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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

百足の主

作者: 鵜川 龍史

 空気の張りつめた冬の夜、思いがけず見上げた空の月が、丸く大きく私の胸を押しつぶすことがある。今、丸い光がそんな風に私の頭上に輝いている。いや、井戸の底に寝そべっている私の体からすれば、頭上、という言い方は正しくない。正面……眼前……。そもそも、頭上という言葉は、二本の足で立つことができるからこそ使える言葉で、こんな体になった私の辞書からは破り捨ててしまわなくてはならない。

 血が流れ続けている間は、体が冷えていく感覚が恐怖をもたらしもしたが、体中のものが流れ尽くしたらしい今は、痛みも恐れも感じない。あとは魂が流れ出すのを待つだけ。それも失われてしまえば、報われなかった愛情の記憶も、口にすることの許されなかった思慕の情も、この世にかけらも残らない。

 右足は太腿、左足は付け根から、右腕は肘、左腕は肩から――お館様の逆鱗に触れた結果。それでも、私の手足がお嬢様のお近くに控えることができていれば、と無垢な希望を弄んでみるが、そんなものは彼岸へ渡る銭にもならない。お嬢様はあくまで百足――家人に咎められようが、お館様に愛玩した百足を捨てられようが、百足への愛情だけ。

 背中に首に百足を感じる。研いだばかりの刀のようなまなざしのお館様。お嬢様を睨みつけて百匹の百足を井戸へと投げ捨てられた。同じまなざしが私の命と希望を同時に奪った。そして、私もまた百足と同じように井戸に捨てられた。百足が剝き出しの肌からシャツの下まで這いまわる。何かを求めて蠢き、やがて、失われた四肢を憐れむように傷口に集まる。血に濡れた百匹の百足の万の足の動きを傷口に感じる。一つひとつは引っ搔くような弱々しい動きが、無数に束ねられて風になる。お嬢様と百足の絆――。

 井戸に捨てられた百匹の百足を集めてくるように命じられた昨日の私は、何もわかっていなかったのだ。お嬢様の幼少の頃から、その百足好きを目にし、命じられるままに百足を集め、お嬢様の肌の上を這わせては、その足を喰らい続けてきた私。それはつまり百足への嫉妬に狂っていただけのこと。だから、十歳の誕生日に百匹の百足を求められた私は、このことが早々にお館様に露見し、お嬢様が百足から引き離される悲しみを私に向けてくれることを期待したのだ。百の百足を失う悲しみは、普段に十倍するものとなるだろう、と。それにお嬢様は耐えられないだろう、と。

 お嬢様にとって百匹の百足の喪失は、喪失とはならなかった。これまでお館様に捨てられた無数の百足に向けられてきた涙は、他の百足によって埋め合わせられてきた。個の百足は種によって購われてきたのだ。しかし、百匹の百足はもはや種ではなく、群れとなって他に代えがたい存在となっていた。そして、私は、私自身がお嬢様にとってどちらなのか、という、愚かしい疑問へとたどり着いてしまった。

 夜更け、屋根裏から屋根に出た私は、月が雲に隠れた隙に、お嬢様の寝所の窓を開けた。不器用にしか動かない四肢をどうにか部屋の中に滑り込ませ、折よく射し込んだ月の光に、天蓋の下の布団が薄らと上下しているのを認めると、毛足の長い絨毯を足の裏で摑みながら、ゆっくりと歩みを進めた。十歳になったばかりのお嬢様の体が、私の抱いていた印象よりもずっと大きいことに、お嬢様の成長を目にした思いがして、込み上げる情念がお嬢様を女性として、女性の肉体を持つ存在として見せた。そんなはずがなかったのに。お嬢様の体は、まだそんなに大きくなっていなかったのに。それを誰より分かっているはずの私であったのに。月の光に照らし出された布団の悩ましさに負けたのだ。

 布団を跳ね除けて現れたお館様の手には刀が握られていた。鞘が床に落ちる音は絨毯に消え、月光に白く輝く刀身が静かに私の交換を告げた。

 百足が這いまわる。皮膚が溶け、無数の足が神経そのものとなって私の体に繫がっていく。感覚は自由に動き回り、百の百足の万の足が、私の不自由な四肢の代わりに井戸を自由に動き回る。個でも種でもない、群れの快楽。私がそのことに気づいていれば、百の百足のうちの一つを私にすることができていれば、お嬢様は私を捨てなかったかもしれない。

 目の前に大きな月のように輝く空。首から顎、唇に触れながら鼻梁を渡って目へ、眼球へ。私の中の窓を破って光の射し込む部屋の中へ。そこで一緒に眠ろう。そうすれば、私の代わりとなった誰かが、井戸の底から私たちを引き上げてくれるだろう。

槐本之道の俳句「月涼し百足の落る枕もと」をモチーフにしています。

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