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ユーレイさんの鱗  作者: 水瀬透
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1 スポンジケーキを侮るなかれ

1 スポンジケーキを侮るなかれ


 スポンジケーキだよ? 焼けるの?

 作れと行った癖に、いざ岬が焼こうとすると心配して、一緒にいると言ったユーレイさんを振り切ってボウルをかき混ぜる。

 たまごをふたつ。

 小麦粉。

 砂糖。

 溶かしバター。

 まったく知りもしなかったケーキの材料とやらは、意外とどこの家庭にもあるもので少し拍子抜けした。さいわいケーキの型も家にあったので、まあどうにかなるかと岬は作り方を書いたメモを見た。


 1 ボウルにたまごを割りほぐし、砂糖を加えて泡立てて、白っぽくなるまで混ぜる。

 2 白っぽくなって、筋が残るくらいになったらふるった小麦粉を加えて、さっくり混ぜる。

 3 溶かしバターを少しずつ加えて、下に残らないようによく馴染ませる。

 4 型に流し入れて焼き上げる。


「ったく。でもこれで済めば、まあ安いもんか」

 えーと次は粉だっけ、と作り方を見て首を傾げる。

「……さっくり混ぜるってなんだ?」

 まあ、どうにかなるだろうと、どさっと加えて混ぜる。

 何がどうして、中学二年の岬少年が夏休みにスポンジケーキを焼くことになったのか。

 岬が自分で作ってしまうほど甘いものを愛しているなんてことはない。甘いものは嫌いではないが、特に好んでいるわけでもない。そもそも岬は特別なんてひとつも持っていない。

 いつも淡々と、要領よく立ち回り、感情を大きく揺らすこともなく日々をこなす。

 省エネ。

 岬を表す言葉で、岬のルールで、最も適当なものだ。

 可もなく不可もなく、どんでん返しもでこぼこも、大恋愛も親友との語らいもない。何も起こらない日々を送ることが岬にとっての最善だった。

 熱くなることも、何かを欲しがることも、泣くことも、腹を抱えてわらうこともない。

 夏休みはそんな岬にとって、他人と会うことを避けられる、いっときの休息だった。――はずなのに。

「焼けた? ケーキ焼けたっ?」

 オーブンが焼き上がりのアラームを告げると同時に、ユーレイさんが現れた。

「……さあね。」

 もうため息を隠そうともしないで岬がオーブンを開ける。

 こんなことになっているのは何をどう振り返っても、岬の部屋に突然現れた「ユーレイさん」のためだった。

「うけけっ。楽しみだなあ」

 鈴が転がるような独特のわらい方は、はじめから変わらない。

 突然岬の部屋に現れた、七月十八日の終業式の夜。夏休みの始まった、二日前の夜から。


 ★


「うらめしやっほー!」

「?!」

 挨拶と呼ぶには突飛すぎる、やたらと明るい声に岬は何事かと部屋を見回した。

 振り向いて、さらに驚いた。声も出ないほど驚きながらも、岬の脳内には混乱する自分と、どこか冷静に面倒なことになったとため息をつく二人の自分がいた。

 開けたままの網戸の窓からは、夏にしてはよく風の入る夜だった。

 岬の部屋の天井付近に、やたらとクラシカルなふりふりとした服装の少女がふあふあと浮かんでいる。

 大きなリボンのついた、ノースリーブの袖口や首や胸元にフリルのたっぷり付けられた白いブラウスに、ぎりぎり膝が覗くくらいのサスペンダー付きの黒いズボン。今風ではないものの、古めかしいとも一概には言えない、けれど岬の見たことのない格好だった。歳は岬と同じくらいといったところだろうか。黒い肩までの髪に白い花の髪飾りを付けて、黒目がちなまるい目が驚いたように岬を見ている。

 半透明の、人間らしきその少女は「あれ?」と不思議そうに首をかしげて、自分の身体や岬と部屋を見た。ううん、と唸って「うけけっ」と楽しそうにわらって、納得したように頷いた。

