2 まずはホットケーキなどいかがでしょう
2 まずはホットケーキなどいかがでしょう
ホットケーキ、作ろ! 八月二日に岬をたたき起こしたユーレイさんはにっこりとわらった。
「……オヤスミ。」
「ちょ?! 二度寝禁止ー!」
「……」
いい? ホットケーキはタイミングなのよ。ユーレイさんが真面目な顔で力説した。
結局うつらうつらするのを何度か繰り返して、岬は起きた。どのみち既に家族は出払っていたし、いつもよりはゆっくり寝坊を満喫した。欲を言えば、二度寝の至福をもう少し堪能したかったが、夏の二度寝より冬の二度寝のほうがより良い。
まあ、これ以上寝こけてユーレイさんの機嫌を損ねると後が厄介だというのが大きかったのだが。
「作り方は混ぜる、焼く、いただきます! 重要なのはタイミングなのよ」
「……はあ」
「生返事しない! タイミングはほかにも応用できるんだからね?」
「ほかって?」
「そりゃあ少年、恋とかですよ」
「……作り始めていいデスカ?」
「なんと?! スルー?!」
ホットケーキミックスの袋の裏には「目指せ! 三センチ!」とやたらポップでカラフルな文字と何かのキャラクターが作り方を指している。
「はい、まずはたまごと牛乳からボウルに入れてくださーい」
「はーい」
コンコン、とたまごを割ると「おおっ」とユーレイさんが声を上げた。
「何?」
「いやあ、予想外に綺麗に割るなあって」
「……どんな下手だと思ってたんだよ」
たまごくらい割れるっての。
岬は計っておいた牛乳を加えて混ぜると、ホットケーキミックスの袋に手をかけた。
「……」
外袋には「練りすぎないでね!」とキャラクターが看板を持って「ポイントだよ!」と大きな文字。
迷って、躊躇って、岬は口を開いた。
「……練らないでって、これ何。」
「ああ、泡立て器でいいから、粉っぽさがなくなるまで混ぜてみて?」
躊躇ったのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、あっさりとユーレイさんはコツを教えてくれた。岬は言われるままに、恐る恐る混ぜているとユーレイさんが「うけけっ」とわらった。
「そんなおっかなびっくりやらなくても大丈夫だよ」
「……うっさい」
少し顔が熱くなるのを感じつつ、岬はざくざくと混ぜた。
「あ、そんな感じ」
「え?」
「じゃあ焼こっかー」
「あ、もういいの?」
「大丈夫よー、粉っぽさがなくなったかなあくらいでいいの」
「あ、そ。」
「じゃあフッ素加工のフライパン出してくれる?」
ユーレイさんの言われるままに、油のいらないフライパンを取り出した。
「火は? どれくらい?」
「中火ー……あ、それくらい」
それから、とユーレイさんはてきぱきと指示を出す。
「フライパン、それに乗せて? 一旦温度下げるから」
「あ、そう」
用意しておいた濡れ布巾に、フライパンをじゅうっと乗せて、弱火にしておいたコンロにフライパンを戻す。
はい生地。とボウルを指さされて、岬は片手にボウル、もう片方の手にしずく型のお玉、レードルを持ち生地をフライパンへ。
「八分目くらいで……そうそう、はじめは低いとこから流して、少し上に。そうそう」
生地はいびつなでこぼこのついた丸になった。
「上手上手!」
「……いびつじゃない?」
「そーんなことないよ。ほら、見てて?」
岬の顔のすぐ横で、ユーレイさんがわらう。うけけっと小さく、でも、楽しそうに。
近すぎやしないだろうかと岬が考えていると、岬のほうを向いたユーレイさんとぶつかることはないけれど鼻が触れそうな距離で目があった。
「わあっ……と、ほら、見て」
「ああ、お?」
「ぷつぷつしてきたでしょ?」
生地の表面にぷつぷつといくつか気泡ができていた。
「……なんか、見た目すごいけど大丈夫なのコレ。」
「あはは、途中ってのはこんなものよー」
「まだ?」
「まーだ。もうちょっと」
生地の表面が気泡だらけででこぼこになると、岬は少し慌てだした。
「ちょ、これまだいいの?」
「もーう少し……そろそろいいかな」
「え、何?」
「ほらほら、ひっくり返してー」
「……ひっくり返す?」
岬は焦った。ひっくり返すって、何だ?
自慢ではないがお好み焼きも満足にひっくり返せないのだ。というか、ひっくり返したことがない。大丈夫なのかと固まる岬に、ユーレイさんがわらった。
「ほーら、失敗するのが初心者の仕事。焦げちゃうよ?」
フライ返しを指さして「うけけっ」とわらう。
気泡がいくつか割れている生地に、恐る恐るフライ返しを差し入れて、持ち上げる。
「あ」
ぺた、と間抜けな音で、真ん中からずれたところに着地した生地の裏側は、少し焦げてしまっていた。
「あら、案外うまく出来たじゃない」
「これで?」
「高望みだなあ。初心者さんは黒焦げじゃないだけいいと思いなさい?」
ほら、そろそろ焼けたんじゃない?
