、これは母さんの受け売りだけどね。」

 ゆっくりと、ひとつひとつ染み込ませるように、ユーレイさんは言葉を紡ぐ。

「痛みも、傷も、苦しみも、辛かった過去も、いっそ消してしまいたい記憶も、なにひとつ無駄じゃない。無駄なものなんか、身体にも心にも、ひとつきり無いのよって、わらってた。辛い思いをした分、いつか大切なひと、大切にしたい誰かができたときに、そのひとの悲しみや、辛くて痛い心に、傷だらけの記憶の、そばにいられるようになるんだって。」

 ――痛みは無駄じゃない。

 受け売りでも、その言葉はユーレイさんのものになっていた。

「誰かの気持ちを、そっくり理解することなんてできない。別の人間だから、どうしたって、どんなに近くにいたって、おんなじ気持ちは味わえない。――だから、そんなときに道しるべになるのは、どんな気持ちだろうって考えたときに自分の心にある、辛かったり、悲しかったり、痛かった傷なんだよって。だから、痛みなんて知らないってひとなんていないと思うけど、忘れちゃう人が多い。辛いからって。でも、きっと忘れないで傷だらけのほうがいいって、言ってた。少しだけ、優しいってどんなものかが、わかるから」

 傷だらけのほうがいい、そんな綺麗事をといつもの岬なら思っただろう。

 それでもその言葉は、雨が大地に染み込むように岬の心にすとんと収まった。

 忘れなくても、いいのか。

 引きずるってことじゃ、ないのか。

 腕で顔を覆った岬の額に、ふわりと半透明の手が触れる。横目でちらりと見ると、ベッドに腰掛けて、小さな子供にするようによしよしとなでている。

「ひとりが好きなら、無理してつるむより一匹狼でいなさいな。きっといつか、そんなきみだから出会える誰かがいるはずだって思えば、悪くない。理由がないなら作っちゃえばいいの。ないものは作っちゃえばいい。」

「……綺麗事だ」

 そう言った岬に、ユーレイさんは「うけけっ」とわらった。

 優しい、優しい、鈴の転がるようなあの声で。


 ★


「あーもうなんだってんだよ……」

「おっかえりー! って、あらあら」

 八月十八日は登校日だった。

 髪や制服から雫をぽたぽた滴らせて、ずぶ濡れで帰宅した岬にユーレイさんは楽しそうに「うけけっ」とわらった。

「これはあれだね、水も滴るってやつ?」

「うっさい。思ってもないこと言うな」

「うけけ、怖い怖い」

 岬はじとっとした視線を送り、どうしたものかと玄関で立ち尽くしていた。

 このまま洗面所まで行けば廊下に水たまりを作ることになる。でもいつまでも着替えもしないで突っ立っているわけにもいかないし、と岬がため息をついたときだった。

「……岬?」

「……兄さん」

「うわ、お前ずぶ濡れじゃんか。ちょっと待ってろ」

 家ん中入るなよ、と兄に言われてしばし待つと、バスタオルを差し出された。

 ユーレイさんがふよふよと、にこにこわらいながら岬と兄を見ている。

「お前、なに、登校日?」

「……そー。」

「ついてねーな、もう晴れてんぞ?」

「いいだろ、もう半分まで来てたんだよ」

「そりゃ雨宿りする場所もねーや。災難だったな」

「……まあ」

 つい先日まで、ろくに会話もしなかった兄との距離感を未だに岬は掴めずにいた。それなのに、兄は以前からこうだったように、とくに変わったところも気を遣うふうもなく話しかけてくるので、内心戸惑うところもあった。

 それと同時に思い出したのは、話さなくなったのは兄からではなかったということ。

 なんとなく避けて、話さなくなったのは、そういえば自分だったということだった。

 だから、兄は変わらないのか。――そういうところが苦手だというところもあるのだが。

 器の違いを思い知らされて、自分がひどく幼稚で、子供に思えて、比べてしまって、勝手に敵視して、避けて。これじゃあほんとにガキだと思っても、いまも当たり前みたいにバスタオルを渡されたことがなんだか複雑で。

「ありがとうは?」

 ふよふよと黙っていたユーレイさんが口を開く。

 げ、と岬は思った。お説教されたばかりだったからだ。


 ――きみは、ありがとうって店員さんに言える?

