4 契 約
「美しいだろう? この国には実に多くの種の薔薇があるが、それは特別な花でね。聖域でしか育たない。俗世の空気に触れるとたちまち枯れてしまう」
口角を引き上げ、男は軽薄な笑みを浮かべた。蛇のような細く鋭い鳶色の双眸が愉悦を含んで鈍く光る。
サロンの入り口に立っていたのは、二日前ティティーリアに取引を持ちかけたあの男だった。
「ようこそ、我が屋敷へ。麗しきティティーリア」
慣れた物腰で男は恭しく辞儀を見せ、サロンに入って来た。
二日前に見たフランネルのシャツとズボンいう軽装は、黒の長衣の軍服と長靴に変わっていた。黒髪をオールバックに撫で付け威厳を纏ったその姿は、過剰なまでに禁欲的で硬質な雰囲気を放っていた。
整然と近づく軍靴の音に、ティティーリアの背筋が震えた。
「……侯爵様が人殺しを依頼するなんて思わなかったわ」
皮肉を込めた一言を、数歩手前で歩みを止めた男にティティーリアは放った。州民ならば重刑覚悟の侮蔑の言葉を、男は軽く鼻で笑い飛ばした。
「――それが世の為となる場合もある。そうか、まだ自己紹介をしていなかったな。ゲオルグ・ヘル・コレッティという。ゲオルグ、と呼んでくれて構わない」
「……コレッティ侯爵。本当に兄さんを助けてくれるの?」
親しみをこめて呼ぶ気などさらさらない。ティティーリアは酷薄な薄笑みを浮かべる男を睨み上げた。
「ああ、もちろん。保釈金を積んで高等院に掛け合えばいい。第二級殺人罪の仮釈放くらいはすぐだ」
「兄さんは人を殺してなどいないわ! 誰かに嵌められたのよ……! あなた、兄さんが冤罪だと知っていたのはなぜ? どうして今まで黙っていたの?」
「確証があるわけではない。憶測……だ。冤罪は珍しいことではない、害虫駆除にはもってこいの得策だからな。政敵となる輩を排するためには特に」
「……兄さんがどうして政敵なの?」
「お前の兄は教職者だったな。しかも危険思想派として連邦議会に目をつけられていたラジエラ派の一員だった。立法における国民代表制だの民衆自治権だの主張する小者共だが……それだけで挙げる理由は十分だ。大方、駆逐政策の一環、定期粛清にでも巻き込まれたのだろう。逃げ惑う時に――強盗殺人でも目撃してしまったのかな? ダウンタウンは物騒だからな」
こちらの心境など完全に度外視した皮肉を含んだゲオルグの物言いに、ティティーリアは青ざめた。
ラジエラ派のことんなんて、知らない。兄は一言もそんなことは漏らさなかった。
時々友人だという男達がやってきて部屋で何やら談合していたことはあったが、あの人達がそうだったというのだろうか。
隠し事なくなんでも話して助け合って生きていこうと――
祖母が亡くなって二人きりになった時、そう誓った。なのに。
自分と同じ父譲りの紺眼の真摯な兄の眼差しと、穏やかな笑顔がティティーリアの脳裏を過ぎる。
小等学校の教師だった兄は温厚で理知的で、誰からも好かれる存在だった。
なのに突然殺人者として投獄された。あの兄に、裏の顔があったというのか――
「……どうして」
「どうして知っているかって?」ティティーリアの言葉の続きを掬い取ってゲオルグは続けた。
「おれも議会の一員だからな。お前の兄の裁判は知っている」
「じゃあ! あなたも裁判に関わっていたのね! 私は公判の間のことは何も知らされていないわ。有罪だという通知を受けただけなのよ。おかしいわ!」
「関与してはいない。所詮州領主など、高等院のお飾りにすぎんからな。それにそういった案件は、高等院を素通りして異端諮問会が秘密裏に処理することになっている。表向きはさも公平無私な裁判が行われるように見えるがな」
きつく睨みあげるティティーリアを恬然と見下ろし、ゲオルグは襟元の留め具を緩めた。
異端諮問会――聞いたことがある。
法を司る高等院の代行で、綱紀の取り締まりを行う特別執行機関だ。わずかな「乱れ」も異端とみなし、その粛清に遭った者は二度と戻らないという。