そう言われて皿に取ってみると、皿に収まった姿はそれなりにみえるが物寂しい。
「さ、もう一枚焼いてみよー」
「え、あ、うん」
ユーレイさんに促されるまま、フライパンを濡れ布巾の上で冷まして、二枚目の生地を流していく。
ぷつぷつと気泡が上がってくると、ユーレイさんが岬に教えた。
「この気泡はふっくら焼けるもとなのよ。だから、全体に出てきたらひっくり返すの。割れちゃうとふっくらのふくふくが逃げちゃうのよ。さ、二枚目は自分でタイミングを計ってやってみましょー」
「え?!」
大丈夫大丈夫とわらうユーレイさんに流されるまま、おっかなびっくり岬がフライパンとにらめっこしているのを見て「かわいいなあ」とユーレイさんがわらったが、言い返す余裕は悔しいかな岬にはなかった。
「いい? もういい?」
「いいんじゃないかなー?」
「適当だなあ!」
ぷつぷつと全体に気泡が出来た辺りでフライ返しを差し込んで、持ち上げて、ひっくり返した。
岬は思わず「おお……」と声を出していた。
あ、と隣を見ると、ばっちり聞かれていたようで、ふふんとドヤ顔をしたユーレイさんが
「よくできました」
と、ふよふよと浮かびながらわらった。
「出来たねー!」
「……混ぜて焼くだけだけどな」
「ちょっと焦げてるのとか崩れてるのもあるけどね!」
「……前回よりマシだろ」
「だったら始めから素直にできたって言いなさい」
まったくもう、と頬を膨らませて、ユーレイさんがほかほかと甘い湯気のたつホットケーキにとろけるような視線を送る。
「重ねるのがホットケーキの醍醐味よね」
「……なんか、豪華に見える」
「でしょ?」
さらに重なったホットケーキはなんとも豪華な五段重ね。多少焦げているものや、大きさもいびつではあるものの、食べられないものはなく、焼きたての美味しそうな香りに食欲をそそられる。――ふと、ユーレイさんに嗅覚は残っているのかと思ったが、聞くのは酷だろうと口をつぐんだ。
「ささ、熱々のうちに食べちゃおう」
「ユーレイさん食えないだろ?」
「んー? でも、見てるのも美味しいものよ」
「はあ」
「これだからおこちゃまは。ほーら、マーガリンとシロップは?」
「あったかな……」
「なんと?! あまじょっぱいがホットケーキの醍醐味なのよ?!」
「ああはいはい。……あ、あったあった」
マーガリンは四角くとってね? シロップは上から、こうお店のみたいにかけて、後から付け足してよ? ……などなど、自分が食べられないのに、あれこれとユーレイさんの注文を受けてホットケーキを完成させた岬はようやっと椅子に腰を落ち着けた。
「さあ召し上がれ」
歌うようにごきげんに手を広げるユーレイさんは出来栄えにご満悦のようだ。岬もよくできてるなあと思いはしたが、半分自分で作っているとはいえ、なんだか素直に言うのは悔しいのでフォークを手にとった。
「いただきますは?」
「……イタダキマス。」
あ、うま。
声に出していたらしく、ユーレイさんがにたりとわらった。
「でしょ? 初めてだし、焼きたてだもの。美味しくないわけがないっての」
「……」
もくもくと頬張りながら岬は頷いた。
もともと甘いものが嫌いではない岬だが、ホットケーキを食べる機会なんて中学生男子にはそうそうない。前食べたのはいつだったか。
ホットケーキに甘いシロップが染み込んで、マーガリンの塩気がほどよく甘さを引き締めて引き立たせる。
――これは、ちょっと本当に美味い。
黙々と頬張っている岬はなるべく隠そうとしていたが「美味しそうに食べるね?」とユーレイさんに言われてしまって目を逸らした。態度は誤魔化せても、目が緩んでいたらしい。ユーレイさんにはバレバレだったと思うと隠そうとしていたのがかえって恥ずかしい。
そんな岬に頬杖をついたユーレイさんがわらう。うけけっと楽しそうに。
「今度はフレンチトースト作ろっか」
「え、まだやんの?」
「だーって誕生日ケーキにはまだまだ遠いじゃない」
「……これじゃだめ?」
「えー、生クリームたっぷりのハワイアンパンケーキでもちょっとなあ。誕生日ケーキはショートケーキがいい。」
「パンケーキとホットケーキって何が違うの?」
「ホットケーキとパンケーキはほとんど同じなの。んーとね、クレープも合わせてフライパンで焼くケーキでひとまとめなんだけれど、パンケーキは英語。ホットケーキは和製英語で、日本以外じゃまず聞かないんだよ。パンケーキは少し小ぶりで薄めの、あんまり甘くないケーキのこと。ベーコンとか目玉焼き乗っけて食べたりもするからね。で、それよりおっきくて厚くてあまーいのがホットケーキ。ちなみにクレープは確かフランスのパンケーキなんだよ。」