 人間らしき、と言ったのは岬の気が動転していたからではない。

「あたし、ユーレイさん!」

 ぶいっとピースサインを岬に向けてくる少女の左の頬には、鱗があった。


 白い、花びらのような鱗。


 左頬から首筋、ノースリーブから覗く左肩から肘にかけて。右の二の腕から手の甲まで。

 右の膝上から足首にかけてと、左の脛から爪先まで。

「あれ? 聞こえてる? やっほー?」

 白い鱗を持つ幽霊は、やたらと気さくでハイテンションだった。

「ねえ、きみ聞いてる? ユーレイさんですよって。きみは?」

「……。」

 ぶいぶーいとピースサインを作った両手の指先をぴこぴこと動かしているテンションの高さ。

 半透明の姿。

 ふわふわ浮いている。

 鱗のある、幽霊らしき少女。スリーアウトどころではない。

 ――ああ、これは本当に面倒なことになった。

「……岬。それより、今日は寝てもいいですか?」

 岬は英気を養うことを優先した。

 ユーレイさんもあっさり頷く。

「あ、どうぞどうぞ。ユーレイさんもそこら辺で寝てもいい?」

「え、ここで寝るの?」

「ここしかないもん。適当に浮いてるからお気になさらず」

「……はあ。」

「じゃあ、おやすみー」

「……」

「お、や、す、みー?」

「……オヤスミナサイ。」

 面倒なことになったな、とベッドの足元の上、天井付近で膝を抱えて丸くなる姿をちらりと見て目を閉じる。

 岬は案外冷静に、うけけっとわらう、ユーレイさんと名乗る彼女と出会った。


「ミサキくんかあ、綺麗な名前だね」

「……別に」

 朝の挨拶をして、夢じゃなかったと岬が内心ため息をついて、身支度を整えて、朝ごはんを食べて、家族が出払ってしまうと、岬と話したくてうずうずしていたらしいユーレイさんに捕まった。

 一通り、とは言っても聞かれるままに名前を名乗った岬はどうしたものかと何度目かわからないため息を心の中でついた。

 女みたいだとからかわれることにはすっかり慣れていたが、褒められるとどうにも調子が狂った。

「あたしの名前はねえ……。……ユーレイさんで!」

「……」

 思い出せないならどうして言いかけたんだろう、と岬が適当に頷いていると、何やら考え出したようでぶつぶつとつぶやく声が聞こえてきた。

「岬くんかあ。なら、そうだなあ……さっくんかー、みっきー……さきちゃ」

「ストップ。やめて」

 普通に呼び捨てで呼んでくれと言うと「つまんない」と子供のように拗ねてふよふよと漂う。

「わざわざ考えなくていいから」

「だって普通に呼び捨てだったら、だれでも呼べるでしょ? つまんないよ」

「……子供?」

「なんと?! 十六歳だよ! 高校二年生!」

「……は?」

「何さ、は? って。きみは?」

「……十四。中二」

「じゃあユーレイさんがお姉さんだね」

 敬っていいんだよ? とすっかりご機嫌になって岬にまとわりつくので、「あーもううるさい」と払いのけようとすると、岬の手がするりとユーレイさんの身体をすり抜けた。

「あ……」

「っと、びっくりしたー」

 気にした風もなくわらうので、悪いことをしたと思った岬は口を閉じた。

 すり抜けた右手は、本当に何の感触も、温度すらなかった。

「そういえば、夏休み? 宿題は?」

「? 宿題って、夏休みの前に終わらせるもんだろ」

「……祟っていい?」

「やめてクダサイ」

 秀才なの? うわあ、やだやだとユーレイさんがふわりと頭を抱えて漂う。

 知らないよと相槌を返して、さてどうやって帰ってもらおうかと岬は考え始めた。

 突然岬の部屋に現れた理由はとりあえず脇に置いて、ユーレイさんが幽霊ならば、ゴールは成仏でいいのだろう。幽体離脱とか、生霊の類ではないとユーレイさん自身が言うのだから。

 帰る場所である身体は、もうユーレイさんにはない。

 けれど、本来の場所から外れてしまったのなら、帰るという言い方でもいいだろう。

 幽霊が帰れない理由があるとしたら、何だろうか。


 わからないのは名前とここに現れた理由で、わかっているのは年齢と家族についてだった。

「なんとなく、だけど夏休みって言えば片っぽの弟がきみと同じようなこと言ってたなあと。もう片っぽの弟はてんで宿題なんてやろうとしなくて……さぼってたとかじゃなくて、こう、人にやらせようとするの。父さんは自分で思い知ればいいさとか言うから、見兼ねて母さんがたしなめると言うこと聞くの。母さんに弱いのよ、あのこ。」

「家族の名前も思い出せない?」

「んー……そうみたい。」

 そして、とりあえず時代を特定しようと岬のスマートフォンを見せたりしたのだが、

「けーたい?」

「そう、スマホ。スマートフォン。携帯電話が電話にメール機能が付いたのなら、これはパソコンに電話やメール機能が付いたってトコ」

「んー……あ、これパソコンでしょ? ちっちゃいね」

「……これ電卓」

「え? あ、あれ?」

 そんな風で、かえって訳がわからなくなった。そもそもいつから幽霊なのかによっては、ふらふらしているうちにパソコンや携帯電話も知っていてもおかしくはない。それに分かったところでどうにかなるわけでもないと早々に切り上げた。

