8 絡み始めた糸
「――……薔薇酒はファラット州の特産品というのをご存知ですか?」
飲み干したグラスを月影に翳しながら、マラウクが言った。
「――え?」
「この酒の醸造には特殊な製法が必要でして。工房の管理と作手への指南は代々、クレイヴランス家の当主が行っています。――同じ味を守り続けるために、当主には絶対的な味覚の保持が義務付けられていましてね……幼時から、その味を舌に刻み付けるまでロゼリアン漬けにする慣習がある。あれは苛酷なものでしたが――おかげで、ほんのわずかな味の澱みにも気付けるようになりました」
コトリ、と静かにテーブルに降ろされたグラスとマラウクとをティティーリアは交互に見つめた。
「何を仕込んだのかは知りませんが――」
両腕を組み、マラウクは硝子の壁に凭れかかった。
「残念ながら、毒薬の類では僕は殺せませんよ」
まるで名だたる画家が描いた一枚の絵のような立ち姿からは、微塵も取り乱す様子はない。マラウクはゆるりと口角を引き上げた。
――なぜ……!
ティティーリアは愕然とした。全身から血の気が引いていくのを感じた。だがかろうじて微笑みだけは維持したまま、マラウクに挑みかける。
「……わたくしが、毒を盛ったとおっしゃりたいんですの? 空気に触れて味が変わっただけでは?」
「――ありえませんね。先程は感じなかった。それに保存に長けた酒です、劣化はありえない」
「……言いがかりですわ。どうして私がそんな真似を? まるでマラウク様のお命を狙っているようではありませんか。そんな馬鹿なこと――」
「――理由、それはこちらがお聞きする問題ですよ。君の胸の内から」
硝子から離れ、二人を隔てる丸テーブルの縁を指でなぞりながら、マラウクがゆっくりとティティーリアに近付いてくる。
「誰の指図かは知らないが――相手のことを知りもせずに愚かな真似はしないほうがいい。命を縮めるのは、そちらの方だ」
マラウクの目尻の和らぎが消えた。
月影と燭台の光を借りて輝く湖面のような、どこまでも青い双眸が真っ向から見据えてくる。気付けば、ティティーリアは壁際に追い詰められていた。
「どうなさったのです、マラウク様――酔ってらっしゃるのね?」
「下手な芝居はよすんだ。勝敗はもう見えているよ、ルイーゼ嬢……いや、なんと呼ぶべきかな? 美しいお嬢さん」
燭台の炎が一斉に揺らいだ気がした。
鼓動が早くなってゆく。
酒のせいだろうか。
じりじりと焼け付くような感覚が、ティティーリアの胸の辺りに生まれ始めていた。
「……決め付けないでいただきたいわ。ご自分の判断が何でも正しいとお思いなのね。どこかに証拠でもあるというのですか」
「証拠?」マラウクの視線がティティーリアの身体のある一点に向かって下がっていく。
「それはこれではないのかな?」
「――あっ……!」
思惑に気付いて後ろに隠したティティーリアの右手を、マラウクの腕が掴み上げた。
後ろ手に抜こうとしていた指輪が弾け飛び、石床に転がった。腕を振り解こうとするが、もう片方の手も掬い取られて、背後の硝子に身体ごと押し付けられる。
「――なぜ、そんなに慌てて拾おうとする?」
冷たい硝子の感触が、手の甲と背中に当たる。体温を感じるほどの距離から、マラウクが低めた美声で囁くように訊く。
「あ……れは大事なものなんです。父の形見ですわ。離してください……!」
「父? 先ほど、毎晩晩酌をしていると言った父君か?」
そう指摘され、ティティーリアは凍りついた。
「誰にそそのかされたんだ? 君は何者だ。――売婦が巨額を積まれて目がくらんだか?」
――“売婦”
目の辺りがかっと熱くなった。もがこうとするが、腕の戒めはびくともしない。
「美しい女をよこせば簡単に殺れるとでも? 生憎だったな――見た目だけの華に心を奪われたりなどしない」
物柔らかだった声色が一変した。見下すようなマラウクの薄笑みに、ティティーリアは耐え切れず叫んだ。
「お金のためなどに……こんなことをするもんですか!」
「じゃあ何のためだ。もっと大きな大義でもあると?」