「この国は一見、国民に対し圧力や規制が少なく寛容に思える。――だがそれは逆らう者を排除する暗黙の了承があるからこそのこと。異端諮問会の徒党は至る所に身を潜めている。目をつけた者は逃さぬぞ」
さらさらと政府の内部実状を述べる男に、ティティーリアの中にふつふつと怒りが湧いてくる。
「……つまり兄さんはもうずっと前から見張られてたてこと? ……あなたはそこまで知っていながら、傍観してきたの? 他の人達も? 州領主は民を守る責務があるわ! 自分達の都合のために振舞うために、位は与えられたものなの!?」
羽織っていた肩掛けを、怒りに任せてティティーリアは床の上に叩きつけた。ティティーリアの剣幕に、ゲオルグの神経質そうな細い眉がわずかに動いた。
「おれは軍府の人間だ。法に関する決定は預かり知らぬ所よ。だが顔は効く。その権力を当てにして来たのだろう? ティティーリア」
数歩近づき、ゲオルグは肩掛けを拾い上げた。そしてその布を広げてティティーリアの背に回し、肩にふわりと掛けた。
舌先で肌を舐められるように、ざわりと鳥肌がたった。名を呼ばれるのがこんなに不快だと思ったのは初めてだった。
「……その代償が殺人なのね。そしてあなたは私の思いを利用するんだわ」
身体に渦巻く、憎しみや悲しみ、兄を取り戻したいという執念を。肩掛けをティティーリアは胸の前で引き寄せた。
「そうだ。何でもやるだろう? あの娼館にいたのも、政府の要人に取り入る為ではなかったのか?」
まるでティティーリアの心を見透かしているように、ゲオルグは会話を繋いでいく。攻めているつもりが、すぐに押し戻される。
だがその通りだった。
黒蝶館には政府の高官もたびたび訪れた。だが情報を得る機会はなかった。男達がティティーリアに見せるのは常に捩れた欲望だけだった。
身体と引き換えに。そう思った。だが出来なかった。
祖母が自分に、何度も言い聞かせていたあの言葉が気になって――
「――でも覚えておいて」儚い容姿に似合わない、炯々と光る深海色の双眸が真っ直ぐに男を見据えた。
「あなたも私の敵だということを」
「……望むところだ。気の強い女は嫌いではない。飼いならし甲斐があるからな」
ククク、と喉の奥で笑い、ゲオルグは両目を繊月のように歪めた。そして日差しが注ぎ込む窓辺へ寄っていく。
「では本題に入ろうか」
規則正しい軍靴の音が寄木の床を歩んでいく。やがて窓辺で靴音は止まった。
「君には今日からここに住んでもらい、社交界に出ても恥じない教養や貴婦人としての嗜みを身につけてもらう。――仕事はそれからだ。肩書きはおれの母方の従兄弟にしておこう。名はルイーゼ・エレディア・ケルナー。おれもこれからはそう呼ぶ。ティティーリア・フロスという人間は今日限り消える。いいな」
両手を後ろで組み、ゲオルグは左半身だけティティーリアの方に向けた。
少しずつ、運命の足音が聞こえてきた気がした。
それは光へ導くものか闇へ引きずり込むものなのかは、まだわからない。だが、無駄にしてはならない、絶対に。
「……保証をちょうだい」
「保証?」
ティティーリアは小さく頷いた。
「あなたが約束を守るという保証よ」
裏切られないという確証はない。この男を信用するのは危険だ――直感が警鐘を鳴らす。ゲオルグが緩やかに口角を上げた。
「……いいだろう。その薔薇をお前に預けよう」
暖炉の上のガラスケースをゲオルグが指差す。
「その花が枯れるようなことがあれば、おれの騎士生命は終わる。命を預けるようなものだ。十分だろう」
絶え間なく七色の光の粒子を振りまく、純白の薔薇をティティーリアは振り返った。
毅然と花びらを広げ、だが脆い生命を持つ――それはまさに戦場を駆け抜け散っていく高潔な騎士の象徴。
「いいわ」
ガラスケースをそっと手に取り、ティティーリアはゲオルグを見た。
そして宣戦布告をするかわりに、鮮やかに微笑んで見せた。