 とすると、帰れない理由ではなく、帰りたくない理由を探すべきだろうか。

 岬はふよふよと浮かんでいるユーレイさんに問いかけた。

「何か、未練があったとか?」

「未練?」

「あー……したかったこととか、願い事とか。そういうので、叶わなかったもの」

 んー、と腕を組んでふよふよと漂うユーレイさんは、真面目な顔をして考え込んだ。

 自分の名前も思い出せないくらいだから、思い出せなくても仕方ないかと岬が声を掛けようとしたとき、小さな声がこぼれ落ちた。

「……き、」

「あ?」

「……たんじょうび、ケーキ」

 唇に指を添えて、ユーレイさん自身も確かめるように何度か頷いた。

「そう、そうだ……誕生日ケーキ……」

「誕生日の、バースデーケーキ?」

 首を傾げる岬に、ユーレイさんはにこぉっとわらって言った。

「うんっ。誕生日ケーキが食べたい!」

「……はあ。何がいい?」

 早速買ってくるかと腰を上げた岬を、ユーレイさんがきょとんとした顔で引き止める。

「手作りでしょ。誕生日ケーキっていったら。」

「……は? ムリ。」

「作って。さっくん」

「ええー……」

 既製品買ってこられても成仏しないと思うなあ、といたずらっぽくにやにやと横目で見られては、岬も頷くしかなかった。

 生クリームのデコレーションケーキ食べたい。

 チョコの名前書いたプレートが乗ったやつ。

「もっちろんロウソクもだよ! 十七本!」

 指折り数えては「うけけっ」とご機嫌にわらうユーレイさんに、岬はため息をついた。

「俺ケーキなんか焼けないんだけど。」

「だーいじょうぶ! ユーレイさんが教えるから!」

「……それ以前にあんた食べられるの?」

「あんたじゃないでしょ?」

「……ユーレイさんはケーキを食べられるんデスカ。」

「それでよし。まあ、微妙なのだけれどね!」

「それ、作り意味あるの?」

 そんなやり取りをしながらも、さっさと未練を片付けてお引き取り願おうと思ったのだった。

 いつもの無機質な、淡々とした日常に戻るべく。


 ★


「……えっと、」

「……」

 そして現在、岬はユーレイさんが食べられないといいなと久しぶりに期待というものを抱いていた。

 オーブンから取り出した「それ」に、出会ってからいつも楽しそうだったユーレイさんが固まった。岬は岬で、困ったことになったと思っていた。ユーレイさんが言葉を選ぶように口を開いた。

「……薄い、ね」

「……」

 ケーキというよりも、ひらべったい何かが型の中でちんまりと納まっていた。

 色だけはなぜか美味しそうな濃いキツネ色であるのが、さらに物悲しい。

「……膨らまなかったね」

「……」

「スポンジケーキが上手に焼けたらだいたいのお菓子は出来るって、母さんが言ってたっけか」

 難しいんだよね、と言ってから、ユーレイさんはちらりと岬を横目で見た。

「ちなみにさ、さっくん。材料は計った?」

「は?」

「目分量でやったんじゃないかなあって。計った?」

「……」

 図星を突かれて黙り込む。

 計りはした、が、目分量でいくらか多かったり少なかったりしても適当に加えた自覚はあった。

 手順もだいぶんざっくりと端折るまではいかなくても、適当だったことも。

「だーから作ったことないなら一緒にいるって言ったのに」

 ユーレイさんは「うけけっ」と楽しそうにわらった。

「とにかく、これ、食べちゃおっか。――で、誕生日ケーキが焼けるまで、ユーレイさんのこと、ここに置いてね?」

 うげ、と思いつつも拒否することはできなかった。

 適当にやって厄介払いしようとしたよね? とにこにこと言われては何も返す言葉はなかった。

 ――ああもう、本当に面倒なことになった。


「そうそう。ほかほかのうちって何でも美味しいんだけどね」

「……ん」

「? 美味しくない? しょっぱいののほうがいい?」

「これでいい。うまいし」

 岬はユーレイさんのアドバイスのもと、膨らまなかったスポンジケーキを手でちぎって、朝食用のジャムをつけて食べていた。これが意外と、失敗したのにそのままでも意外と美味しいのだ。

