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2 黒い夢の外へ

“ 赤い薔薇、黒い薔薇、今宵のお好みはどちらかな? ”


 それはこの双薔街に来る者には馴染みの合言葉だ。

 夜の帳が降りる頃、街の行路に灯りがともる。ひしめく娼館の軒先に吊るされた薔薇を象ったランタンが仄かに、妖艶に揺らめき迷い込む者を誘う。

 ここは一時の快楽と安らぎを求める者たちが集う場所、歓楽街。艶やかに着飾った娼婦たちは、夜な夜な通りのあちこちで蟲惑的な魅力を振りまき今宵の相手を探している。手招きを繰り返すその艶かしく白い手に、男たちは欲望を預けるのだ――


 双薔街は二本の街路に分かれている。

 「赤薔薇の誘路」と「黒薔薇の誘路」。この街へ入る者はみな、街門の番人にどちらへ進むのかと問われるのだ。


 「赤」は血潮も踊る快楽を――「黒」は魂も凍てつく美しい夢を――さあ、どちらを選ぶ? と。


 たいていの者は、一般的な娼館の並ぶ赤を選ぶ。黒薔薇を訪れる者といえば、変質な性癖の持ち主か、相当の金満家と決まっていた。

 黒薔薇にあるのは「黒蝶館」というたった一つの娼館だけだった。

 ここで囲われている娼婦たちは“ 高級娼婦ドール ”と呼ばれ、双薔街では高嶺の花的な存在だ。彼女たちは客と交わることをしない、つまり見世物専用の娼婦である。もちろん一晩同衾することは出来る。だがそのためには莫大な財貨を支払わねばならない。眺めるだけには飽き足らず、だが一晩で破産する者も少なくなかった。黒蝶館に集められた女たちは、それほどの価値を持つ極上の美女として有名だった。

 ニ年前、この館に売られてきたティティーリア・フロスもその一人だった。


「まったく、よりによってこんな時期にあんたが身請けされるとはねえ」

 長椅子に身を預け黒鳥の羽根で出来た大ぶりな扇をゆったりと動かしながら、館の女主人であるオドレーネは、涼やかな青灰色の双眸を怪訝そうに細めた。

「今年の豊穣祭の後の私宴で、スタンリー様はきっとお前を指名してくるとあたしは踏んでるんだ。あんたは稼ぎ頭だからねえ、総督様の耳にもその評判はきっと入ってるはずだよ。――なのにもう、どうしてこんな時に――」

 こめかみに手を当て、オドレーネはさも嘆かわしそうに溜め息をついた。最近ひどい頭痛があるとかで渋面の多いオドレーネの表情は、さらに拍車をかけて不機嫌そうに見える。

 一切の感情を閉じ込めたままの表情で、ティティーリアは女主人の前に立っていた。

「しかし驚いたねえ、まさかこの館の娼婦を身請けできる男がいるとは」

 テーブルの長パイプに手を伸ばし火をつけると、オドレーネはゆっくりと長椅子から立ち上がった。

「いったい、何と引き換えにしたんだい?」

 漆黒の闇を映す窓辺まで行き、オドレーネは振り返った。

 燭台の灯火に中指にある大きなオニキスの指輪が鈍く煌めく。パイプの先から立ちのぼる紫煙が、おののくように大きく揺らめいた。


「――何のことです?」 

 四十五を過ぎたとは思えないオドレーネの冷たい美貌をティティーリアは見据えた。まるで夜闇に染めたような黒のドレスを纏った彼女は、闇を支配する女帝のように不敵な笑みを見せた。

「お前は利口で従順だが、したたかな面もあるからね。巧妙な取引でもしたんだろうさ。 相手の弱みでも握っていたのかい? そうでなければこんな大金、けちな貴族がすんなり出すわけがない」

 パイプを吸い、煙をふぅっと吐き出すとオドレーネはテーブルを指し示した。そこには四つの麻袋が置かれている。紐の解けた袋の口からのぞくのは、黄金の煌めき。

「――言いがかりです。私は取引などしていません。お客様の好意です。私はそれに従いますわ。明日にでも、ここを出て行きます」

 城がひとつ買えるほどの価値のある金貨の山から目を背け、ティティーリアは主人に向かって固い口調で言い放った。緋色のドレスの裾を持ち上げ丁寧に礼をすると、ドアの方へ向かう。

