プロローグ かつての省エネ少年より
プロローグ かつての省エネ少年より
――本当、らしくないなあ。
どうやら目の前で眉を下げて困ったようにわらう彼女は、自分には想像もつかない過去を生きてきたようだ。
ざっと挙げるに、両親の離婚、いじめられっこ、自傷癖。
テレビや小説に映画の中ではよくあるそういうものが、いま現実として目の前にあった。彼女にしてみれば、まさに自分のことなのだけれど。――そういえば当事者は、ああいう映画やテレビを見てどう思うのだろう。考えたこともなかったけれど。
茉莉≪まり≫は小さい頃に両親が離婚して、母方の実家に引き取られた。
一人っ子の茉莉は厳しく育てられ、幼い頃から一人で留守番を頼まれることもあった。優等生のいい子であろうとした茉莉は、学校でひどくいじめられて相当な目に遭ったらしい。その理由は何でもないんだと茉莉はわらった。「お腹すいてたとかたまたまそこにわたしがいたとか、あってもそんな理由だよ」と。それでもいじめられているのを家族に隠し通して、へらりとわらっては、息を殺して嘘をついてきたのだと、ぽつりぽつりと岬に話した。
「ご、ごめんね」
泣きそうに、それでもわらって「ごめんね」と繰り返す彼女に思わず小さくため息が漏れる。
びくりと肩を震わせる彼女に再度こぼしそうになるため息を飲み込んだ。
――ああもう、本当にらしくない。
本当に、これっぽっちも自分らしくないと思いながら、岬は彼女に手を伸ばす。
ふわふわの、色素の薄い彼女の髪は柔らかい。慣れないながらに俯く頭をなでてみる。
「で?」
「?」
「引くと思った?」
「え、あ……」
「そんな傷で引いてくれるくらいのものだと思ったんだ? 俺の告白。」
「!」
頬杖をついて彼女を見ると、ばっと顔を上げて岬と目が合うとまた俯いてしまった。
茉莉によく似合う淡いブラウンの長い髪が、俯いたままの横顔に、赤くなった頬にもかかる。
「完全に振られると思うだろ、この流れ。」
終業式のあとで茉莉に告白した岬は、話があるからと帰り道の公園で茉莉と待ち合わせていたのだ。
青い空に雲が夏を彩る。蝉が鳴いて、日差しはくらくらと目を眩ませる。
顔を上げては俯いて、違うよと小さな声が答える。
「……で、も。こんなの、気持ち悪いでしょ」
眉をへにゃりと下げた笑顔を浮かべながら、茉莉は捲っていたのを戻した袖の上から腕に触れる。泣きそうなくせに、――本当は泣きたい癖に。そうやってへにゃりとわらうのは出会ったときから変わらない。それでも目の前の笑顔が、がんばってわらっていることくらいは岬にも分かった。きっと、それは茉莉自身のためではなく、岬のためで。それでも聞けば彼女は自分のためだと言い張るのだろうけれど。
隠していた傷だらけの腕を見られて、にこにこしていられるなら隠してはいないだろう。
「こんなの、なかったらよかったのに、ね。ごめんね」
「それで、返事は?」
「え……だって、わたしこんなだよ? こんなの彼女になんか、」
「は? なめんな、ばーか。」
意地が悪そうにわらう岬に、茉莉がぽかんとした顔をする。そのほうがよっぽどいいと岬は思った。
いっそ泣いてしまえ。
泣きそうなのにわらうところに惹かれはしたのだけれど、岬はそう思った。出来ればそれが、――茉莉が涙を見せるのが、自分の前であってほしいと思ってしまったのだ。
――ああ、どこぞのユーレイさんが聞いたら喜びそうだと岬はちいさくわらった。
「残念ながら引かねーよ? 引いてなんかやるもんか」
「でも!」
「お前、分かってないだろ。告白したのは俺。惚れてんのは俺。惚れられたのがお前。そこまでは分かってる? ――だから、俺は返事を聞きたいんだけど?」
矢継ぎ早に並べられた言葉を飲み込んで赤くなると、口をぱくぱくさせた茉莉は目をそらすように俯いた。
「……だって、この傷、もう絶対増えないって言い切れない。間違ったことしてるのは分かってたよ? それでも、他にどうしようもなかった。どうしたらいいか、わかんなかった。――で、も、中村くんに告白されるまでは、こんなに後悔したことなかった。中村くんのこと、」
あ、と茉莉が慌てて口をつぐむ。
岬はゆるくわらって、茉莉の頭をぽんと撫でた。
「あってもなくても、変わらない。」
「……?」
岬の言葉に、茉莉が困ったような笑顔を引っ込めた。
「あー、軽んじてるんじゃなくて、なんていうかな。それがあって何か言う奴はいるんだろうけど、きっと無くてもそいつは何か言ってくるんだろ。お前のこと気に入ってたり、いいこと言ってくれる奴が、それがなかったからって何にも言わなかったり嫌うとはならないだろうし。」
だから、何かあったら話せ。岬はそっぽを向いて言う。
「知らないうちに怪我されて、一人で泣かれて、怪我が増えてたりしたらさ。その、そんなの男として立場がないだろ」
「……岬くん」
「一人で泣かれるのも、抱え込んで怪我増やされるのも困るし。……あー、言い方悪いけど、お前がすっごい気にしてることが、俺もすっごい重く受け止めるかなんてわからないだろ。俺にしてみれば全然気にしないことって場合の方が多いと思う。――あ、軽んじてるんじゃない。軽んじてるんじゃないからな? 俺が気にしてることは、お前にしたら笑い飛ばせるってこともあるんだろうし。だから、とりあえず何かあったら、口に出してみろよ。わらったりしないし。喧嘩になるなら上々って、誰かが言ってたし」