 そして試してみたが、やっぱりユーレイさんは岬の作ったものでも触れることはできなかった。

「これさ、作る意味あるの?」

「作ってくれたってことに意味があるんだよ!」

「……あっそ」

「あ、ちなみにユーレイさんは生クリームは白いの派だからよろしくね」

 向かい側の椅子に腰掛けているユーレイさんがにこにこと岬が食べている様子を見ている。

 うまく逃げられないかと思ったが、そう言われてしまって、かえって引くに引けなくなった。

 ふと、違和感に気づいた岬は口の中のスポンジを飲み込んで聞いた。

「椅子、座れるの?」

 ユーレイさんは「うけけっ」とわらった。

「きみがケーキ焼いてくれてる間に試してみたんだ。床だって歩けるよ」

 ふわりと舞うように床に降りたユーレイさんは、すとんと足をつけて歩いてみせた。

「ほらね?」

「すごいじゃん……でもいちいち飛ばなくても」

「だって、ユーレイさんは椅子を引けないもの」

 あ、と岬が口をつぐむも、ユーレイさんはお構いなしと言ったふうに「うけけっ」とわらった。

「これ、どうやってると思う?」

「さあ……感覚、あるの?」

「ないよ」

 あっさりと答えて、ユーレイさんは床の上でくるりと回ってみせた。

「記憶、って言ったらいいかな。こうやって歩いてたなあって、床ぎりぎりのところで浮いてるの。少し気を抜くと……ほら、こうなる」

「あ。」

 ユーレイさんの、片方鱗に覆われた素足がずぶりと床に沈む。

 ふわん、とブラウスのリボンが揺れて、余裕のあるズボンの裾から、腿の鱗がちらりと覗く。

「けっこう、これ疲れるみたい。浮いてたほうが楽。」

「あ、そ。」

 目のやり場に困るなあ、と岬はスポンジケーキをつまんだ。

 そのままでもいけるなと思いながら食べていたら半分ほど消えていて自分で驚いた。

 もう半分は朝食か、明日にとっておこうかと考えていると、ユーレイさんがにこーっとわらって岬の正面にふわりと浮かんだ。あぐらをかいて膝に肘をついて、話す気満々だと言った体で、鼻歌なんか唄いながらにこにことわらっている。

 嫌な予感がする。

 要領よく面倒事を避けて、失敗もほとんどしたことのない岬だったが、この二日間で既にイレギュラーだらけだ。

「さーて、さっくんは料理の腕前はどんな感じなのかな?」

「は?」

「お菓子作りに慣れてないのはわかった。けど、普段ご飯作ったりするのかとか、料理に慣れてるのかで、方針が変わってくるからさ」

「……はあ。」


「ふうん、そりゃまた随分と恵まれてるのね?」

「は?」

「あら、無自覚?」

 岬の料理の腕前は、イコール岬の生活の様子の話になって、家族構成からどうしてか学校での過ごし方まで、聞かれるままに答えていくと、ユーレイさんは少し目を丸くした。

「両親健在で、健康な兄が一人。ユーレイさんと同じ高校二年生のお兄さんは部活で忙しいし、お父さんは仕事でいないけど、朝ごはんは家族全員で食べるのが決まりごと。で、お母さんがパート以外では家にいるから家事はお母さんが全部やってくれると。そりゃ料理は初心者もいいとこね。食べ物の好き嫌いがないのがいいところかな――おまけに学校ではいじめられることもなく、と。」

「でも、そんなん、けっこう当たり前だろ?」

「――当たり前?」

 ぴきっとユーレイさんの笑顔に亀裂が入った気がした。

 どうやら「うけけっ」と、あの独特な鈴を転がすようなわらい声のないときは、ほんとうにわらっていないときらしい。

「当たり前? んなもんあるわけないでしょうが」

 どころか、岬の見立てではたぶん、本当にわらっていないなんて愛想わらいみたいなものではなく、怒っているときではないかと思われる。伊達に岬も十四年間トラブルを避けて生きてきたわけではない。

「当たり前は、当たって砕ける前のこと。ユーレイさんに言わせりゃ、当たる前。それも寸前のことをいうのよ。」

 ユーレイさんの目が鋭く岬を見て、わらった。

「いい? きみみたいに恵まれてる人間だらけじゃないのよ。その価値観だけで、独りよがりなものさしで、周りを見ないことね。世界にきみと同じ価値観の人間は存在しないわ。何気ない一言で傷つくし、きみを傷つけることが、溢れかえってる。その反対もね。家族だって、同じ価値観ではないもの。嫌うどころか憎み合う家族だって珍しくないのに、朝ごはんを一緒に食べるなんて、さ。いいなあって、ユーレイさんは思うよ?」

 さーてと。お説教みたいになっちゃった。ごめんね?

 くるりと鋭かったのが嘘のように、ユーレイさんはゆるくわらってみせた。

「いいなあ。……うん、家族っていいものだものね」

「……なに自己完結してんだよ」

 岬がユーレイさんを睨みつけて吐き捨てるように言う。

「俺のこと知りもしないくせに……だいたいいきなり人の日常に割り込んできて、ぐっちゃぐちゃに引っ掻き回してペース崩して、ケーキ作れだの居座るだの、いいかげんにしろよ?! 挙句説教してきて、何がしたいんだよ! もっと見込みのあるやつのところに行けばいいだろ。ちゃんと家族をありがたがって、料理もできて、誰のことも恨んだりしない、そんなやつのところに行けばいいだろ。出てけよ!」

 おや、ときょとんとしたユーレイさんは岬の言葉をただ聞いている。

 言い返さないその態度に、岬の苛立ちはさらに増した。

「恵まれてるって? じゃあなんで俺はこんなんなんだよ! あんたがどんなに偉いのか、どんなにいい子だったのかなんて知らねーし知りたくもねえよ! 俺が恵まれてるからってなんなんだよ! ガキだなんて、価値観がどうだなんて、恵まれてたら何だよ? 恵まれてる奴には何したっていいっていうのかよ。――あんたは死んでるからって何してもいいのかよ?! あんたのせいでコントロールもうまくできねえし調子は狂うし、ふざけんな! 死んでるから可哀想だから? だから何しても、何言っても許されるってのかよ!!」

 ――言い過ぎた。

 冷静な岬が思っても、苛立ちは自己嫌悪を餌に大きく膨らんで、頭がぼうっとして止められない。

「死んでるくせに、偉そうなこと言って、」

 こんなに大声出したのなんか、いつぶりだろう。

「お前なんか、大嫌いだ」

 心臓がどくどくとうるさいのも、肩で息をするのも、完全に間違ったと思うことをするのも、自分の感情のコントロールが効かないのも、ペースを乱されるのも、――そんな誰かがそばにいるのも。

