7 出会い
「今夜こそ――頂くぞ」
――クレイヴランス?
ティティーリアは辺りを見回した。
噴水のある中庭は、四方を直立した高木に取り囲まれている。その木々の隙間のどこかから、押し殺したような低いだみ声は聞こえた。
「お前の命と、“種”を――」
左の方だ。
音を立てないように、ゆっくり芝生を踏みしめながらティティーリアは植込みへ近付いた。そして幹の陰に身を潜めながら、そっと向こう側を覗き込む。
「――やってみればいい」
先ほどの奇妙な声とは違う、若い、凛と磨ぎ澄んだ声が答えた。
回廊の薄明かりがかすかに滲む夜陰の中で、二人の人物が対峙するのをティティーリアは見た。
一人は黒いフードコートを頭からすっぽり被っているせいで、容姿は定かではない。背は低く、まるで老人のように背が丸い。フードを被った頭を前に突き出すように起こし、そして手にある三日月型の曲刀の刃を、向き合う相手に突きつけている。仄かに発光する白銀の刃が、解放の瞬間を待つように冷たく煌めく。
「出来るのならな」
どこか余裕を含んだ口振りで、刃を突きつけられた男が言った。泰然とした、響きのいい声だ。
顔は影になりよく見えないが、若い男のようだった。
すらりとした上背に、スタンドカラーのロングコート。襟から裾まで続くボタンホールは精巧な刺繍で縁取られている。舞踏会場の男たちと同じ華やかな装いだが、その腰に佩いた二本の剣がものものしさを醸し出していた。
「さあ――来い」
男が誘うような文句を投げ掛けた途端、鎌のような刃がひゅっと空を切った。まるでかまいたちのような速さの攻撃を、男は首をひねっただけで軽々と避けた。
「こしゃくな――……若僧がっ」
ひしゃげた声で忌々しげに吐き捨て、黒いフードが刀を構えて飛び掛かる。
――危ない……!
声を出しそうになって、ティティーリアは口元を押さえた。
次々に振り下ろされる血に飢えた三日月を、だが男はまるで剣筋を読んでいるように身を交わして避けていく。着流したコートの裾が風に舞うように翻る。その動きはワルツのステップを踏むように優雅だ。
「どうした、こんなものか――それでも、“神狩りの一族”の末裔か?」
息一つ乱すことなく、追い詰める敵に男は挑戦的に問い掛けた。
「渡せ……! “種”を渡せえぇぇ……!!」
黒いフードは狂ったように刃を振るう。だが、幾ら繰り出そうとも、幾重にも虚しく風を切り刻むだけだ。
一際高く銀色の鎌が振り上げられた時、男は待ち構えていたかのように腰にある二本の剣のうちの一本を引き抜いた。そして眼前でその攻撃を打ち返した。
キイィ……ン……!!
金属のぶつかり合う音が夜空に抜けた。
黒いフードがよろめいて後図去る。弾き飛ばされた曲刀は弧を描くように宙を舞って、芝生に突き刺さった。
「――忘れているわけじゃないだろう、オレが誰の血を継ぐ者であるか――五百年越しの意趣がありながら、鍛錬を忘れていたのか?」
剣柄を持ち直し、男は青白く光る剣先を黒いフードの人物に向けた。
「……ファラット・クレイヴランスの末裔よ……。女神はもういない……葬られたのだ……! 生き延びたければ、我が主に跪くしか残された道はない――覚えておけ」
喉の奥で引き攣った笑声を響かせ、黒いフードは頭から闇に溶け込むように消え失せた。
辺りに静寂が舞い戻った。
大広間の音楽が、遠くでかすかに聞こえた。
――あれは……なに?
極度の緊張に縛り付けられていた体から唐突に力が抜け、後ろに下がろうとしたティティーリアの足元がもつれた。
「誰だ」
芝生がこすれた音に、男の鋭い声が飛んだ。
――しまった……!
