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3 侯爵の館

 翌日の早朝、迎えに来た黒塗りの馬車でティティーリアは黒蝶館を後にした。

 予定より早い出発だった。

 あの男は「二日後に迎えをよこす」と言っていたが、まさかまだ霧も晴れぬ夜明け頃だとは思いもよらなかった。

 だがすでに荷物の準備は、昨夜のうちにすべて済んでしまっていた。持っていくものは身の回りの最低限必要なものだけだった。客達からの貢物やここで仕立てた豪奢な服はすべて置いて行くことに決めていたのだ。

 門番に起こされ質素な黒のドレスに肩掛けを羽織ると、ティティーリアは小さなトランク一つ片手に誰にも見送られることなく馬車に乗り込んだのだった。


 ――ヘレン以外の娼婦達と別れの挨拶を交わすことはなかった。


 身請けの話が広まった後でも、皆真冬の湖底のような冷ややかな目でティティーリアを一瞥しただけだった。興味を持とうと思うことすらままならないような、無気力な目だった。

 ここにいる少女達は皆そうだった。長くいればいるほど、現実を忘れる為に麻薬や酒に頼り、溺れ、自分すら見失っていく――……。


 馴染みの客にも何も告げなかった。

 今日限りで過去とは決別するのだ。


『どこへ行ったって、お前は自由になることはないんだよ。永遠にね』


――わかっているわ。


 それでも断ち切りたいのだ。そしてまた、幸せな日々を取り戻すのだ。以前と同じようにはいかなくても――

 明けていく淡紫の空に向かって高々と聳え立つ双薔街の門を馬車が抜けていく。

 その間ティティーリアは一度も後ろを振り返ることはなかった。





「……い、おい、起きてくれ」

 低く無愛想な声に揺すり起こされて、ティティーリアは瞼を開けた。

「着いたぞ、降りてくれ」

 はっとして、座席に横たわっていた身体を起こした。さっきまで薄闇に包まれていたはずの馬車内は、すっかり明るくなっていた。

 窓から零れる日差しの眩しさに、ティティーリアは目を細めた。

「着いたぜ、お嬢さん。さっさと降りてくれないか」

 馬車の降り口に立っている青年が、夢の中から抜けきれず恍惚状態のティティーリアを見て、呆れた様子で溜め息をつく。

「……着いたって、どこに……?」

 素朴な疑問を宿すとろんとした眼差しでティティーリアは問い掛けた。

 蝋燭の下では艶めいた光彩を見せる大きな紺碧の瞳も、今は小さな子供のように至純な表情になっている。

それを見て、青年はあからさまに迷惑そうに眉根を寄せた。

「はあ? サンジャック領主、コレッティ侯爵邸だよ。あんた、ここの主人に買われたんだろう」

 黒髪に黒い瞳の、二十頃の青年だった。精悍で彫りの深い整った顔立ちをしているが、愛想のない居丈高な物言いが野蛮な印象を与える。青年の横柄な態度にむっとしたおかげで、ティティーリアの意識は冴えてきた。

「サンジャックって、ここは隣の州なの?」

 自分はロジスティ州の州都マリオンにいたはずだ。サンジャック州は隣州だが、移動には馬車で一日は費やすはずだ。そんなに深く眠っていたのかと、ティティーリアは訝る。

「まさか。ここはマリオンの郊外、ロレアル・サント。コレッティ侯爵の第二邸さ。本邸はサンジャックにあるが、軍務で官舎に入り浸りだからな。今はここを足場にしてる……って、そんなことより早く降りてくれないか? オレも仕事に行けん」

 座席の下に転がっていたティティーリアのトランクをひょいと持ち上げて、青年は扉から離れた。

 寝乱れた髪を整えて、ティティーリアは馬車を降りた。


――すごい……。


 目の前に現れた三階建ての重厚な石造りの屋敷を、ティティーリアは驚嘆を込めて見上げた。

 朝の若い射光の中に聳え立つその姿は、見上げる者を圧倒する威風がある。蔦の絡む石壁は古めかしく歴史を感じさせる佇まいだが、持ち主の富と栄華を物語る貫禄を纏っていた。

「私は……この先どうなるのかしら」

 要塞のようにも見える巨大な館に不安を煽られ、ティティーリアは呟いた。

「……悪いようにはならんさ。この連邦国じゃ指折りの名家の当主だ。他の情人こいびとたちも好き放題贅沢な暮らしをしてる。娼館よりはマシだろう」

 窮屈そうに肩を動かし深緑の制服の襟をゆるめながら、青年は館を見上げて言った。

 ずいぶん率直に物を言う人だ、とティティーリアは思った。固い喋り方をするが、役人だろうか。

「あなたは、ここの人?」

 ティティーリアが尋ねると、青年は数秒考えてから答えた。

「まあ、似たようなモンかな。こき使われてんのは一緒だし。――ローグ・ヘーニルだ。あんたは?」

 先程より幾分か和らいだ表情で青年が訊いてくる。向かい合って、青年がずいぶんと長身なのにティティーリアは気が付いた。自分の頭一つ半分は高い。

「ティティーリアよ。……兄さんはティティって呼ぶわ」

「ティティ……ね。覚えておく。お……じゃあオレは戻る」

 屋敷の重厚な二枚扉の向うから姿を現した初老の男を見て、ローグはまたそのうちに、と軽く手を上げた。トランクをティティーリアに渡すと御者台に上がり、馬を走らせて行った。