「きらいだ。お前なんか、死んでる幽霊のくせに出しゃばってくんな!」

 岬の声が途切れると、静けさが耳に痛いほどだった。

 蝉がうるさいくらいに鳴いている。

 途中から、ユーレイさんの顔を見ることが出来なかった。


「うけけっ」


 わらい声に岬が耳を疑って顔を上げると、ユーレイさんは楽しげにわらっていた。

 あまりに苛立って声を荒らげた、血が上っている頭でもひどいことを言ったと自覚するような言葉を投げつけた岬を見て、あの、ひとを小馬鹿にしたような、それでも優しい、いたずらっ子の目でわらっていた。

「うけけっ。ねえねえ、なあんか、楽しそうだね?」

 これから岬は嫌というほど知ることになるのだが、岬が落ち込んでいればいるほど、感情をあらわにすればするほど、ユーレイさんは楽しそうにわらうのだ。見下すでも、嘲るでもない、純粋な好奇心に満ちた目で。

「ユーレイさんとしちゃあさ、きみになにがあったかなんてどうでもいいことなのよ。きみがいま、どんな気持ちなのか。それだけが聞きたいのよ」

 ぞっとした。

 きっと、それが生きているものと死んでいるものとの違いだと岬は思った。――思い知った。

「そう。それは、苛立ちと、悲しみかな? ユーレイさんが失ってしまったもの。かけがえのない、不可視の傷。」

 不可視の傷、とユーレイさんは繰り返してちいさくわらった。

「ほとんど不可視のユーレイさんがほしがるものが、不可視だなんておかしな話。」

 でも、寒いのよ。

 腕や脚、頬から首筋に鱗を持つユーレイさんはぷかぷかと浮かんで揺れながら、目を伏せた。


「ねえ、生き物くん。そんなに要らないならさ、ユーレイさんに頂戴よ。心も――命も。」


 そう言ったユーレイさんはわらっていたけれど、おいてけぼりの子供のようだった。

 静かな目は、どこまでも凪いでいる。

「健やかなるも、病めるも、喜びも、悲しみも、愛も、慰めも、敬いも、助けも――涙も怒りも痛みも。ねえ、生き物だけの特権なのよ?」

 どこかで聞いた誓いのような言葉をなぞり、ユーレイさんはにっと口の端を上げた。

「しかし、きみってほんとうは感情のコントロールなんてしてないんじゃない?」

「は?」

「傷つかないように傷つかないようにって生きてる。生き物の癖になあにそれ。傷も痛みもがっつり味わいもしないで悟ったような顔してさ。見ててむかっ腹が立つわ」

「あ?」

「それって感情の節約だよ。コントロールなんかじゃない。けちってるだけ。お金は貯めておいてもいいと思うけど、感情なんて貯めておいても将来使えないよ? 感情も、心も、切り詰めて貯めるものじゃないんだよ、ばーか。」


 ――でも、言い過ぎた。ごめんね。


 言葉を失ったままの岬に、ユーレイさんはちいさく苦笑した。

「幽霊になんかなったことないからさ、びっくりしてた。ほんと、なんであたしが幽霊になってるのかな。わけわかんない……なのに、知らない人間どころか知らない幽霊がいきなり部屋に居着いたっていうのにきみは動じやしないし。確かに誕生日ケーキ食べたかったけど、すぐ作ろうとするし。でも、たっくさん、ユーレイさんがなくしたもの持ってるのに気づいてもいないし、なんか混乱してたのと一緒に腹が立ってきちゃって。ちょっと八つ当たりした。ごめん」

 バツが悪そうにべ、と舌を出したユーレイさんは鱗に包まれた右手を差し出した。

「ほんとは、床を歩くのと一緒に確かめたことがあるの。ユーレイさん、この家から少ししか離れられないみたい。だから、行くあてないんだ。姿も消せるのかもしれないけど、やり方わかんないし、……そもそも何も覚えてないしさ。」

 だから、とユーレイさんが微笑む。

 これはお願いだから、断るならそれでもいいよと。

「嫌いな奴に、手を差し伸べる。そうそうできない偉大なこと。何かの苦行だと思って、ユーレイさんのこと、ここに置いてくれないかな?」

 手を取る、そこから始めてみてよ、ね?

