015 忘却された痛み
カエデはカロンの雑貨屋を出て、しかしその場で留まっていた。
フォルに状況を伝えに行くと言うのは口実だった。彼ほど耳聡い者が、情報を得ていない訳がない。
「…………」
快晴というには雲の多い、しかし晴れた空を見上げる。旧魔法街は人通りもなく、人の喧騒などとも程遠いが、中央市場の活気はここまで伝わってきている。
平和だ。そう思う。だけど、それは裏側で何が起こっているか知らないが故の――
「いえ……」
偽りではない。紛れもなく本物だ。
彼らに知らないままでいてもらうための自分たちなのだから。
腰に帯びた刀と瞳に宿る力。世界に干渉するためのカエデの力。
背を雑貨店の扉に預ける。
今更、自分の力を否定する気はない。その段階は通り過ぎた。境遇を理解し、嘆くには幼すぎて、でも、後になって得る悔恨のようなものを、胸の内に秘めていた。
だが、それとて、
「意味などありません」
応えを期待しての呟きではなかった。だから、
「あたしには全然わからないけど……」
その声に息を飲んだ。友人の、ユウの声。
わからないと、そう前置いて、しかし、
「意味のないことってないと思うんだ」
カエデの大切な友人は扉越しに囁く。
「――!」
否定にも似た、肯定。
「あたしはただの憧れからここまで来て、みんなに出会って、多分とても幸運なんだと思う。故郷にいた時も、お母さんはいなかったけど、お父さんもみんなも優しかったから。あたしはいつも、幸せに囲まれてるって、そう思える」
「わたしは――」
言葉は途切れる。自分は何を言おうとしたのだろう。捨てられた痛みか。得てしまった重みか。諦めた弱さか。
きっと、ユウとて強い訳でもない。自分と同じものを得た時、彼女もまた何かを思うだろう。それが同じものかどうかはわからないけれど。
「ねえ、カエデちゃん」
呼び掛け。
「こっち向いて?」
「……ぁ」
口を開いて声を出そうとしたが、胸が詰まり、漏れ出たのは微かな喘ぎ。
コツン、と背にした扉が震える。
震えは自身に伝播し、胸のつかえを揺らす。
「きっと、ね」
自分に言い聞かせるような、だけど、伝えるための声音。
扉越しに、吐息を感じ、熱を感じ、想いを感じる。
「一人じゃ寂しいと思うな」
決壊した。理性でせき止めていた、納得させていた感情を、否定されて、肯定されて。
カエデは泣いた。子供の用に泣きじゃくった。
痛みを思い出した。忌み子と言われ、一族から追われたことを。そのせいで母がこの世から奪われたことを。父が深く傷つけられたことを。
言い訳を思い出した。一人でいれば、傷つかないと。強くあれば、一人でいられると。痛みを忘れれば、強くなれると。
「そんな訳……ないのに……!」
嗚咽が漏れる。苦しくて、自らの肩を掻き抱く。
その上から、優しく、ふわりと抱きしめられた。
カエデ自身がつかえとなり開かなかった扉は、彼女が崩れ落ちたことで邪魔するものはなくなっていた。
その扉を開き、ユウがカエデを抱きしめたのだ。
友人を得ながらも、心の中で一人を求めていた。カロンという尊敬の対象を見つけても、深入りを避けた。その一方で、渇望していた。だから問いかけた。
「友達で、いてくれますか?」
一瞬の間。不安を得るが、
「なにを今さら。今までも、これからも友達だよ」
ぎゅっと、抱きしめられ、カエデはその腕に、体温に縋った。