「ティティーリア・フロス様ですね。お待ちしておりました。主人よりお通しするよう仰せつかっております。どうぞ、中へ」

 扉を開けた銀灰色の髪と口髭を携えた執事風の老男は、ティティーリアに向かって慇懃に頭を垂れた。お辞儀を返して、ティティーリアは男の後に続いた。


 玄関ホールに靴音が高く響く。ステンドグラスのはめられた吹き抜けの天井が、遥か上から見下ろしている。磨き抜かれた清潔感漂う大理石のホールの中央に、一つの美しい立像が置かれていた。


――女神、像?


 翼のある女性の姿を象った石膏像だった。その穏やかな表情に、どことなく懐かしさを覚えてティティーリアは足を止めて像を仰いだ。

「軍神イクレシア像でございます。かつてこの国の始祖である四人の騎士に味方した伝説の女神。その祝福を得た者には万劫の栄華が約束されるとか。我が国の守り神でございますな」

 イクレシアは双翼騎士団の象徴であり、各地に神殿もある。民間信仰も盛んで、豊穣の女神としても奉られている。だがこんなに美しい像を見たのは初めてだった。

「さあ、こちらでございます」

 抑揚を抑えた男の声に促され、ティティーリアは像を離れた。


――母様に……似ている気がする。


 聖母のような優しい横顔を、名残惜しい気持ちで振り返る。

 両親のことはほとんど覚えていない。ティティーリアが四歳の時に亡くなったと聞いている。それから祖母の元で暮らし、祖母が亡くなってからは兄と二人で生きてきた。

 母の顔は、ぼんやりと記憶の中に残っている。自分を見つめる、春の日差しのような柔らかい笑顔。だがそれが本当に母であるのか確信はない。兄から話を聞く内に、寂しさを紛らわすため自分で作り上げた幻想なのかもしれない。

「どうぞ」

 ティティーリアが通されたのは、日当たりのいいサロンだった。テーブルの上に飾られた薄青色の薔薇のみずみずしい芳香が、優しい息吹のようにティティーリアを取り巻いた。

「こちらで少々お待ちくださいませ」

 そう言い残し、懇ろな退室の礼をすると男は扉を閉めた。


――いい香り。


 ガラスの花瓶に生けられた大輪の薔薇にティティーリアは鼻を寄せた。


 ヘレンの香水の香り。


 オラフという名のこの青薔薇は、国の象徴花で国中いたるところで栽培されている。本来は蔓性の小さな花なのだが、室内観賞用にこうして品種改良されたものが多く出回っている。オラフの香水は人気が高く、愛用する婦人たちも多い。


 ソファにトランクを降ろし、ティティーリアは窓辺に寄った。窓の外には、緑の芝生の敷かれた庭園が広がっている。小さな街一つ分くらいはありそうな奥行きだ。

 聞かずとも、あの男の財の深さがこの邸宅からはうかがえた。


 コレッティ侯爵、名は聞いたことがある。


 侯爵といえば、ユレイヒト連邦国で制定されている四等爵の第一位であり、連邦国を構成する七州を統治する領主家が保持する最も高貴な爵位だ。彼らは代々政府の要職に就き、国家元首である総督家の次に権威のある名家である。兄はよく政治の話をわかりやすくティティーリアに話してくれた。

だがまさかそれほどの男だとは――

 サロン全体を見渡すようにティティーリアは首を巡らせた。その時ふと暖炉の上のある物に目が止まった。


――あれは……?


 引き寄せられるように窓辺を離れ、火の気のない暖炉に近付く。

 暖炉の上にあったのは透明な半円型のガラスケースだった。中には、一輪の純白の薔薇が咲いている。


――きれい……。


 氷の結晶を集めて作ったような透き通った花びらは、虹色に変化する仄かな光の被膜に包まれ、淡く輝いている。零れ落ちる煌めきがさらにその白さを際立たせる。

 吸い寄せられるように、ティティーリアはガラスケースに手を伸ばした。そして指先がまさに触れようとしたその時だった。



「――それは“ 誓いの薔薇 ”。君主から騎士に下賜される忠誠と信頼の証だ」



 背後から響いてきた男の声に、ティティーリアは後ろを振り返った。


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