 心底面倒な、厄介なことになったと岬は思う。

 逃れられるならいまからでも放り投げて知らない顔をしていたいと。

 それでも、狂った調子はそうそう戻らないようで――感触どころか温度もない、掴めない手に手を合わせた。

 さすがに顔は見れなくて、それでも、どんな顔をしているのか岬には分かった。

「……悪かった。さっき、ごめん」

「いーいよ、許したげる」

 ユーレイさんもやり過ぎたから、と岬にゆるくわらってみせた。

「喧嘩って、仲直りまでが喧嘩なの。どうでもよければ、ほんとの喧嘩なんかできないものよ。」

「ほんとの喧嘩?」

「言いたいこと言ってそのままなら、そこで関係が終わってしまうでしょ? 言いたいこと言って、言い返されて、また言い返して、怒って。それから、謝るか、謝ってきた相手のことを許す。まあ、自然に元に戻ることもあるだろうけれど、そんな関係もあるのだけれど、ユーレイさんはごめんねって謝るのがおすすめかな」

「わざわざ口に出して?」

「わざわざ口に出して。自分が思っているより、ちゃんと言わなくちゃ周りは分かんないものよ」

 ふうん、と岬は相槌を打ってため息をついた。

「どしたの?」

「いや……そもそも選択肢、始めっからないなって」

 成仏するまで置いとくしかないじゃん。

 岬が呟くと、ふわりと視界の端っこで半透明の白が揺れる。

「ありがとうっ!」

 ユーレイさんは「うけけっ」と顔いっぱいの笑顔でわらった。――どうやらほんとうに嬉しくても独特のわらい方は変わらないようだ。忙しいやつ、と岬は思った。

「うん、仕方がないから許してあげよう。」

「コラ何様だ」

「うけけっ」

 なんだかんだで、奇妙な同居生活が「ちゃんと」始まったのは、夏休みが始まって一週間ほどのことだった。


 ★


「あー……溶かしバター使うやつか。違うののがいいかも」

「え。そんな種類あるの?」

「あるよー。バター使うのはうまく混ざらないで下に沈みやすいんだ。そうすると膨らみが悪くなるの。まあバター使うか使わないかは本によるし、健康志向のノンオイル・ノンバターのお菓子の本も含めたらレシピは数え切れないけど……分けるなら主に二種類かな。卵を分けるか分けないか。たまごの使い方だね。たまごを卵黄と卵白とで分けるのが別立てのビスキュイ。きめが細かくて失敗しづらいとは言われているけれど、メレンゲ立てるのが一番の難所かな。分けないのが共立てのジェノワーズ。手間はこっちのがかからないかな。生地が粗くなるとはいっても、おうちで食べるぶんには気にならないし……え?」

 岬がまじまじとユーレイさんの顔を見ていたので驚いたらしい。正直岬の方が驚いていたのだが。

「なんでそんなに詳しいわけ?」

「んーとね、うちの母さんがお菓子作るの上手で、たくさん本があったの。小さい頃からそればっかり読んでたんだ。絵本もお菓子とか食べ物屋さんのばっかり。でも、作り方の本が一番好きだったなあ」

 母さんのお菓子が大好きだったの、もちろんご飯もだよ! と好物を指折り数えて並べていくユーレイさん。

「きなこクッキー、新聞紙の型で焼くカステラでしょ、ブリンも美味しいんだよねえ。切り餅で大福とか、わらび餅も作ってくれて美味しくって……ご飯はトマトシチューに麻婆茄子にかぼちゃグラタンに南蛮漬け……あ、餃子!」

「へえ。あんたも腕前は相当だったんだろうね?」

「ん? え。ああ、うんそりゃあそうでしょうよ!」

「……喰い専門だった、と。」

「……習わぬ小僧がなんとやらでっ! 大丈夫、ほんとに知ってるし一緒に作ったりもしたんだってば!」

「門前の小僧習わぬ経を読む、ね。――まあ、どの道作るの俺だしいいけど。」

「ほんとだよ? ほんとだってば!」

「はいはい」

 ということで、ユーレイさんがレシピを書き換えて追加した。

 ハンドミキサーの場所がわからないと岬が言うので生地は共立てのままでこうなった。


 下準備

 たまごは冷蔵庫から出しておく(メレンゲを作るときは卵白を冷やしておくと作りやすい)。

 計量は先に済ませて、粉類は二回ほどふるっておく(ダマになりにくくなり、ふんわり仕上がる)。

 ボウル、泡立て器に油分や水気がついていたら拭き取る。


 1 ボウルにたまごを割りほぐし、砂糖を加えて泡立てて、白っぽくなるまで混ぜる。

 2 白っぽくなって、筋が残るくらいになったらふるった小麦粉を加えて、さっくり混ぜる。

 3 型に流し入れて焼き上げる。


「さっくり混ぜるってのは、練るなってこと。泡立てたのに泡が消えちゃうから。んーとね、酢飯混ぜるときに切るように混ぜるっての、見たことない? あれあれ、あんな感じ。溶かしバターは重たくて下に沈みやすいの。上手に混ぜないと膨らまない原因になるのよ。粉類混ぜるときと一緒ね。お菓子作りって科学実験みたいなものなのよ。器具の水気を拭き取るのも、ボウルが少しでも濡れていたらメレンゲが立たないからなのよ」

「……詳しいのな、ほんとに」

「やだ、もっと褒めていいんだよ?」

「ワー、スゴイデスネー」

「棒読み?!」

 なんで素直に褒めてくれないのさー! と頬を膨らませてくるくると浮かぶユーレイさんに、岬はなんだかわらえてしまって。するとユーレイさんがきょとんとして、優しい目で「うけけっ」とわらった。