「話して何になるというの? ……手を離して!!」
「――強情な女だな。死にたいのか? 女だからといって情けをかけはしないぞ」
押さえつけられた両手に力を込めたまま、ティティーリアは脅し文句を放つ男を睨み上げた。
「私を殺すというなら……先にあなたを殺すわ! 私はまだ死ぬわけにはいかないの!」
いざとなったらあの剣を奪って――マラウクの腰に下がる二本の剣にティティーリアは目線を走らせた。
兄を救うまでは絶対に生き延びる。強い覚悟だけがティティーリアを突き動かしていた。
「死ぬわけにいかないのはこっちも同じだよ、お嬢さん。民の平穏を守る領主として、国の治安を預かる者として、やるべきことは山のようにあるんだ」
抵抗を封じようと、目の前を塞ぐ男の影がさらに迫り寄る。苛立ちを含んだその声音は、傲慢で悪辣に聞こえた。
「ええ、あるでしょうね。都合よく真実を捻じ曲げて罪のない者を監獄に放り込むのもその一つかしら? 権力で蹂躙して守る平穏なんてただの欺瞞だわ! あなたたちにとっては兄は邪魔者なのかもしれない……でも私にとってはたった一人の家族なのよ!」
両親を亡くし、二人で手を取り合って生きてきた。何よりも、誰よりも支えだった。
失ったら、本当に一人ぼっちになってしまう――
この身がバラバラになってもいい。激情にまかせて、ありったけの力でティティーリアはマラウクを押し退けた。
「セイク兄さんを返してっ……!!」
八つ当たりだということはわかっている。
だが、きつく絡み合った感情の糸はティティーリアを容赦なく締め付ける。
身を切られるような思いだった。穏やかに微笑む兄の顔が浮かべば、怒りを飲み込むほどの寂寥に襲われ目頭が熱くなる。
「セイク……?」
ぽつりとその名を繰り返し、マラウクが目を瞠った。
「それは……セイクリッド・フロスのことか? 君は――君が、彼の妹か」
――え……?
「マラウク? ここにいるのか?」
刹那、グラスハウスのドアが開く音がした。
若い男の声にマラウクが咄嗟に振り返る。その隙をついて、弓に弾かれたようにティティーリアは走り出した。
「う……わっ! ……えっ!?」
入り口を塞ぐ男の横を強引にすり抜け、外へと飛び出す。邪魔なドレスの裾に足をとられそうになりながら、ティティーリアは屋敷の方角へと走った。
――あの人……!
確かに言った。セイクリッド・フロス、兄の名を。
――何か知ってるんだわ……!
後ろを振り返りながら、ティティーリアは林の中を駆け抜けた。激しい動揺から逃げるように。
「……しくじったな」
葉陰から、中庭を走り抜けていく赤いドレスの少女を見送って男は呟いた。
だがその表情はさして気にとめている風でもなく涼やかだ。口元には密かな愉悦を滲ませている。
「……それでは貴方様の失態ということになりますね、ゲオルグ様」
背後から投げ掛けられた物静かな叱責の声を、ゲオルグは振り返る。
「――それはお前も同じではないのか? アンネル」
まるで夜陰を切り抜いたかのような漆黒の人影が、飛沫が迸る噴水の前に佇んでいた。黒衣の下からのぞいた手が、頭のフードへとのびる。
「今更あのような三流刺客をクレイヴランスにけしかけるとは、どういう了見だ? まるで茶番劇だったぞ」
払い除けられたフードの下から、十七、八に見える少女の白い顔が現れた。すべての色を飲み込む闇色の中でも炯々と赤く光る瞳が、ゲオルグを映し出す。
「……御覧になっていたのですか」
「フン、お前ら“イーター”の臭いは何所にいても鼻につく。死に損ないの――腐りかけた臭いがな。おいぼれ獅子は気付かなかったようだが」
あの酔いどれ振りではおそらく、自分が席を中座したのにも気付いてはいないだろうと
底意地悪くゲオルグが鼻で笑った。
あからさまな嘲弄に、アンネルと呼ばれた少女の表情が険しくなる。
「あれは単なる時間稼ぎです。必要あらば手を貸してやれと……主人から言い付かっていましたので」
「足止めをして二人を引き合わせようと、か? スタンリーめ、俺一人では信用できんと?」