「……やたら詳しいな」
「だから、伊達にお菓子の本ばっか読んでないってば。好きこそものの上手なれって言うでしょ? それに、ユーレイさんの母さんも、よく作ってくれたから。……きなこのクッキー、大好きだったなあ。いちごのジャムとか、カステラとか、なんでも美味しかったもん」
目を細くして、懐かしむような、ほんの少し寂しそうな顔をしたと思ったら、にぱっと岬に笑顔を向ける。
椅子に腰掛けて、頬杖をついて岬の目を覗き込む。
「ね、おいし?」
「……んまい」
「ふふー、よかった」
そうこうしながら食べ終える頃、つけっぱなしのテレビから、自殺した子供のニュースが流れた。
またか、と思う岬の向かい側で、ユーレイさんがじっと画面を見つめる。
「……変わらないね」
珍しく、静かに乾いた声で呟きがこぼれた。
静かに凪いだ目は、画面を通して違うどこかを見ているよう。問いは気づけばこぼれていた。
「……いじめられてたの?」
「ん? どうだったかなあ……ああ、もしかして鱗があるから?」
あ、いやと口ごもる岬は無神経だったかと視線をさまよわせた。
気にする様子もないユーレイさんは、そんなに気を遣わなくていいよとわらってみせる。
「気にしなくていいよ、あんまり見ないもんね?」
「……そもそも、なんで、鱗?」
「さあ? まぜっこだったのかもね」
まぜっこ? と聞き返した岬に、ハーフのことだとユーレイさんは言った。「でも、その言い方って好きじゃないの。ちゃあんと一人分の生き物なのに、半分みたいじゃない? まあ、人間がずっと半人前ってのには賛成だけど」と、持ち前の持論を展開させた。
岬もたいがい慣れてきていたので、ふうんと頷いて話を戻した。
「鱗のある何かと、人間の子供だったってこと?」
「そ。まあ、そうかもねってことだけれど――だって、そのほうが気楽じゃない?」
「気楽?」
「だって、わかんないじゃない。ユーレイさんはまぜっこかもしれないなら、鱗のある誰かの姿に生まれていたかもしれない。もしかしたら、そうなるはずだったのかもしれない。ほんとうは。――でも、ユーレイさんはこの通り、鱗のある人間に生まれた。それなら、きみだって同じかも知れないでしょ?」
「同じ?」
そうよ、同じ。
怪訝な顔の岬に、ユーレイさんはくるりと人差し指を立てて頷いた。
「きみは本当は、そうね……魚に生まれるはずだったのかもしれない。ネズミかも。ライオンかも。恐竜かも? とっても可愛い美少女だったのかも?」
さらに顔をしかめる岬に、うけけっと楽しそうにわらって、ユーレイさんはふうわりと膝を抱えた。
「だって、そしたらさ? こんなにちぐはぐな世界も、それなら仕方ないねって、思えるでしょ? みいんな、そうだったら。ほんとは猫に生まれるはずだった人が電車の運転手さんで、ほんとは誰かの弟になるはずだった人が動物園のペンギンで。偉い人も、野良犬も、世界中がみいんな、ちぐはぐだったらさ。あ、それじゃあ肩肘張ったって仕方ないやって思えるじゃない。――そりゃあ理不尽なはずよね、上手くいかないことばかりになるよねって」
そっと、右腕を覆う鱗に左手で触れるユーレイさんの横顔は穏やかで、微笑みも静かで。
鱗のあることで、理不尽な目にあったり、上手くいかないことに囲まれて、頑張ったってどうしたって、仕方ないって思うしかない世界でユーレイさんは生きて、死んだのだろうかと岬は思った。
それは、どんな気持ちだろうと。
鱗を持つ人間を、自分と対等に扱える人間が、世界に何人いるだろうかと思った。
「何に、生まれたかった?」
それくらいしか、岬には言えなかった。
言ってから、もっと何かなかったのか、あっただろうにと岬はいつも通りの表情の下で頭を抱えた。顔を上げたユーレイさんは、きょとんとして、わらった。岬の自己嫌悪やらままならなさなんて、吹き飛ばすような声と一緒に。
それはもう、即答と言える清々しい返事だった。
「ユーレイさんに決まってるでしょ」
だって、父さんと母さんと弟二人と家族になれたもの。
にぱっとわらって答えるユーレイさんの家族は、両親のどちらも人間だという。それなら、鱗のある子供を引き取って娘として育てたということだ。ユーレイさんは、ごくごく普通の家庭で育った岬から見ても真っ直ぐで、眩しくて。こんな風に娘を育てたユーレイさんの両親はすごい人たちなんだろうな、と岬は思った。元々期限付きなのに、ひと月も経たない今でさえ、いっぱいいっぱいな自分にはとても真似出来そうにないと。
そんな岬の胸中も知らずにユーレイさんは頷く。
「うん。ユーレイさんはユーレイさんがいいな。で、じゃなくて、が。」
――辛くても?