「お待ち」

 即座に呼び止められ、ティティーリアは音もたてず振り返った。微笑むことを忘れた、血の気のない美貌で。その表情からは、十六歳という少女の幼さは消え失せていた。それは不本意にも、オドレーネの背筋に一筋の悪寒を走らせるほどのものだった。

「――覚えておいで。どこへ行ったって、お前は自由になることはないんだよ。永遠にね」

 オドレーネが言い終わらないうちに、ティティーリアは蜂蜜色の髪をふわりと翻した。そしてそのまま、扉の向うへと消えた。



「出て行くの?」

 主人の部屋を出たティティーリアは、その声に階段の方を振り返った。

階段の三段目に腰掛け、銀製のパイプ煙草をふかしていたナイトローブ姿の少女がゆっくりと立ち上がった。

「――ヘレン」

 よく見知った同じ娼婦であるその少女の名をティティーリアは呟いた。

 すらりと背の高い大人びた美貌を持つその少女は、この館で唯一同じ十六歳であるヘレン・ウォズワースだった。

 大きな螺旋を描いて流れる腰までの巻き毛を払って一段降りると、ヘレンは化粧を落としても赤く魅惑的な唇を小さく動かした。

「……出て行くのね」

 長い睫毛に縁取られた大きな黒い瞳は、怒りを宿しているようにも悲しみに揺らいでいるようにも見える。北国生まれ特有の透き通るような白い肌は、いつもよりも青白く不健全に思えた。

「……ええ、明日には」

 ティティーリアのその答えに、銀のパイプを口から離し、ヘレンは白い煙を苛立ちを込めたように強く吐いた。

「それはめでたい話なの?」

「え?」

 煙のにおいに紛れて、清涼感のある甘い香りが降りてくる。ヘレンの愛用する青薔薇オラフの香水だ。

「家族か恋人が、迎えにきたってことなの?」

 黒い満月のような目で真っ直ぐ見つめてくるヘレンに、ティティーリアは首を横に振った。

「……いいえ、そうじゃないわ」

 そして弱く笑った。

「私には、家族も恋人もいないもの。お金で買われたのよ。でもここを出て行けることは事実よ」

「――そう」素っ気なく呟いて、ヘレンはまたパイプ煙草を吸った。煙を吐く息遣いが少し弱まった気がした。

「寂しくなるわ。あんたは同期だから」

 そう言ったヘレンの声に残念そうな響きはなかったが、ティティーリアは頷いた。彼女の複雑な気持ちはわかっているつもりだった。


 ヘレンとティティーリアがこの館へ来たのは、ちょうどニ年前の春先だった。

 その頃からヘレンは異彩を放つ存在だった。神秘的な容姿もさることながら、貴族の血筋だという彼女の才華は一級品ですぐに多くの客がつくようになった。朝のないこの世界で凛として気高い彼女は、闇夜に舞う夜光蝶のように儚く美しい存在だった。


「ヘレン」

 階段を昇り始めたヘレンの背に、ティティーリアは思わず呼びかけた。

 だがこの暮らしに身も心も侵食されたヘレンは、重度の煙草依存症になっていた。まるで何かを忘れたいように――

「まだ……信じているんでしょう? 迎えに来るといった婚約者を」

 ガウンの下から覗く白く艶かしい素足が、途中の踊り場で止まった。

「そんな幻想は、もうとっくに捨てたわ」

 月影落ちる踊り場で振り返ったヘレンの胸元から、黒い薔薇のタトゥーが見えた。

 

 それは一生消えぬ「人形」の証。黒い薔薇の鎖。


 ティティーリアが刻むことを拒み続けてきたものだった。


「ヘレン、きっと−−」

「……頭が痛いの、もう休むわ。見送れないけど、元気でね、ティティ」

 ティティーリアの言葉を遮り、深黒の瞳を伏せるとヘレンは二階へ上がっていった。



 ――黒薔薇の棘はヘレンの心に深く突き刺さり、彼女の気高さを汚してしまった。それはあまりに痛ましくティティーリアの目に映った。

 どこへ行っても逃げ場はない。そう、私たちは一生人形ドールのまま。


 繋がれた運命に、ティティーリアは唇を噛み締めた。



 


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