 いつも通り薮から棒にユーレイさんが聞いてきたのが始まりだった。

「は?」

「ありがとうございましたーって店員さん言うでしょ? そうしたら、こっちもありがとうって言うの。」

「なんで? 金払ってんのこっちじゃん」

「うーわあ、さっくんそれは頂けないよ。王さまかきみは」

「えー……」

「いい? 店員さんに偉そうな男子は女子からモテないよ? それに、コンビニでもレストランでも、店員さんがいないとなーんにも買えないし食べられないんだよ? それにいつか働けばわかるけど、ありがとうって言葉はもらうと嬉しいものなのよ。店員さんに言うとさ、一瞬そのひとが店員さんから、鈴木さんとか、伊藤さんとかに戻るの。だいたいもっかいありがとうございましたって言ってくれるけど、一回目とは全然違うから面白いのよ。」

 頷きかねている岬を諭すように、目線を合わせてゆっくりとユーレイさんが言う。

「ごちそうさまも感謝の言葉。いただきますは欠かしちゃいけない礼儀。コックさんに対してもだけど、食べ物に対しても。パック詰めされた肉や魚は生き物じゃないってことはないでしょ? 生きていたものだった。生き物だったのよ。生きていた命を頂くから、いただきます。厳密には野菜だって、調味料だってそう。だから、ごちそうさまでしたも欠かしちゃいけないの。あら、――だって、食べることは殺すことだもの。おわかり?」

 それが、つい昨日のこと。


「悪いことしたらごめんなさい、何かしてもらったら――嬉しいこと、助かることをしてもらったら、ありがとうでしょ?」

 ほら、早く。

 さりげなく視線を逸らしたり、髪を拭いているふりをしたりしていたが「ほーら、聞こえてんのはわかってるの!」と言われて思わず「うっさい」と言いかけて口をつぐむ。

「ん? どした?」

「な、んでもない」

 タオルの隙間からユーレイさんを睨みつけたって、ユーレイさんは素知らぬ顔で岬に詰め寄る。

 ふよふよしているくせに、半透明のくせに、しっかりと目を見てユーレイさんが岬の鼻先にびしっと指を突きつける。

「ありがとう、は?」

 ――ああもう分かったよ。

 投げやりにがっくりとした岬に「うけけっ」と視界の端っこでわらうユーレイさんが見えた。岬の兄の横で、ふよふよと浮かんでいる。機嫌のいいのが露骨に分かるからまた腹が立つ。

「に、いさん」

 しっかり拭いてさっさと着替えろよ、と廊下を引き返していく兄の背中に声をかける。

「お?」

 意外そうに振り向いた兄の顔を、一瞬だけ見て、タオルに隠れて目をそらした。

「これ、タオル。その……ありがと」

 ユーレイさんがすぐそばで嬉しそうにふよふよ浮かんでいることも知らない兄が、少しわらった気がした。そういえば、兄さんはよくわらうんだよな、何が面白いのかよくわかんないところで。

「いいよ。風邪引く前に部屋行って、早く着替えな」

「……ん」

 さっきと同じようなことを言った声は、さっきより柔らかかった気がした。

 少し、優しかった気がした。


「いいなー、いいなーあ」

「何がいいんだよ、服は張り付くしいいことないだろ」

 着替えて部屋で一息つくと、また雨が強く降り出した。

「だって、ユーレイさんは雨に濡れられないもの」

「え? あ、おい」

 ユーレイさんは窓からふわりと外に出た。

 再び強く屋根を、木々の葉を、アスファルトを打ち付ける雨粒の中、ふわふわと浮かぶユーレイさんの髪も服も濡れることはない。

「いいなあ、雨粒が顔に当たるのって、どんなだっけ」

 透けるような笑顔で、ユーレイさんは土砂降りの雨の中に浮かぶ。

 岬はかける言葉が見つからなくて、ただ見ているしかできなかった。ふよふよと浮かびながら、ユーレイさんは空を仰いでみたり、駆けていく通行人を見たりと雨なんて降っていないみたいに宙に漂う。

 どんな言葉も足りない気がして、何をしても届かない気がした。

 生きている岬と、生きていないユーレイさん。生と死の境界線はあまりに明確で、遠くて、違っていて。

 岬は目を逸らせずに、土砂降りの雨のなかに浮かぶユーレイさんを見ていた。

 そんな中でも、鼻歌はいつもと同じ「うさぎとかめ」。

 少し調子はずれの友達の唄が、雨音の中で微かに聴こえてくる。


 ――ねえ、要らないなら、ユーレイさんに頂戴よ。


 いつか、ぞっとするほど静かに微笑んでいたユーレイさんの言葉を思い出す。

 雨粒が髪を伝い落ちる感覚も、雨の前には必ず訪れる頭痛の痛みも、思うようにならない苛立ちも、なかったことにしようとした悲しみも、ユーレイさんは岬が気づいていなかったことや、気にも留めていなかったこと。知らないうちに捨てていたものまで拾い上げては羨んだ。いいなあ、いいなあと言って、岬の捨てたものを宝物みたいにそうっとすくい上げては岬に見せた。

「……どうしたの?」

 腕、濡れちゃうよ?