岬の心の中で、ぽつりと問いがこぼれた。
口に出すことはしないけれど、辛かったんじゃないのかという思いは消えない。それでも、そんなことは聞かなくても、きっとユーレイさんが言うだろうことが、岬にはだいたい分かった。
ユーレイさんは無傷で生きようなんて思っていない。
それが両親からの教えなのだろう。受け売りだと話す言葉は、傷を受ける前提のものばかりだった。
――辛いのも痛いのも知っておいたほうがいいの。そしたら、誰か大切な人の痛いのがわかるから。寂しいのだって、誰かと居たってことだから、ほら、悪くないでしょ?
だから、岬は聞き返されて、こう言えた。以前なら、どうだっていいと一蹴しただろう。
「さっくんは? 何に生まれたかった?」
「さっくんはやめろ。」
えー、いいと思うのになあ。ちぇ、と唇を尖らせる自称年上のユーレイさんに、岬は答えた。
「俺は俺でいいよ。魚や美少女よりは俺がいい」
何気ないふうに返した言葉に、ユーレイさんは微笑んだ。「で」じゃなくて「が」とさりげなく言いたかったのだが、どうやら目ざといユーレイさんには気づかれてしまったようだ。
そんな岬に微笑んで、ユーレイさんはそっと白い鱗に覆われた腕をなでる。
「鱗、ね。混ぜっ子とはいえ珍しいかな」
――そんなのあったら、悪目立ちしただろ?
なんて、面と向かって言えるはずもないし言いたくもない。曖昧に頷く岬に、ユーレイさんは小さくわらった。
「いじめられたっけ。……でも、変わらないよ。」
「変わらない?」
「そ。こんなのあっても、なくても。――ああ、少し違うかな。
鱗があるから。鱗がないから。
強いから。弱いから。
変わってるから。変わってないから。
人気者だから。一人ぼっちだから。
ぶさいくだから。美人だから。
勉強ができるから。勉強ができないから。
だから、いじめに遭う。
あってもなくても、出来てもできなくても、あるから、ないから、できるから、出来ないから――馬鹿みたいに平等に、だから、いじめられるの」
そしてね、とユーレイさんが静かに微笑む。
「いじめたほうは、なーんにも覚えていないの。いじめたなんて自覚がないから、覚えてない。自覚があってやっていたならそれは犯罪に等しいけれど、裁くことはできやしない。生き延びた方の勝ちなのよ。いじめられている子はほんとは強いの。先に手を出すのはいつだって弱いほうなのだから――もっとも、生き延びることは本当に難しいから、ずっとずっと問題になっているのだけれどね」
本当に、いつになっても、変わらないのね。
「もし、一言でいい。声をかけてもらえたなら、きっと何かが変わっていたのにね」
静かにふよふよと漂うユーレイさんに、岬は何も言えずにいた。
岬の教室でも、大なり小なりいつだって「それ」はあった。
あまりに曖昧で「いじめ」と呼んでもいいのかわからないようなものから、目を背けてしまうものまで。小学校の低学年から存在していたし、これからも学校にいる以上、もしかしたら働き出してからも目にすることはあるのかもしれないなあくらいに岬は思っていた。岬は持ち前の省エネ精神に基づく賢さでうまく立ち回っていたから標的になったことはないし、いじめる側にまわったこともない。
それでも、目を背けてきたのなら、それは、避けたということで――
『一言でいい。声をかけて、もらえたなら。』
ユーレイさんの言葉を噛み締める。
上手く立ち回れる自分なら、――声をかけることもできただろうか。
岬が小学生の頃、学校に来なくなったクラスメイトがいた。
ああ、それが一番よかっただろうなんて思った自分が、いまはすごく嫌だった。
「……でも、」
「あ、今日旧暦の七夕だって!」
「え?」
切り替わったニュース画面は、天気予報で旧暦の七夕を取り上げ、夜空を眺めてみてはいかがでしょうと気象予報士がにこやかに簡単な星座の紹介をしている。
「今日晴れてるから見えるかな?……あ。で、何だった?」
「え?」
「さっき、何か言いかけてたでしょ?」
いや別に、という岬に「ん?」とユーレイさんが首を傾げる。
「……何でもない」
「えー、気になるじゃん。何?」
――俺だって、楽して上手くやってたわけじゃない。きっと生き延びるために、省エネ少年を選んだんだ。
なんて、言えなかった。
そんな岬にユーレイさんが「まあいっかー」とふよふよ浮かんでわらう。
ホットケーキの最後のひとかけらを頬張る岬を眺めて、ユーレイさんはにこにことわらっている。
冷めても美味しかったのは、きっと向かい側で脳天気にわらっている誰かと一緒だったから。それくらいは、岬にも分かるようになった。
――相手はそんなこと、覚えてなんかいないよ。
そう、静かな目で呟いたユーレイさんを思い出す。
ホットケーキを作りながら、鼻唄を歌うユーレイさんに、花火を見た夜、ひとつひとつのありふれた花火に、声を上げて大はしゃぎしていたユーレイさん。あの静かな目は、わらっていたけれど別人のようだといったら言い過ぎかもしれない。でも、それくらい静かな目をしていた。