「上々? 喧嘩なのに?」
――どうでもよかったら喧嘩なんかしなくていい。ごめんねって言うまでがほんとの喧嘩なの。仲直りまでが喧嘩なんだから、ほらね? 一緒にいたい誰かとじゃないと、ほんとの喧嘩はできないの。
耳に蘇る声は、いまでは岬のもともとの価値観のように思える。
そうだよ、と岬は頷いた。
「喧嘩って、どうでもいい相手とは起こらないんだよ。こう、長く付き合いたい相手だから、一緒にいるために喧嘩するんだ。仲直りまでが、本当の喧嘩。」
「帰るまでが遠足です、みたいだね」
くすっとわらう茉莉に「そんなとこ」と岬も少しわらった。
「俺にしてみたら、お前が気にしてるほどその傷も気にならないし。まあ隠したいなら隠してたらいいだろ」
そう言った岬はまたそっぽを向いて、首をかいた。
「お前も一応……じゃなくて、女の子なんだからさ、あんまり怪我とかしないほうがいいだろ。……せっかく、その、見た目いいんだから」
「……っくく」
堪えきれないとばかりに吹き出した茉莉に岬が「なんだよ?」と逸らしていた目を向ける。惚れただの告白だのと始めのほうはあっさりと言ってのけていたのを茉莉に指摘されて言葉に詰まる。告白の返事かと思ったら違う告白が始まって、振られるのかと思ったら、それが自分を遠ざけようとしているのだと気づいて、自分が思っていた以上に腹が立っていたらしい。そう伝えると、今度は茉莉が言葉に詰まった。
「何、照れてる?」
「や、その、すごく直球だなあって……意外」
そう言ってひとしきりわらった茉莉は、滲んだ涙を拭って、わらった。
わらい過ぎたのか、違う涙かは岬には分からなかったけれど。
「ごめん、ごめんね。……分かった。話すように、してみるね」
ありがとうとわらった茉莉の笑顔は、出会ったときから変わらない、あのへにゃりとした笑顔だった。
『寂しいって、悪いもんじゃないよ。さびしくなれるんなら、あったかいものを持ってるってことだから』
――あったかいのをさ、ちゃんともらってて、ちゃんと受け取ってたってことだから。
そう言ってわらった、岬の好きになった笑顔だった。
まったく、と岬は心の中でため息をついた。
ほんとうにらしくないのに、――悪くないってのが一番厄介だ。
「どっか、行きたいとこある?」
ぽいと投げかけられた言葉に茉莉がきょとんとする。
「え? いまから?」
「いや、今じゃなくて」
「あ、そっか。……ええと、お祭り、とかかな?」
「花火も見に行ってみる? 人混み、すごそうだけど。」
「んー……手持ち花火、とか?」
「ああ、それもいいな」
茉莉が嬉しそうにわらう。
「中村くん、バイトじゃないの?」
「あー、まあぼちぼち。藤崎は?」
「わたしはお昼くらいでだいたい終わるよ」
「そっか。この前のクレーマー、その後どう?」
「えっと……ペンギンだと思えば何てことないよ?」
吹き出した岬がわらった。ああ、使ってくれてるの?
「だって、衝撃だったもん。怖いひとに遭遇してもあんまり怖くなくなったんだよ?」
「ハシビロコウでもけっこういいよ」
「動かない鳥だよね? あー、確かに個性的な顔立ちだー」
「まあ、あんまり怖けりゃちゃんと逃げろよ?」
「うん、ありがと。」
「いーいえ。――じゃあ、どこ行こっか。」
岬も柔らかな表情を浮かべて、空を仰いだ。
隣で茉莉が「うさぎとかめ」と鼻歌で綺麗にハミングしている。友達の唄なんだと言って、機嫌のいいときにはいつも歌っているのだ。
――痛かったこと、傷ついたことってさ、忘れなければ、いつか大切な人が出来た時に役に立つのよ。
二つ上だというだけで、いつだってお姉さんぶっていた半透明の声が蘇る。
あの独特な、鈴を転がしたようなわらい声も。
そういえば、思い出すユーレイさんはいつも、あの、ひとを小馬鹿にしたような目でわらっていた。
そんなのは感情をコントロールしているのではなくて、ただ単にケチっているだけだ。どれだけ自分が恵まれているかも知らないで、がきんちょがクールぶるなんてちゃんちゃらおかしい――などなど。要領よく立ち回って冷静ぶっていた岬の頭をかち割って、お説教して、料理の手ほどきをして、たったひと夏の間に、半透明のくせに岬を変えてしまった楽しそうな声。
――おんなじ痛みはどうしたって味わえない。だったら、自分の痛かったの思い出して、どんな気持ちだったか思い出せばいい。少しは近づけるでしょ? あのとき自分はどうしてほしかったか。それなら思い出せるでしょ?
かち割って現れた空っぽの岬に、たくさんの色を注いで、無機質な日々をいとも簡単に彩って、飾り付けて、感情を呼び覚まして、――消えていったユーレイさん。
「で?」
「え?」
「返事。」
「あ、え、……ええと、その」
「……もっかい告白しようか?」
「いいいいい! それはいいです十分です!」
「あ、そ。……で?」
真っ赤な顔で恨めしそうに睨んでくる茉莉に、岬はゆるくわらった。
小さな小さなか細い声がこぼれると同時に、岬の制服の裾がきゅっと握られた。
「……よ、よろしくお願いします」
あの夏と同じように、今年も夏休みが始まる。
岬はあのときのユーレイさんと同じ、十六歳になった。