 窓から手を差し出した岬に、ユーレイさんが首を傾げる。

「……見てるこっちが寒い。風邪引きそうな気になる」

 ユーレイさんが濡れることはないとしても、そのままにしておくことは、岬にはもうできなくて。

 全然足りないし、意味なんてかけらもないと思ったけれど、それでも、いまの岬は素通りすることも、見なかったことに、気付かなかったふりをすることもできなかった。

 目の前できょとんとしている、ユーレイさんのせいで。

「……風邪、は引かないけど、もう戻れよ」

 しどろもどろな岬に、ユーレイさんはくすっと吹き出して「うけけっ」と嬉しそうにわらった。

「ありがと!」

 年上のくせに、やたら素直なユーレイさんに調子が狂うのにも随分慣れてしまった。

 悪くもないかな、と思う自分に一番驚いているのは岬自身だった。


 ★


 雨のやんだ夜に、窓から何かの燃える匂いが流れてきた。

「なんの匂いだ、これ」

「んー?」

 風呂上がりの岬の斜め上をいつも通りふわふわと漂っていたユーレイさんは「あ」と岬のところまで降りてきた。

「さっくん、今日何日?」

「えーと、十八。」

「あれ、じゃあ昨日のはずだけど。送り火忘れてたのかな」

「送り火?」

「たいまつ燃やして作る、お盆で帰ってきたご先祖様の帰り道だよ」

 十二日だっけな、迎え火は。

 岬がよく知らないというと、ユーレイさんは静かな目で教えてくれた。

「迎え火は、馬に乗って早く来てもらう道よ。夕暮れくらいには焚くかな。」

 きゅうりに割り箸さして作ったっけ。

 牛は茄子、と懐かしむように微笑んだ。

「送り火は、お土産たくさん持ってゆっくりゆっくり、振り向きながらでも危なくないように牛で帰る道。だから送り火は日が沈んでから。」

「……意味、あるの?」

「んー、まあさびしくはなるかな。いやでも思い出しちゃうからねえ。たいまつ焚くのって意外と時間かかるし、その間は離れられないし。空見上げて、今頃帰ってきたのかなあとか、もう着いたのかなあとかさ。ユーレイさんとこはご先祖様ってより、おばあちゃんが帰ってくるって認識だったから。弟たちと人形用のベッドとか椅子とかテレビの前に置いて、小さい招き猫とか置いて話し相手にしたりしたっけ。」

「おばあちゃん、好きだった?」

「んー、小さかったからなあ。……でも、好きだったよ」

 もう一日、居て欲しかったのかなとユーレイさんは小さく囁きをこぼした。

 かもな、と岬は頷いて、ユーレイさんの隣に並んで空を見上げた。

「……会えない、なあ」

「会いたい?」

「どうだろ、怒られちゃうかもしれないからなあ」

 こんなに早く来るなってさ、とユーレイさんはわらう。

「見えたりも、しない?」

「……うん、誰も、幽霊は見えない」

「そっか。」

 岬は、どこにも帰れないユーレイさんが見上げている空を隣でずっと見ていた。

 肉親を亡くしたことのない岬に、気の利いた言葉はかけられそうにない。――だから、

「……なあ、」

「ん?」

「今度は、何作る?」

 ぱっと岬のほうを向いて、ユーレイさんがわらった。

 淡くなんかない、にぱっとしたいっぱいの笑顔を直視できずに岬は目を逸らした。

「ありがと、さっくん」

「その呼び方はヤメテクダサイ」

「えー、いいじゃん」


 何にしよっかなーと、なにやらご機嫌に鼻唄を歌い出すユーレイさんを横目に、岬はベッドに腰掛けて本を開く。

 だいぶん涼しくなった夏の夜に「うさぎとかめ」が、ページをめくる音と重なった。



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