「――気安く呼び捨てになさらない方がいいかと。昔とは違うのです」
抑揚をおさえてはいるがどこか攻撃的な声音で、アンネルが非難する。繊月のような目をいっそう細く窄め、ゲオルグは息をついた。
「お前も随分とあやつに懐いたものだな。所詮は誓約で縛られた傀儡でしかないものを」
「……それよりも、総督様は“器”をご所望です。――一刻も早く」
「“種”よりも先に、か」
「そうです。聖地のバラを保つには、現在の“器”ではやはり不十分なのです。発作の頻度も増えています――五度目の聖旬節が来る前になんとしてでも必要なのです」
「聖旬節……女神の倒れた日、か」
夜空に漂う月を見上げながら、ゲオルグが独り言のように繰り返す。
聖旬節――それは太陽も星も月もない暗黒の節日。女神イクレシアが滅し、この国が産声を上げた日。
「百年に一度の暗黒日、大きな節目であり決着になるだろう。そう急くな、準備は着々と整っている。俺にも考えがあるのだ」
天空から悠久を見つめてきた不変の密やかな光が、ゲオルグの相貌を青白く照らし出す。
どちらともなく閑寂に従うように黙り込んだ。
――まるで、すべてのものが生き絶えた無の静けさの中にいるようだった。このまま口を閉ざしていたら、二度と抜け出せなくなりそうな――
向かいに立つ男の、爬虫類のように冷たい横顔にアンネルが胡乱な目付きを送った。
「……裏切らないという保証が? 貴方様はいつだって何をお考えなのかわからない」
噴水の向うの回廊から、高らかな笑い声が響いてきた。男女が二人、おぼつかない足取りで肩を寄せ合いながら歩いてくる。
「……ふ、馬鹿共の巣窟だな、帝都は」
気違いじみた声を上げながらもつれあう男女に冷めた一瞥を送り、ゲオルグは踵を返した。
「こんな場所からさっさと離れたい、俺の願いはそれだけだが――古いつきあいだ、最後まで付き合ってやる。だが」
歩き出しかけて立ち止まり、わずかにアンネルを振り返る。
「全部済んだら、さっさとくたばれ。そう総督に伝えろ」
重みを含んだ低声で言い置き、ゲオルグは植え込みの向うに姿を消した。
女が男の手を引き、回廊を降りてくる。そして二人で両手を繋ぎ、くるくると円舞を踊るように回り出した。
淫酒と享楽に、我を忘れながら――
夜空に笑声が突き抜けるように響き渡る。
滑稽な光景から目を背け、アンネルは再び黒衣を被った。そして赤い髪をなびかせ、深黒の闇へと身を躍らせた。
翌朝、世話役につけられた侍女に「旦那様がお待ちです」と起こされ、ティティーリアは身支度を整えて食堂へと向かった。
温室のように朝陽が燦々と差し込む窓辺の円卓の椅子に、ゲオルグは足を組んで座っていた。ティティーリアが入っていくと、歓迎を表すように湯気のたつティーカップを掲げてみせた。
「――おはよう」
いつもは後ろに撫で付けている長めの髪を中分けに下ろし、開襟シャツに腰丈の黒のヴェストという軽装姿は、三十六という年齢よりも若く見えた。
「……言いたいことはわかっているわ」
向かいの席に腰を下ろすと、すぐにティティーリアの前に朝食の載った皿が置かれていく。出来たてのオムレツの載った皿から、ふわりと甘い香りが立ち昇った。
「ならば言わずにおこう。とりあえず、冷めないうちに食べなさい」
うちのコックのオムレツは絶品だぞとゲオルグが言うのに、ティティーリアは苦々しく首を横に振った。
朝起きた時から胸焼けがしていた。
昨夜の薔薇酒のせいなのだろうか。たった一杯飲んだだけだというのに。
コレッティ邸のコックの料理は確かに溜め息が出るほど美味しいが、今は食べる気になれなかった。
「失敗した償いに、断食でも始めるつもりか?」
口角を上げて嫌味に笑うゲオルグを、ティティーリアは睨みつけた。
「あの粉は何? 毒ではないの? 彼は顔色一つ変えなかったわ」
「あれはルシオンという高等植物からとれる猛毒だ。即効性で、微量で致死量に値する」
「……でも死ななかったわ。その毒を入れた酒を飲んでも」
ふ、と口元のカップの向うで破擦音を漏らし、ゲオルグは窓の外に目を向けた。