木から離れ、ティティーリアはその場を逃れようとした。だが、踵を返した途端に肩を掴まれ、後ろに振り向かされた。
「きゃ……!」
はっと目を見開いた先に、息を呑むほど端正な若い男の顔があった。
月華の降り注ぐ噴水の水が、高く噴き上がった。
「――君は?」
男の、形の良い唇が、そう動いた。
漆黒の髪の間から覗く切れ長の双眸が、ひたとティティーリアを見据える。惹きつけて離さない、深い不思議な瞳だった。まるで射貫かれたように身動きがとれなかった。
――この人が、マラウク・ヴィト・クレイヴランス?
「わ……たしは、ルイーゼ……ルイーゼ・エレディア・ケルナーです、ファラット・クレイヴランス卿……」
男は怪訝な顔をした。だが掴んだままのティティーリアの肩が震えているのに気付き、戒めを解いた。
「――失礼、驚かせてしまいましたね、ルイーゼ嬢? ……以前、どこかでお会いしたことが? 美しいご婦人の顔を覚えるのは得意なのですが、ここ数年晩餐会には滅多に顔を出さないので――どうやら鈍ったようです」
彫りの深い精悍な顔立ちに柔和な微笑みを載せると、男は一歩退き右腕を胸の前にティティーリアに敬礼をとってみせた。その寸分の無駄のない挙措には、生まれながらの貴族としてその身に染み付いた品位が映っていた。
この機会を逃してはいけない――
本来の目的を思い出し、ティティーリアは動揺を押し込めた。そして“ルイーゼ”の仮面を引き下ろす。
「――いいえ、クレイヴランス卿。こうしてお会いするのは初めてですわ。もちろんそのお名前は高名にて、わたくしは存じ上げておりますが……この庭へ引き寄せられたのは偶然にございます。立ち聞きするつもりでは――どうかお許しください」
腰を深く落とし面を伏せ、ティティーリアは悲愴な声を装う。
「……責めるつもりなどありません。むしろご婦人に物騒なところをお見せしてしまい、申し訳ない。――どうか顔を上げてください」
期待通りの返答を受けて、ティティーリアは可憐な花を思い起こさせる美貌をすっと持ち上げた。
「……私の名をご存じということは、双翼騎士団のお身内の方かな? 部下の家族の顔と名はすべて記憶しているつもりだが」
「とるに足りない一従騎士の家の者です。この場ではただの無礼者ですわ」
ティティーリアの返しに、男はふ、と薄く歯をのぞかせた。
「おもしろいことをおっしゃる。では詮索はやめることにしますが――そのかわり、先ほど見たことを忘れていただけませんか」
「……あれは、なんなんですの?」
「古くから我がクレイヴランス家と因縁のある者です。いまだ私怨からああして命を狙おうとするのですが――たいしたことではありません。ですが、あまり公にしたくない私事ですので」
「わかりました――でも、それならばひとつわたくしのお願いを聞いてくださいませんか」
婦人たちが騒ぐのも頷ける端麗な形貌を見上げ、ティティーリアは悪戯っぽく笑ってみせた。
――こういう取引は嫌いではない。
娼館では己の身を守るため、客である男たちと言葉のかけひきをしてきた。指一本触れられない娼婦を手に入れたいと思う者は多くいた。諦めさせるには、会話で客を満足させるしかない。相手の目を見て嘘をつくのが――随分うまくなったと、ティティーリアは思う。
「……拒否権は私にはないようだ。ダンス以外ならばなんなりと。私にはどうもあの遊戯は向いてないようなので」
大広間の窓明かりを横目で一瞥し、男は苦笑交じりに首元に巻いたクラヴァットを緩めた。
「あら、残念ですわ。みんなに自慢出来ると思ったのに。他のご婦人方と同様、わたくしも今夜は麗しき花形騎士のお相手の座を狙いに来ましたのよ――。でしたら……一杯だけ二人きりで乾杯するというのはどうでしょう」
