008 カロンの過去(前編)
「何故こうなった?」
結局リックが遣いに出され、魔法武技の教員詰所にやって来たカロンは開口一番、とても不思議そうな顔で聞いた。
ユウも事情に詳しいわけではなく、急に呼び出されただけだったので、カエデ、次いでツキノ教官の顔を見やる。
「いやぁ、ちょっと口を滑らせてね」
悪びれない様子の彼女だったが、カロンは特段怒った様子もなく、
「ま、お前が口を滑らせただけ、って訳でもなさそうだがな」
彼の視線はやや険しい表情のカエデへ。カエデも飄々とした態度を貫くカロンの顔を穴があくほど見つめている。
「で、何を話せば満足だ?」
手を広げる動きに合わせてジャラリと鳴る黒銀の鎖。その表面はよく見れば細かい紋様が刻まれているのが見て取れるが、ユウにとっては見慣れたもの。意味は分からないし、知る必要もないと思っていた。
カエデは言葉をまとめるように一度瞳を伏せ、それからやや遠慮がちな声で一つのことを問うた。
「貴方は“何”ですか?」
一種質問の意図が定まらぬ、それでいて、根本を射るような問いなのだとユウは直感的に理解した。
何、か。自分がその問いを投げかけられたとして、返す言葉を、抱く考えを、願う存在意義を見つけられるだろうか。わからない。自分は自分だ。人間で、少女で――
カロンはすっと目を細めた。そこに宿る感情は冷たい氷の色に沈められ、読み取ることはできない。
「調停者」
唇から零れ出た言葉は耳慣れないものだった。
「立場を言い表すなら、これ以上の言葉はないだろう。ただ、聞きたいのは私が人かそうでないか、だろ?」
「いえ、今の言葉で大概のことは理解しました。多くのことをフォルから聞いておりますので」
「そうか」
カロンとカエデの間で完結する言葉のやり取り。突然連れてこられ、そして彼の放った言葉の意味を知らないユウは置いてけぼりだった。
「そんな顔をするな。今からきちんとお前のために説明してやる」
そんなひどい顔をしていただろうか。自覚はないが、見てすぐにわかるほど顔に出ていたのだろう。
カロンは一人がけのソファーに腰掛け、ゆったりと足を組む。
「どうぞー」
奥でお茶の用意をしていたミリアが車輪付きの台にカップとポットを載せて運んできた。ユウとカエデは同時に腰を上げ、少し顔を見合わせてからミリアの手伝いをしてお茶を配った。
昼時とはいえ、夏ほど陽の位置が高いというわけでもない。大きく開けられた窓からは草の香りを運ぶ風と同時に穏やかな日差しが入り込む。
淹れてくれたお茶はホッとする香りがした。カロンもお茶を味わい、そっと瞳を伏せた。
「どこから話そうかな」
そう口にした彼は、静かに過去を語り始めた。
「生まれはここグランベルだ。家は代々技術を司ってきたイルナリス家。そして同時に闇属性を得意とする魔法使いの家系でもある」
今から二十年前、イルナリス男爵家の家長ジョシュアに三人目の息子が誕生した。死別した前妻に代わり、平民だった後妻が嫁いでから生まれた初めての子。後継としてはすでに兄二人がいたが、後妻としての立場を考えれば嬉しい話だった。いや、その筈だった。
生まれてきた赤子は親に似ず、暗い紫色の髪と氷を思わせる淡青の瞳を備えていた。加えて、その手に握られていたのは虹色に光る“石”。
宿し子
そう呼ばれる人に身にありながら精霊の性質も併せ持つ子供。そして、イルナリス家には言い伝えがあった。宿し子は入れずの森に捧げよ、と。入れずの森はグランベル近郊にある広大な森林だ。しかし、誰も中に立ちは入れないことからそのように呼ばれるようになった。
「相当に迷ったらしいけどな」
そう語るカロンの口調は淡々としていた。
だが、結局カロンは生後ひと月ほど経った後に森の入口にと捧げられたらしい。宿し子とはいえ、所詮は赤子。カロンにも直接の記憶はないと言う。
∴
最初の記憶はベッドで寝ている風景だった。
木造の家屋。部屋は狭く、窓も扉も閉ざされていて薄暗い。
「…………」
扉の向こうに気配があった。二つ。
少しばかりの時間の後、扉が開かれ少女が顔を覗かせた。
『ほー、起きたのじゃな』
朱の唇に笑みが浮かぶ。
『なに? 本当か』
もう一人、黒いローブを目深にかぶった長身。
なぜか、言葉は理解できた。だが、それは口で発するのもではなく、思念のようなもの。この時は、言葉は口で発するものだという理解はなかったため、それを当然と受け入れた。
身を起こそうとするが、体の大きさの割に満足な筋力がなく、長身の男の手を借りてようやくベッドの縁に背中を預けることができた。
『やあ』
屈んで覗き込んでくるが、不思議なほどフードの奥が見えない。
『あ――』
言葉は理解できても、話すことがうまくできなかった。
『ゆっくりで良い』
含めるように言う彼に頷こうとして、バランスを崩した。再びベッドに倒れ込んだカロンをまた抱き起こす。