ユーレイさんは、いじめられていたんだろうか。
岬はふと考えたけれど、答えも出ない、確かめようもない、確かめたって何にもならないことを考えるのは早々に辞めた。ユーレイさんに聞いたって覚えていないだろうし、思い出したってどうにもならない。
その代わり、になるかはわからないけれど、ユーレイさんにひとつ提案をした。
「いいよ、今度はフレンチトーストで」
嬉しそうな返事と一緒に聞こえてきた鼻歌は、やっぱり「うさぎとかめ」だった。
★
「……」
「おーい、大丈夫?」
「……」
「聞こえてる? 具合悪いの?」
「……」
「え、ちょっと大丈夫? 生きてる?」
「……勝手に一緒にしてんな」
朝は晴れていたのに、昼からどんよりとした曇り始めた空は、いまにも雨が降り出しそうだ。岬はカーテンを閉めてタオルケットを頭からかぶっているけれど、それはこんな曇天だからなのである。
「あ、よかった。生きてた」
「……頭痛いんだよ。頼むからいまは放置して」
もぞ、と億劫そうに開け目を再び閉じる。
岬は頭痛持ちで、特に雨の前はほとんど確実に痛む。ひどくなければ特に支障はないが、何ヶ月に一度の割合で寝込まざるを得ない痛みがやってくる。
それが今回だった。
「……?」
何かの気配を感じて目を開いた岬は露骨に嫌な顔をした。
「あれ、ユーレイさんに気配なんかないのによく分かったね」
鼻先がくっつきそうな距離、目の前にユーレイさんの顔があった。悪びれる様子もない笑顔はいつものことだが、今日の岬にとっては神経を逆なでするものでしかない。
「退けよ」
「見てるだけだよ」
「邪魔」
「話しかけもしないよ」
「眠い」
「寝ていーよ」
「あーもうお前にはわかんないだろうけど、オレはすげーきついし頭痛いんだよ。頼むからどっか行くかおとなしくしてろよ」
鬱陶しいと岬はユーレイさんを睨みつける。
少しきつく言い過ぎたような気がしたけれど、いまの岬にとって最優先は睡眠。正直誰かの気持ちを思いやる余裕なんてない。
そもそも、岬はいつも一人を選んできたので、誰かの気持ちを思って行動したことなんて無いといっていいだろう。こうすれば放っといてくれるだろう、と一人になるために考えることはあったけれど。
だから、ふよふよと浮かびながらユーレイさんが告げた言葉の意味がわからなかった。
「ひとりでさ、痛いのって寂しくない?」
痛いのにおっきな声出させたのは謝るけどさ、とそっとわらって。
「そばにいるのも、だめかなあ。痛くなくなるまで、寝てていいからさ」
「……」
「静かにしてるよ?」
「……勝手に、しろ」
声を荒らげたときに起こしたままだった上半身をぼふんとベッドに沈めて、岬はそのまま眠った。
――ひとりで耐えてたら、余計に痛いよ。
目を閉じる間際に聞こえた言葉の意味を考えるには、岬の頭は痛すぎたし、向き合うには、分が悪い気がした。
一人を選ぶことは岬にとってはごく当たり前のことだった。
感情を揺らさず、誰にも期待しないで、フラットに日々を過ごすこと。
それが一番いいと思っていたのだ。
半透明のユーレイさんなんてのが、現れるまでは。
西日が眩しくて目を覚ました。雨は降らずに雲もどこかへ行ったらしい。
頭痛はだいぶん楽になっていて、岬はのろのろと身体を起こしてため息をついた。
「……お前が寝てどうする」
岬のベッドに上半身を乗せる形で、ユーレイさんが寝息を立てていた。
浮いてるほうが楽だって言ってたくせに、きつい姿勢で眠ってしまったのだろうか。
色々と考えながらも、とりあえず起こすのも悪い気がした岬はタオルケットをかけてやろうとして、ああ通り抜けるから無理か、と手を引っ込めた。
すうすうと寝ていたユーレイさんが「んー……」と身体をよじって、目を開けた。岬の顔がなかったからかきょろきょろとして、身体を起こしているの岬を見上げると「おはよー」とわらった。
「治った?」
「まあ」
「ほらね、一緒のほうがいいんだよ」
「いつもの変わんないけど」
「いやいや、気づいてないだけだよ」
「……あっそ。」
これ以上続けても疲れるだけだと早々に諦めた岬に、ユーレイさんは伸びをして欠伸をひとつ。
「痛いのは、知っといて損はないのよ」
うけけっとわらうユーレイさんの、あの静かな目を岬は思い出していた。
――そんなに要らないならさ、頂戴よ。
凪いだ目で、痛みも、苦しみも、命もぜんぶ頂戴と言ったユーレイさん。
「……痛いの分けたって、仕方ないだろ」
岬にはそれが精一杯だった。
そんなことないよと、やっぱりユーレイさんは言ったけれど。
それに、失ったと言っていたけれど、どう見たって考えたって、ユーレイさんは感情豊かだった。――少なくとも、岬よりはよっぽど。
身体を起こして時計を見ると夕飯まで少し時間があった。適当な本を開く岬に、ユーレイさんが思い出したように問いかけた。
岬もユーレイさんの突拍子のなさにもだいぶん慣れていた。
「そういえば、友達とどこか行ったりしないの?」
「そんなのいない」
「彼女は?」
「いない」
「好きな子は?」
「いない」
「へえ?」