「なあんだ、ちゃんとわらえるのね」

「……何」

「そっちのほうがいいよ、自称省エネ少年くん」

「やめて。その呼び方はやめて」

 うけけっと楽しそうにわらって、ユーレイさんはふうわりとほとんど定位置である天井付近であぐらをかいた。

「さあて、スポンジケーキまでに簡単なのから練習してみよっか」

「……」

「こーら、嫌そうな顔しないのー」

「……はあ」

「あ、ため息つくと仕合わせが時速五千六百キロで逃げるんだよ?」

「速いな?!」

 ――面倒なことにはなった。厄介なことにも。

 けれど、誰かとこんなに話したことは久しぶりで、狂った調子が日常になりつつあって。是非とも回避したいはずなのに、まあしばらくならいいかと思っている岬がいた。

 そんな自分に一番驚いているのは、岬自身だった。


 ★


 静かだった部屋に、どーん、と音が響く。

 ふよふよと漂って欠伸をしていたユーレイさんが「何の音?」と聞く。

 ああ、と岬はカレンダーを見て窓を指さした。

「今日、祭りがあるんだよ。うちの窓から花火が見える」

「ええ?! すごいじゃん!」

 そう、岬の部屋の窓に飛びついたユーレイさんが「んん?」と首を傾げる。

「なんか、ちょっとしか見えない」

「見えるのは隣の兄さんの部屋。俺の部屋からだと看板で隠れるんだよ」

「えー……」

「……」

「……」

「……」

「……見たい。」

 言うと思った、とため息を隠さずに岬は適当に言いくるめようとしたが、ふと数年前のことを思い出して開きかけた口を閉じて、時計を見た。

「……わかった。ちょっとだからな」

「いいの?」

「今日は部活で遅くなるって言ってたし、少しならばれないはず」

「ばれたらだめなの?」

「そりゃ、勝手に部屋入るのはだめだろ」

 言いながら、兄さんの部屋のドアをそっと開く。欠けていない花火が、窓から部屋を照らしていた。

 わあっと嬉しそうな歓声を上げて窓にかじりつくユーレイさんの後ろ姿を眺める岬は、なんだか見たことのある光景だなと、すらすらと誤魔化しを口にした自分に少し呆れていた。

 部屋に入るな、なんて言われたことがないくせに。

 ばれたら何か話さなければいけない。それが嫌だっただけのくせに。

「ねー、キレイだよ! すごいね」 

 振り向いたユーレイさんが手招きしてわらう。

 岬は部屋の入り口にもたれたまま、別にいいと肩をすくめる。

「……別にそうでもない。指の先くらいにしか見えないし」 

「でもすごいよ? わ、ほらまた! キレイだなあ」

「あっそ」

「見ないの?」

「毎年一緒だし」

「一緒に見ようよ、キレイだよ」

「……わかったよ」

 渋々頷いて、ユーレイさんの隣に並ぶと、しばらく二人で花火を眺めていた。

 赤、青、緑、黄色、光を残して消えていくもの。

 色とりどりの小さな花火が集まったもの。

 歪な顔の花火なんて変わり種もあった。

 ユーレイさんはひとつひとつにはしゃいで「見た? いまの見た?!」と岬が返事をするまで聞いてくるので「見た見た」とまるで気のない相づちを打ちながら、それでも隣で見ていた。

 反対側から、不意にどーんと音がして、ユーレイさんがきょろきょろと辺りを見回す。

 ああ、と岬は思い出す。そういえばそうだった、と。

「向かい側でも花火大会やってんだよ」

「え、見たい!」

 ふよふよと反対側の窓を覗いて首を傾げる。反対側の花火は、うまいこと木の影に隠れて、ほんの少しの光しか見えないのだ。

 窓の上ぎりぎりのところからなんとか花火を見ようとするユーレイさんに、岬は思わず吹き出した。

「ユーレイさんは外いけるんだから、外に行って見てくればいいだろ」

 木の上にだって浮いていられるんだから。

「それじゃあ楽しくないよ」

 ユーレイさんが頬を膨らませた。

「ひとりじゃつまんないもん」

 一緒に見ようよ、とまた裏の花火に戻る。

 ――ほら、岬。いまの見えたか?

 ――見た! 見えた!