『いい子だ』
『あり……が、と』
『ふふふ』
ようやく発することができた礼の言葉に男は笑う。
『ふん、まだまだじゃな』
黒髪の少女は偉そうに胸を張った。そう歳も変わらないだろうに。
『まだ何がなんだかわからないだろう? 今はまだお休み』
そう言われては、まともに動けないカロンもどうしようもなかった。寝かされ、また一人にされる。気づけば、眠りに落ちていた。
再びの覚醒はそれからそんなに経たずに訪れた。
目を開け、周囲が明るいことを認識する。そして、扉の向こうに気配が一つしかしないことに気がついた。
身を起こす。驚く程に、前回とは違って体に芯が通ったような感覚。動く。すべてが自分自身だと認識できる。
ベッドから降りて、立ち上がろうとするが、流石にこれは難しかった。下から引っ張られるような力に対して、どう体に力を入れていいかわからず、悪戦苦闘。何度も何度も挑戦し、その物音を聞きつけたのか扉が開く。
そこにいたのは少女の方だった。
『まったく……』
呆れ顔。バツが悪くて下を向いていると、すっと手を差し伸べられた。
『つかまれ』
『…………』
黙って手を借りた。またもやバランスを崩しかけたが、少女の支えでなんとか転ぶことは避けられた。
『ありがとう』
『ふん、礼なぞいらぬ』
顔を背けられたが、なぜかその頬が赤い。
『ほれ、ここに座れ』
押されるように扉の向こうへと連れて来られると、無理やり手近にあった椅子に座らされた。
『名前は? あ、いや、知らないなじゃな、そういえば……』
『名前……』
記憶の片隅に何かが引っかかっている。
カタン、と音がしてその方を見れば長身の男が外へとつながる扉を開けて入ってきたところだった。
『フィニス。こやつの名前はなんじゃ? お主なら知っておろう』
『おやおやアリス。名前を尋ねるときは自分から、って教えたろう?』
『む……そうじゃったか。面倒じゃのう、人間は。礼儀というのか、妙なことにこだわる』
『群れで生きるんだ。仕方がないことだよ』
『はぁ……そうじゃな。わしの名前はアリシエル。こやつはアリスなどと呼ぶが、きちんとアリシエルと呼ぶんじゃぞ』
『アリ、ス』
『人の話を聞く気ないじゃろ、お主』
『…………』
素知らぬ振りでそっぽを向く。
『ふふふ』
男は笑い、そして手にしていた籠をテーブルに置く。
『私も名乗っておこう。フィニス。君と同じ存在だ』
同じ、が何を指すのかはよくわからなかったが、彼が少女アリスと違うことはなんとなくわかった。
『動けるようになったようだし、これからは少し勉強をしてもらおう』
『勉強?』
『そうだ。色々な、ね』
基本的に食物を摂取しなくてもいいらしいが、まだ貧弱な体だったカロンのため、簡単なものが用意された。聞けば、拾われてから二年しか経っていないらしい。この時こそ人間の成長速度がわからなかったが、今になればわかる。宿し子の成長は人のそれとは違い、かなり精霊に近いものだ。
それからというもの、フィニスによって勉強させられる日々が続いた。他にやることもなかったし、学ぶことそれ自体は苦ではなかった。内容は多岐に渡った。
まず言葉。これがなくては先に進めないことはすぐあとにわかった。学ぶための本を読もうと思えば、すぐにぶつかる壁だったのだ。言語も単一ではなかった。フロイスや近隣諸国で通じるエングル語。文字の種類だけで千を越す東方の大紅語。さらにそれに加えて崩して音のみを用いる文字を加えた桜花の言語。北部山岳民は文字を用いなかったが、言葉そのものをフィニスから口伝で教わりもした。
次に学んだのは論理。そして魔法。論理を先に学んだことで、魔方陣の組立のことがすんなり頭に入ってきた。
実践も行い、自分の魔法の癖も把握した。
日が経つのは早かった。アリスは勉学に励むカロンの傍らで暇そうにしていることが多かったが、言語だけは一緒に学んだ。
「どうだい、人間というものは?」
時が経つにつれ、思念で言葉を交わさなくなった。意識して口から言葉を紡ぐ。フィニスは言う。「いつか人のもとに帰らなくてはならない」、と。いつの頃からか、フードの奥の素顔を見せてくれるようにもなった。白い髪、金の瞳。優しげな笑みを絶やさず浮かべていた。
「賢いけど、愚かでもあると思う」
「そうだね」
カロンの率直な回答に彼は笑う。
「でも、悪くないだろ?」
「……まあ」
自分の知る人間が彼だけだったので、本で知るだけの知識だったが、それでもこうして他者と関わりを持つということに安らぎを感じている自分がいることも確かなことだった。だから、歯切れが悪くとも、是と答えたのだ。
「わしにしてみれば、弱い生き物じゃがな」
精霊のアリスにしてみれば、人間の生涯は短く感じるのだろう。例え、彼女がまだ幼い者であったとしても、人里に下りたことのある彼女にはそう感じさせてしまうのだろう。