「なんだよ、寂しい奴だって言いたいのか?」
「んーん、いいんじゃない?」
肩透かしをくらった岬にケラケラとわらってユーレイさんはふよふよと欠伸をひとつ。
「ひとりでいるのが好きなら、無理して友達百人作ることないって思うのよね。百人もいたら年賀状書くのも大変でしょ? 子供は元気、って大人や学校の先生もみーんな言うけれど、大人しい子供だってきちんと存在しているじゃない。勉強もちゃんとして、宿題も忘れないでって、大人の言うことをきちんと聞くいい子を望むのに、そのくせ、そういう子供は大人びてるとかって、可愛げがないって、愚痴ってさ。ほんとは、宿題放り出して外で元気に遊ぶような子供のほうがいいんだよね。大人ぶってあれこれ世話が焼けるからさ。それってほんとにわがままな、迷惑な話だって、ユーレイさんは思うのよ」
「随分とひねくれた意見だな」
「えー。だって、学校なんて命を賭けてまで行く場所じゃないもの」
さらりとユーレイさんが言ってのけたので岬は思わず聞き流すところだった。
「命を懸けるって、大袈裟な。」
「? 自殺しちゃった子なんかは、そうでしょ?」
曖昧な相槌で応える岬を気にしないで、ユーレイさんは言葉を続ける。
「居心地のいい場所を選んで悪いことはないでしょ。わがままでいいって思うのよ、自分からわざわざ死んじゃうくらい辛い場所に、居なけりゃならない理由なんてひとかけらもない。ユーレイさんに言わせれば、それならわがまま言って暴れたって、黙りこくって引きこもったって、そのほうがマシよ。死んじゃうなんて、もったいない。二度と元には戻らないのに、命を捨ててしまうなら、自分で自分を殺すくらいなら、キレイに死ぬより、生き汚く這いつくばってでも、ユーレイさんは生きていたいな。――どこまででも、逃げたっていい。向き合わなきゃいけないことは、ちゃんと向き合うときが来るから」
それに、案外捨てたもんじゃないなって、傷ついた人なら見つけられるから。
そう、綻ぶように微笑んだ。
「ひとりが好きならそれでもいいんだよ。でも、もしもこの先、相手が喜んでたら自分も良かったって思えて、へこんでたらジュースおごってやれちゃうような、そんな誰かに出会えるかもしれない。それは、キセキって呼べる出会いだよ」
「……大袈裟。」
「いやいや、恋愛においてばっかり、キセキとか運命の出会いとかっていわれているけれど、それは友達だっておんなじだよ。むしろ、結婚みたいに形があるわけじゃないのに、一生付き合い続けたりできるなんてさ、すごいことだと思わない? だから、出会いを待つもよし、探しに行くもよし。セーシュンだね、中学生!」
「からかってる?」
「まさか、仕合わせを願ってるの」
「……あっそ。」
「だって、仕合せなんてなったもん勝ちだもの」
「なったもん勝ち?」
「いつだって、どこでだって、なれるひとは仕合わせ者。おんなじなのよ、場所を取りかえっこしたって、嘆いてばかりのひとはどこでも不満しか見つけられないの。安上がりの仕合せは、なったもん勝ちなの。――ま、争うことじゃあないのだけれどね。仕合せなんて、自分で決めていいんだから」
「あ、そ。」
「あ、晩ご飯できたって。早く行かなきゃ」
「はいはい。もうそんな時間だっけ」
一日がゆっくり始まって、あっという間に過ぎていく。
ユーレイさんが来てから、時間は不思議な流れ方をした。
★
旧暦の七夕が、とテレビで見たのを忘れていなかったらしい。
夕飯を終えて、岬の勉強が一段落すると、案の定ユーレイさんが目を輝かせた。
「七夕! やろ!」
やっぱりな、と岬はもう隠そうともしないでため息をついた。
「七夕ってそもそも字の上達を願うんじゃなかったか?」
「え、織姫と彦星の年に一回のデートじゃないの?」
「……一応女子っぽいことも言うのな」
「失礼な! ユーレイさんは永遠の女の子だよ!」
「……」
答えづらいことを言わないでほしい。
岬の胸中もお構いなしに、ユーレイさんは願い事を考えている。腕組みをして唸りながら、ふわふわと岬の周りを漂う。岬はお付き合い程度に「無病息災」と書いてから、これって幽霊のユーレイさんには嫌味になるんだろうか、と考えてちらりとユーレイさんの様子を伺おうとすると、
「バケツプリン!」
と、目をキラキラと夢見る子供、恋する乙女のように輝かせたユーレイさんが叫んだ。
「は?」
「願い事! バケツプリン食べたい!」
さっき少し気遣った自分の何かを返してほしい、と岬が脱力しているのもいつものことなので、ユーレイさんはバケツプリンの魅力について身振り手振りを交えて語っている。
「あれって自重で潰れるんじゃなかった?」
「え、嘘。何か方法なかったっけ?」
結局二人でバケツプリンの作り方を調べることになった。
カタカタと調べる岬の横で、ユーレイさんが鼻歌を歌う。やっぱり何回聞いても「うさぎとかめ」だ。
「どうしていつもそれなの?」
「ん?」
「鼻歌。」
「ああ、友達の唄だからよ」
「ともだち?」
「そ。うさぎとかめは友達の唄なの。」
四番まであるの知ってる?
