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5 運命の夜へ

 月影の落ちる部屋の中に、男は佇んでいた。

 時を忘れた物語の一幕のように、静寂の中に、ひっそりと。

 窓の外、闇空に浮かぶ月が雲間をうつろうたびに、室内は幽明を行き来する。まるで行き場をなくして彷徨うように――

 何かを握り締めたまま、男はその右手を胸元へゆっくりと持ち上げた。

 男の顔の半分は、マスクに覆われていて見えない。唯一表情を表す銀色の双眸は、虚ろに己の手を見つめていた。

 月華を紡いだような細く美しい銀の髪は面線に沿って流れ、身にまとう白い長衣ローブの背を足元まで覆っている。月光が差し込めば、まるで星の流河がそこにあるようだ。


「スタンリー様?」


 部屋の扉を開けた少女は、青白い月光の中に陽炎のように浮かぶ主人の姿を見つけた。


「総督様――」


 呼びかけるが返事はない。灯りのない部屋の中で、放心したように男は鳥篭の前に立ちつくしている。

 握り締めている拳から、小さな白いものが零れ落ちる。ゆらゆらと空中を漂い、男の足元に舞い落ちた。赤い絨毯の上に点々と広がる不自然な白い染みに、少女ははっとした。

「スタンリー様!」

 異常に気付き、少女は男に駆け寄った。そして何かを握り締める男の細く骨ばった指をそっと剥がしていく。

 手の平には小さな小鳥が一羽、くたりと横たわっていた。もう息はないようだった。

 その死骸を一瞥し、少女は哀れむような潤んだ目で男を見上げた。

「発作が……起きてしまったのですね。苦しかったのですね。ああ、今夜は満月だったのね……!」

 カーテンが開いたままの窓の外に頭を振り、少女は闇空の満月を睨みつけた。鮮血に染まったような赤い瞳に射竦められ、月は怯えたように暗雲の陰間に身を隠した。

「本当にごめんなさい――……ああ、わたくしが気付きさえすれば、白薔薇をご用意出来ましたのに……!そうすれば、お気に入りのこの子をお手にかけずに済んだものを――」

 己の手に死んだ小鳥を引き受け、少女はそれを開いたままの鳥篭の中へ降ろした。

 そして男の冷たい手を、そっと両手で包み込む。

「――アンネル、聖域イザヴェルの薔薇はもう、残り少ないだろう――」

 低く静謐な美声が少女の耳に降りた。アンネルと呼ばれた少女は、必死に首を横に振る。

「いいえ、いいえ、まだ咲いております。スタンリー様に必要な分はちゃんと――」

「――だが、間もなく朽ちるであろう……早く探さねば、次なる“ 器 ”を。“ 秘天アンジェ薔薇ローザ ”を咲かせる器を――」

 マスクの下のくぐもる男の声が、声底を探すように低まる。焦点を取り戻した銀眼に凄烈な一閃が走ったのを少女は見た。


 ほんの一瞬。


 ただ一瞬――だが少女は知っていた。


 その一筋の邪光に秘められた男の渇えを――“ 生 ”への執着を。


「……わたくしにお任せください。あなたの僕であるわたくしに」

 両手で包むの男の手は、一向に熱を帯びないままだった。

「あなた様に永遠を――誉れ高き白の騎士」


 冷たい指を己の口元へ引き寄せ、少女は愛おしむようにそっと息を吹きかけた。



 

 貴族の邸宅がひしめくロレアル・サントでは、夜な夜な晩餐会が催されている。

 趣向は様々。やれどこぞの令嬢の誕生日だの、暑気払いだの快気祝いだの、理由は何でもいいのだ。ともかく彼らは何かしら口実をつけ、美酒に酔いしれ、飽きることなく輪舞を踊り、享楽を貪りたいのだ。


――滑稽だわ。


 その中に自分が混ざることになるなんて。馬車の窓から表を眺めながら、ティティーリアは嘆息した。

 門を抜け、馬車は巨大な噴水を廻り込みながら壮麗な屋敷の玄関ホールへと向かっていく。煌びやかな衣装を纏った男女の群れが、月下の前庭には溢れていた。

「盛況だな、さすがヘルヴォル卿主催の夜会となれば。――どうした、怖気づいたか?」

 投げ掛けられた嫌味を含んだその声へ、ティティーリアは冷めた視線を送った。

 金糸の刺繍の施された襟なしの黒の膝丈コートと開いた首元にはクラヴァット、そして黒のトリコルヌ帽という出で立ちの男は、反対側の窓辺に悠揚と凭れたままティティーリアを眺め下ろしている。名画のように風格のある見事な貴族装束姿も、その薄い唇に笑みが滲むだけで華奢で軽薄に思えてならなかった。

「安心しろ、君は誰より美しい。赤が実に似合う、おれが見立てた通りだな。何より優秀だ。この一週間で完璧に作法から何からマスターしてみせたのだからな」


――今すぐ脱ぎ捨てられたらどんなにいいか。


 ゲオルグから離れたい一心で出来る限り窓際に寄って座り、ティティーリアは膝の上で両手を握り締めて耐えた。

「誰よりも美しく、気高く。そうでなければいけない――あの男には――」

 歌うような調子で、ゲオルグが忍び嗤う。


『マラウク・ヴィト・クレイヴランス。それがお前の相手だ、ルイーゼ』


 この一週間毎日のように繰り返された、自分が殺す男の名前。

 殺人に関しての教授をゲオルグは一切しなかった。代わりに礼儀作法に食事作法やダンス、立ち振る舞い方や笑い方まで、それぞれ教師を用意して習得を強要した。

 だが貴族社会が考える「女性の嗜み」を身に付けるのは、ティティーリアにとって苦ではなかった。

 十二歳まで一緒に暮らした祖母は爵位はないが上流階級の家の出で、躾には厳しかった。ゆえにこの一週間で叩き込まれたことは、ティティーリアにとって祖母から教えられたことをもう一度復習するようなものだったのだ。

「今夜の夜会は特別だ。ルピシエール州領主・ヘルヴォル卿が騎士団の慰労と称し開く晩餐会だからな。軍府の人間は勿論のこと、七州の領主も一同に会する。もちろん、あの男もな――たった一晩だが、機会は山のようにある」

 馬車を引く馬の蹄鉄の音と男の声を聞きながら、ティティーリアは右手中指にある指輪を見た。

 殺人の手段や方法は何も教わっていない。

 その代わりに、ゲオルグはこの銀の指輪をティティーリアに渡した。繊細な紋章の彫られている指輪には、表面の部分が開くからくりが施されている。そこには微量の白い粉が入っている。訊かずとも、どう使いそれが何であるのかはすぐにわかった。

「後はお前次第ということだ、“ ルイーゼ ”」

 念を押すようにゲオルグが言った。


――なぜそんなに殺したいの。


 理由は訊いていない。それでいいのだ。関係がないことなのだから。

 自分にとって重要なのは、その結果でしかないのだ。

 やがて馬車は玄関ホールの前に辿り着いた。

「さあ、楽しい宴の始まりだ」

 開いた扉の外へとゲオルグが降り立つ。そしてティティーリアに向かって手を差し伸べた。

 その向うには、シャンデリアの光に煌々と照らされた華麗な夜が待っている。

 白い手袋をはめた手を、ティティーリアは差し出した。


 運命の夜が幕を開ける――


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