008 カロンの過去(後編)
更に五年ばかり時が経って。
晴れた日だった。周囲は森だったが、小屋のある周りは木も少なく、日差しが差し込んでくる。いつもの通り、本を広げて勉強していたカロンだったが、外扉に何かが強くぶつかる音がして飛び出すと、そこにはフィニスが倒れていた。
「フィニス?」
苦しげに喘ぐ彼。見れば、口元から血が滴っていた。
「どうやら、これ以上はもちそうにもないな」
乾いた笑いを漏らす。
「頼む、中に」
「ああ」
身長差はあったが、体力も筋力も有り余っていた。担ぐようにして彼を居間に運び、椅子で作った即席のベッドに横たえる。
「どうしたんだ?」
問うカロンの頬に手を伸ばす。
「聞いてくれ。私が君と同じだと言ったのは覚えているかい?」
「ああ」
「そうか。だが、その意味までは詳しく語らなかったな」
ポツリポツリと、時折血混じりの咳をしながら語ったのは、カロンたちが人間の身に精霊を宿す宿し子という存在であること。だが、フィニスの体は精霊を宿す器としては足りなかったこと。それゆえ崩壊が起こっていること。
そして、
「私の使命は調停者として人間と精霊の均衡を保つことだ。いや、どちらかというと人間に肩入れする立場だな。かつて、精霊が人間を滅ぼそうとしたとき、それを止めようとした一部の精霊がいた。彼らは人間に力を貸すために、素養のある人間に能力を移した。それが我々のような者の祖先だ」
咳き込み、血がカロンの頬にもかかる。
「その中でも、とりわけ大きな力を持った精霊を引き継いだものが調停者と呼ばれる。だが、私はもうもたない」
だから、と言う。
「引き継いでくれ、調停者を。そのために君をここまで育ててきた」
「そんな……」
絶句した。下心があったことに腹を立てたわけではない。すべてを諦めてしまうようなそんな態度に対してだ。
だが、彼の真摯な言葉と視線にカロンは心を決めた。どの道、大きな力が彼を崩壊させているというのなら、それを取り除かなくてはならないのだ。
「わかった。引き継いでやる」
「ありがとう」
これまで見せた笑顔の中で、一番安堵に満ちていたと思う。
「君の精霊石を」
請われ、胸から下げていた虹色の石を掲げる。彼も同じようにしていたものを取り出し、カロンのものと触れ合わせた。
「精霊は死の間際、他の精霊に力を継承させることができる。宿し子だとしても、それは同じだ」
継承させたらどうなるか、聞くのが怖かった。
“――盟友カロン・イルナリスの魂たる精霊石に我が意思、我が力のすべてを継がせる”
カロンの心など露知らずと言いたげに、フィニスは淡々と詠唱を行い、結語を唱えた。
“――Includi”
フィニスの黒色の精霊石が砕け、しかし飛び散らずにカロンの精霊石の周囲をぐるりと回る。そして、カロンのものからじわりと虹色の光が滲み出ると、砕けた欠片に触れて吸収していく。全ての欠片を吸収し終えると光は収まり、精霊石の中心に黒点のようなものが生じていた。
だが、変化は精霊石だけではない。カロンの体の奥底が火に炙られているかのように熱くなり、それが全身に隈なく広がっていく。だが、苦痛ではなかった。じわりと、抱きしめられているようにも感じられる。指先から髪の毛の一本一本に至るまで全てに浸透し、そして弱まる。
「成功したようだな」
フィニスは息を吐き、その体から力を抜いた。
「調停者と言っても、君がやることは君自身の意思に従って力を振るうことだけだ。君が厭う悪を君の信じる正義をもって砕けばいい」
「まるで暴政だな」
「そうかもしれない。だが、強大な力を持つからこそ、そこに常に責任がつきまとう。それを忘れてはならない」
「ああ……」
カロンの確かな頷きに満足したのか、彼はそのまま瞳を閉ざした。安らかな呼吸。責任から解放され、安堵しているようにも見える。
だが、カロンはそれを無責任だとは思わなかった。彼は力が自分自身を蝕むことを知りながら、調停者として有り続け、最後は彼の正義の継続のためとはいえ、カロンという幼子をここまで育ててくれた。
「感謝する」
壊れた器は元に戻らないだろうが、これ以上崩壊が急激に進むことはないだろう。
彼の静かな余生のために、カロンはここに留まることはできないと感じた。
「じゃあな……そして、ありがとう」
カロンは物心ついてから初めての涙を零した。
∴
「森を出た私はすぐさまグランベルへと戻った」
語るカロンの口調は落ち着いているが、その瞳はその時を懐かしむように細められていた。彼の瞳は冷たい氷の色ではないのだと、ユウは感じた。
「見慣れぬ髪色の子供を見つけた警備兵は私がイルナリス家の者だと感づき、すぐさま連絡が行った。両親は私を捧げたことを後悔していたようで、年齢以上に年をとって見えたが、私を見るなり抱きしめて号泣した。謝罪の言葉があったが、私はそれを許す以前の問題だと言って、ただ感謝を述べた」
本当に、ありがたい人たちだ、とカロンはそう言う。使命と家族の情との板挟み。すべてが報われた瞬間。
知らず、ユウの瞳からも涙が零れた。
「あれ……」
「お前が泣いてどうする」
「だって……」
例え、彼が人ではないのだとしても、彼を想う人と彼自身の想いを想像して胸を打たれてしまったのだ。
「なんでもないよ」
そう言うのが精一杯だったが、カロンは深く詮索しなかった。
「そこからの話はオレやセシリアとの出会い。そして、鐘楼の崩壊なんかの話だな」
「その話はまたいずれだ。流石に疲れたよ、私も」
「ふふ、お茶のおかわりもお茶請けのお菓子もありますよ」
ミリアが朗らかに勧めるのに苦笑を漏らしながらも受けるカロン。その様子をカエデはじっと見つめていた。
「もし」
そう切り出された言葉にカロンは耳を傾けた。
「もし貴方が森へと捧げられなかった場合どうなっていたのですか?」
「その場合はアリスが継承していたはずだ。まあ、そうなった場合それはもはや調停者という立場ではないだろうがな」
「そうですか……それにしても、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
深々と頭を下げる彼女にカロンは顔を上げるように言い、
「お前の立場上、看過できる問題ではないだろうしな」
「はい」
事情を知っている様子のカロンと言葉少なに頷くカエデ。
置いてけぼりなのはまあいつものことだが、なんだか釈然としないのも事実。
宿し子。その存在の本質を理解するにはまだ不足だったが、ユウとしてはカロンの謎めいた過去の一端を聞けただけでも満足だったのも事実。
先ほどの涙のことなぞつい忘れて、微笑んでしまうユウであった。