知らない、と意味が掴めない岬に、ユーレイさんは「うさぎとかめ」の歌を四番まで教えてくれた。
もしもしかめよ かめさんよ
せかいのうちでお前ほど 歩みののろいものはない
どうしてそんなに のろいのか
何をおっしゃるうさぎさん
そんならひとつ 駆けくらべ
向こうのお山のふもとまで どちらが先に駆けつくか
どんなに亀がいそいでも どうせ晩までかかるだろう
ここらで少しひと休み
ぐうぐうぐうぐう ぐうぐうぐう
これはしまった 寝過ごした
ぴょんぴょんぴょんぴょん ぴょんぴょんぴょん
あんまり遅いうさぎさん さっきの自慢はどうしたの?
「……うさぎが迂闊すぎるだろ」
「まあまあ。で、ここからはユーレイさんの母さんの受け売りね」
コツコツさんがうぬぼれ屋の天才に勝つ話。
一般的な「うさぎとかめ」はそうだけれど、ユーレイさんの母さんは最後に一節付け足して、お話をしてくれたのだという。
――これはね、ひとりぼっちの優しいうさぎさんが、優しいかめさんと友達になる歌なのよ。
そう言って寝物語に話してくれたお話は、こんなふうだった。
あるところに、耳の長いのでおばけだといじめられていた獣がいました。
名前はうさぎ。まだちいさなうさぎのこでした。
でも、誰もが長い耳を持つうさぎの姿をからかって、おばけだと近づこうとしません。
いつもひとりぼっちのうさぎのこは、ある日かめにばったり会いました。歩くのも話すのも遅い年寄りのくせに、みんなに慕われているかめをみて、うさぎのこは悔しくなって意地悪を言いました。
するとかめは駆けくらべをしてみよう、案外わたしが勝つかも知れないよとわらって言います。うさぎのこは初めて誰かと遊ぶのが嬉しくなって、駆け出しました。
でも、途中で獣たちにいじめられて、かめも自分をからかっただけだと思ったうさぎのこは、泣きだしてしまいます。そのまま泣きつかれて眠ってしまいました。
目を覚ますと夜になっていました。
うさぎのこは迷ったけれど、置いてけぼりの寂しさはよく知っているので、山までひとっぱしり様子を見に行きました。期待半分、諦め半分で。
するとかめは待っていて、うさぎのこを見てわらいました。うさぎのこは嬉しいのと安心したのでぽろぽろ泣きました。
次はなにして遊ぼうか? とかめが聞いて、それからうさぎとかめは友達になりました。
ときどき喧嘩をして、仲直りをして、ずっと一緒に遊んで楽しく過ごしました。
おしまい、と言ったユーレイさんは「とっても好きなお話なの」と嬉しそうにうけけっとわらった。
最後の一節は、さっきの自慢はどうしたの? にくっつけるの。
次はなにして遊ぼうか、ってさ。
「……あ、寒天使うといいらしい。」
「え? ゼラチンじゃなくて?」
岬はカタカタとパソコンでバケツプリンの作り方の載っているページを見せた。
「ほー……二リットルならいけそう……? 小さめの子供の砂場遊び用のバケツなら自重にそこまで影響されなさそう、か……十キロのバケツプリンかあ、いいなあ……」
夢見る乙女、恋する乙女のようにバケツプリンに魅入るユーレイさんを横目で見て、岬は小さくわらった。
ひとりぼっちのけものと、おおらかないきもの。
どんなに嬉しかっただろうと思えば、確かに「うさぎとかめ」は友達の唄だった。
いい話だって思ったのは、悔しいから黙っておこう。
「……ユーレイさんの母さん、すごいな」
くるっと岬のほうを向いたユーレイさんが、にぱっとわらった。
「でしょう! だってユーレイさんの自慢の母さんだもの!」
うっかり感動したってのも、やっぱり悔しいから黙っておこう。
岬はユーレイさんと並んで、バケツプリンについてのあれこれをノートに書いていった。
机の上に開いたままの岬のノートに、ユーレイさんがふわふわと浮かんだまま、そっと触れるように手を伸ばす。
バケツプリン計画、と四角く囲って分量やらが書かれた下へ、そっと指先を伸ばした。そのページの端っこには、岬の願い事が書かれている。「無病息災」という何とも無難な岬の願い事を指でなぞるように、ユーレイさんがそうっと指先を滑らせる。面倒だとかなんとか言って逃げようとする岬に、ユーレイさんがまとわりついて、ほとんど無理やり書かせたものだ。文字までがぶっきらぼうだからか、ユーレイさんはふっくりと柔らかく微笑んでいる。
風呂上がりに部屋に戻ってきた岬は、気づいていない様子のユーレイさんを見ながら胸中でため息をついた。願い事は? と散々まとわりついてきたユーレイさんを思い出すと、自然と遠い目になるのは仕方のないことだろう。
『さっくーん。ねえねえ、さっくんもバケツプリンにする?』