 小学生の頃、いまのユーレイさんのように窓にかじりついて花火を見ていたのは岬だった。

 花火が始まると兄の部屋に飛び込んで、冷たいジュースを持って窓辺に並んで、当時中学生だった兄は鬱陶しがることもなく、岬の相手をしてくれた。

 屈託なくわらう兄を素直に慕っていたのは小学校まで。それも終わりのほうはすでに避け始めていた。 

 そんな考えごとをしていた岬は、だからほんとうに驚いた。

「あれ、岬?」

 振り返ると、少しくたびれたスポーツバッグを下げた岬の兄、あさひが立っていた。

「……兄さん」

「ただいま。ああ、今日花火だっけ。まだやってる?」

「あ、うん。まだやってる」

 そそくさと部屋を出ようとする岬に「見てけば?」と声がかかるが、岬は「ううん、いい」といってろくに目も合わせないまま部屋を出た。

「いまの、お兄さん?」

「そうだけど」

「一緒に見ないの?」

「うん」

「おかえりって、言わないの?」

「うん」

 いつにも増して素っ気ない岬に、ユーレイさんはそれ以上何も聞いてこなかった。ただ、ぽつりと一言だけ、

「……もったいないね、ちゃんと話せるのに」

 そう言った。


 岬の部屋の窓から、ユーレイさんは欠けた花火に見入っている。

 ――もったいないね。

 そう言った割に、何か聞いてきたりもしないで、花火にきゃあきゃあとはしゃいでいる。

 放っておけばいい。このまま、何気ないふうを装って。

 どの道こんなイレギュラーなんて長くは続かないのだから。

 そう思うのに、どうしてか岬は声をかけていた。

「……このあと、反対側の花火、見に行く?」

 家から少し歩いたところからは、上手い具合に花火が見られるのだ。ユーレイさんの行動範囲の境界線である、曲がり角の少し手前。そこは、岬がよく兄と花火を見に行っていた場所だった。

 ユーレイさんはぱああっと目を輝かせた。

「うんっ!」


 夏の夜、独特の藍色の空の下を歩きながら、花火の音に紛れて岬はため息をひとつ。

 少し前を鼻歌交じりにふよふよと浮かぶユーレイさんが「どうかした?」と聞く。

 どうしたもなにも、と岬は肩をすくめる。あんまりユーレイさんがはしゃぐから、どっちが歳上なんだかこれじゃあわからない。そう呟いた。

「年齢なんてそんなものよ。キミも十六になったら分かるわ」

「あんなにお姉さんぶっといて?」

 きょとんとしたのも一瞬のこと。ユーレイさんは、嬉しそうに、楽しそうに「うけけっ」とわらった。

 振り向いて、岬の胸をトンと叩く。


「きみに憧れてるひとってのは、わんさといるものよ」


 花火の音が、どーんと響く。

 ユーレイさんが触れている感触はほとんどわからない。いきなり何かと思ったけれど、岬が怒鳴り散らした話と繋がっている、続きだということに気がついた。

 ――俺が恵まれてるからってなんなんだよ!

 ――恵まれてたら何だよ? 恵まれてる奴には何したっていいっていうのかよ?!

「俺に?」

「そ。どんなに不運でも、貧しくても、なんならひっどいいじめられっ子でも、誰かが誰かを羨んでる。――でも、それってとてももったいないことだとは思わない? 必ず誰かが羨んでる自分をほっぽって、他の誰かになりたがるなんてさ」

 きみがどんなに素敵なのかは、きみは五パーセントも満足に知らないのかもしれないね、とユーレイさんがいたずらっぽく微笑む。

 きっと、わかんないようにできてるんだよ。そう、岬にわらいかける。

「なんで?」

「あら。だって、そしたら誰かと一緒にいられるでしょ?」

「……別にいいよ」

「もったいないなあ、そーんなに優しいのに」

「優しくなんかない」

「はいはい。――そうね、一言の勇気がきみにはあるって、ユーレイさんが教えてあげよう」

「は?」

 露骨に顔をしかめる岬に吹き出して、もう一度ユーレイさんが胸を叩く。


「胸を張れ、少年」


 省エネだかなんだか知らないけど、食わず嫌いならそのうちお腹が空いて、食べずにはいられなくなるものよ。

 どーん、とひときわ大きな音にぴょんと跳ねたユーレイさんが「いまの聞こえた? ほら、早く早くっ」なんてはしゃいで、踊るようにふわりと身を翻して岬を急かす。

「……花火は逃げねーよ」

 岬は気持ち歩みを速めて、ユーレイさんの少し後ろを歩いていく。

 わあ、ときらっきらの笑顔のユーレイさんが花火を見つめている。岬が隣に来たのに気が付くと、小さくわらって呟いた。

「きみは優しいね、ほーんと。」

「……あっそ。」

「あら、ほんとだよ?」

 遠いけれど、大きな花火。

 藍色の空を渡る夜風。

 夏の匂い。

 どこかで聞いたなとよく聞いてみれば、鼻歌は「うさぎとかめ」だった。

 見上げた真上の空の星に、ユーレイさんが声を上げた。

 忙しいなあ、と岬は苦笑いした。

「夏の空って、こんなにキレイなんだね」

「この辺じゃあんまりだけど、天の川って七月より今頃のほうがよく見えるんだよ」

「そうなの?」

「旧暦の七夕って八月だし。もともとは八月だから」

「いいなあ、七夕。天の川見たいなあ……あ! いまの花火見た?!」

「見た見た」

「ネコ型ロボットみたいだった!」

「……知ってるんだ」


 ――ほんとだよ。優しいよ。

 聞こえないふりをして見つめた花火は、やけに記憶に残るものになった。



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