「……いいですよ、お安い御用です。池のほとりのグラスハウスに確か、この館の主の息子で私の親友でもある男が二十年ものの薔薇酒を隠していたはず。――口止め料には足りませんか?」
冗談めかしてそう訊くと中庭の奥、月の浮かぶ方角に広がる林の方角を男は指し示した。
「――結構ですわ」
ティティーリアが頷くと、よかった、と男は切れ長目元をやんわりと細めた。それだけで、精悍な面立ちが甘い印象に変わる。
促されてティティーリアは男の腕をとった。優男風の見た目のわりには逞しい腕だった。
慣れたリードに従って林を抜けると、大きな池に出た。
館から離れた林の中は深閑な空気に満ちていた。深い闇色の水面は淡い月影を映し、地上にもう一つの夜空を描き出している。池のほとりには、小さな東屋のような建物があった。天井も壁も一面硝子で出来たその建物の中へ、男はティティーリアを導き入れた。
中に入ると、柔らかな蝋燭の明りがティティーリアを迎えた。入り口から順に、奥へと一つずつ花が咲くように小さな光が灯っていく。
観葉植物とテラス用のテーブルと椅子があるだけの、小さな部屋だった。一面硝子張りの壁からは池が見渡せる。天井を見上げれば、金砂を撒いたような星空が見えた。
「――素敵な場所ですわね」
上を見上げたまま、ティティーリアはぽつりと呟いた。背後でコルクを抜く音がした。
「ここは友人のお気に入りの場所でね。――意中のご婦人を口説くのに主に使ってるらしいが」
薄い琥珀色の液体の注いだグラスを、男はティティーリアに差し出した。
「女性には少し強いかもしれませんが、この方が香りが引き立つ」
「……ありがとうございます、クレイヴランス卿」
「その呼び名は堅苦しすぎます。どうぞ、マラウクと。友人は皆そう呼びます」
「では……マラウク様と呼ばせていただきますわ」
「どうぞ、お掛けになりませんか」
引かれた椅子に、ティティーリアはドレスの裾を集めて座った。男――マラウクは向かいには座らず、硝子の壁に凭れてグラスを口元で傾けた。
ほのかに薔薇の芳香のする液体を飲みながら、ティティーリアはマラウクを決意を秘めた双眸に映した。
金糸の縫い取りの美しい紺色のロングコートが嫌味なほど似合う長身に、彫刻のように整った容貌。貴公子さながらの立ち姿からは、騎士団を束ねるほどの勇猛さを秘めているとは想像しがたい。
類稀なる美貌と、誰もが羨むだろう才と地位――その腕に抱かれる女性は至高を手にいれるのだろう、そんな愚かな考えがティティーリアの胸を掠めた。
「お口に合いますか?」
鼻梁の通った横顔がティティーリアを振り返った。蒼穹のような青い瞳が、グラスの中身をとらえてわずかに見開かれる。
「……よかった。見かけに寄らずお強いようだ」
「ええ、父の晩酌の相手が日課ですの」
喉がひりつくのを堪えて、ティティーリアは空いたグラスを手に椅子を立った。
「もう一杯、ご一緒していただきたいわ」
マラウクの手からグラスを抜き取り、背を向けて酒瓶が並ぶ棚の前に立った。
二つのグラスの半分ほどまで琥珀色の蜜を注ぎ、片方のグラスの上に右手の指輪をかざす。紋章部分を開くと、中の白い粉がグラスの中に零れ落ちた。
――これで、終わりよ。
呼吸が止まるかと思った、あの瞳を見た瞬間――。
でもそんなのはなんでもない、幻だ。もう振り返ることもないのだから。
「ありがとう。――そういえば、乾杯をしていませんでしたね」
グラスを受け取った手を、マラウクが掲げる。
「では……一夜限りのこの夢に」
二つのグラスの縁がかち合った。
「乾杯」
――私は、後悔などしないわ――
マラウクが酒を飲み干したのを見届けて、グラスを傾けティティーリアはほのかに甘い薔薇の蜜を一口含んだ。