「それで主人を置いて馬車でさっさと逃げ帰ったわけか。おかげで俺はヘルヴォル卿に足の工面を申し出る羽目になったぞ」
「それはあなたが、万が一の時はすぐに屋敷に引き返せと――!」
思わず立ち上がりかけた自分を抑えて、ティティーリアはぐっと腹に力を込めた。
――悔しいが、確かに失敗は失敗だ。文句を言える立場ではない
それにこの期に及んで言い訳をするのも悔しかった。
「……しくじったのは事実よ。何を言われてもしょうがないわ」
「潔いな」
「『言い訳を探す人より、過ちを認められる人になりなさい』、兄さんがよく言っていたわ。力はなくとも、誰よりも強い人になれるから、って。きっと子供たちにそう教えてたのね」
兄、セイクリッドは子供たちに教師としてだけでなく、父親や兄のように慕われていた。毎日子供たちが遊びに来ては、ティティーリアの仕事を増やしていたものだ。カイセルというあの小さな街の、皆は今どうしているだろうか。
「もう一度やらせて。今度は必ず」
覚悟を込めた言葉に、ほう、と冷めた様子でゲオルグが目を瞠った。
暮らしは決して裕福でも華やかでもなかった。
毎日早朝から市場で売り子をして家事をこなして。けれど街の人々と笑いあい助け合って過ごしたあの温かかった日々には、確かに幸せがあった。
また兄と二人、あの日々に戻りたい。
「安心しろ、詰るつもりはない。――収穫はあったからな」
カップを置き、ゲオルグは膝の上に広げていた白いナフキンを外した。
「え?」
ティーカップを置くゲオルグの手をティティーリアは見つめた。その手には常にはめている白い手袋。潔癖の気質なのか、食事時でもゲオルグは手袋を外さない。
「あの程度の劇薬では死なん、ということがな」
ナフキンを折りたたみテーブルの隅に置くと、「お時間です」と言いに現れた執事である初老の男に軽く頷いて見せて、ゲオルグは席を立った。
「……もしかして、試したの?」
ティティーリアも追うように立ち上がった。
妙に余裕のあるゲオルグの口調や表情は、まるで初めからこうなることを想定していたかのように白々しく見えた。
「そう目くじらを立てるな。非は問わぬと言っているだろう、手など他に幾らでもある。――だが、相手を甘く見すぎていたことに関しては俺の裁量ミスだ。一ついいことを教えてやろう」
顔にかかった一すじの髪を、ゲオルグは骨ばった神経質そうな指でそっと払い除けた。
「粛清の網を逃れたラジエラ派の残徒のアジトの一つが、アローザのスラム街にあるらしい。マリードという男が知っている」
「……! なぜそんなことを」
「言ったろう、方々に顔が利くと。偶然に耳にしただけの話を言ったまでだがな。お前の兄と接点がある奴等かもしれんぞ」
「……ずいぶんと遠回りな情報ね。あなた、本当はすべてを知っているんじゃないの?」
ありったけの疑念を込めた眼差しを、ティティーリアはゲオルグに向けた。幾度となく見てきた無機的な笑みが一つ、返される。
「――それ以上を求めるなら、それなりの働きをするんだな。それが条件の筈だ」
扉の前まで行き、ゲオルグは執事が広げた軍服に袖を通した。首元のホックを止め白い手袋をはめれば、途端に血の通いがなくなったかのような冷たく異質な印象へと変わる。
「もし興味があるのなら、急いだ方がいい。異端諮問会は近々反対勢力の一斉排斥に乗り出す気でいるからな」
――どこに真意があるのか。
一つ一つの言動や行動を注意深く観察しても、この男は何を考えているのかわからない。
どこまで続くのか、何が潜むかもわからない深い森の前に立っているような気分にさせられる。
「……いったい、あなたの目的は何なの?」
「目的は明瞭だ。目障りなものを葬りたい、ただそれだけだ。今夜は遅くなる、夕食は先に一人で済ませてくれ。じゃあな――今日はいい天気だな」
最後に差し出されたサーベルを受け取ると、ひらりと手を振ってゲオルグは食堂を出て行った。
――アローザの街……
口の中でティティーリアは小さく繰り返した。
そして窓の外を振り返り、今日の幕開けとともに青みを増していく空を見上げた。