『俺は別にいいよ。プリンそんな大量にいらない』
『なんと?! じゃあ大金持ち? アイドル? 夢とか、食べたいものとか欲しいものとかないの?』
『あー……あ、シャーペンの芯切れそうだった』
『それ願い事じゃないよ?!』
『ないもんはしょうがないだろ』
『つまんない』
『……』
『さっくんてば。さっくーん。みっきー。さきちゃーん……さっきゅんさっきゅんさっきゅんさっきゅーん』
根負け、というのはああいうことをいうのだと岬は身を持って知った。
暦の上ではそろそろ立秋でも、まだまだ暑い。タオルで濡れた髪ごとがしがし拭いていると、ユーレイさんが岬に気づいて「おかえり」とわらった。
「風呂行っただけなのに、おかえりって言うのな」
「いいでしょ。ほら、ただいまは?」
「はいはいただいま。あー、あっつ……」
棒読みだなあとユーレイさんが頬を膨らませるので、はいはいとかわしながら窓に近づく。網戸のまま眠れるところは田舎のいいところだと岬は思う。クーラーもいいが、さすがに一軒家の全ての部屋にほしいとまでは思わない。網戸にして扇風機をかければ、よほどの熱帯夜でもない限り眠れないということはないのだ。
「まあ、暑さ寒さも彼岸までっていうからね」
あと十日そこらだと思えば、早いなあって思えるでしょ。
ユーレイさんがふよふよと岬の斜め上から外を眺める。
ちらりとズボンから太ももが覗くのにも慣れてしまった。不思議と何もそそられることがなく、目のやり場に困るなあくらいしか思えないのは、ユーレイさんが子供っぽいからだろうか。
岬はゆらゆらと、斜め上で鼻唄を歌うユーレイさんを横目で見る。
クラシカルな、ふわふわの白いブラウスから透ける身体のラインは幽霊でも女の子だ。ズボンに付いたサスペンダーで、ブラウスのふわふわのフリルや大きなリボンに隠れた膨らみも見ればわかってしまう。そんなに豊かではないけれど。真っ平らというわけでもない。剥き出しになった、鱗に覆われた肩も、腕も、脚も、華奢すぎることもなく、どこまでも女の子だ。
クラシカルな服に黒髪のおかっぱ頭で、時代がさらに分からないんだよなと、鱗の光る白い頬や首筋と、時折髪が揺れてあらわになるうなじを思いながら視線を上げていくと目があった。不思議そうな、まあるい黒い目。
「どしたの?」
「え、や、……暑さ寒さもって、年寄りみたいだなって」
「なんと?!」
きいきいと怒るユーレイさんに、誤魔化されてくれてよかったと岬は胸を撫で下ろした。
やっぱり女の子なんだよなあ。子供っぽいけど、と思いながら。
「どうした?」
「んー? 内緒。」
「なんだそれ」
「なーいしょ」
岬が寝ようかと電気の紐に手を伸ばすと、ユーレイさんがまたノートを覗いていた。
見たいのかと思って、閉じずに置いておいたのだ。
「電気、消していいか?」
「いいよー、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
暗闇のなか、時計の秒針の音が響く。
秒針の音しかしないのに、岬は「おやすみ」と言う前のユーレイさんの姿が離れなかった。風呂上がりに岬のノートをなぞっていた横顔も。
なんとなく、なんとなくだけど、泣いてる気がした。
――願いは未来のものだから。
願い事がないのも満ち足りた、幸せなことだけれど、願うことがあるのなら、生きていこうと思っていること。
無いものを数えてばかりになれば本末転倒だけれど、たくさんの願いがあるのなら、それは生きる力になる。
『生き物なんていつ死んじゃってもおかしくないの。だって生きてるんだから。』
ユーレイさんはふわふわと漂いながら、さらりと言った。
突拍子もない、そして岬が答えづらいことをユーレイさんはあっさりと口にする。今日もそんなことを言って、岬に願い事はないかと絡んできたのだ。
『願い事なんてないって言ってるだろ、そんな歳でもないし』
実は、岬が願い事をしたのはユーレイさんに根負けしたからではない。
『えー、いいじゃんか。食べたいものとかさ、何かないの?』
ない、と答えた岬にユーレイさんは腕組みをして唸ると「よし!」と顔を上げた。
『バケツプリン、やめる!』
『は? 何、違う願い事にするの?』
『うんっ! ――さっくんの願い事が見つかりますようにって。』
時間をたっぷりかけて「は?」と呟いた岬は、両手を挙げて降参した。
――分かった。ちゃんと願い事考えるから、ユーレイさんは自分のことちゃんと願いなよ。
ユーレイさんが本当に嬉しそうにわらったのを思い出す。
目を閉じた岬は、らしくないなあとタオルケットに隠れて、少し微笑んだ。




