19 栄華の後景
予告したにも関わらず遅くなってごめんなさい!
ひとつよろしくお願いします★
「またのお越しを心待ちにしております」
にこやかな主人の笑顔と、嫉妬心を燃やす御婦人らに見送られ、ティティーリアたちを乗せた馬車は走り出した。
石畳を踏む蹄鉄が、規則正しい歩調の音を刻み出す。
押し合いながら店内から出てきた集団を後ろ窓で一目して、ティティーリアは思わず感嘆の声を漏らした。
「このまま追いかけてきそうな勢い。全部あなたの支持者かしら、クレイヴランス卿?」
嫌味たらしく呼んでやれば、彼女らの羨望の的である容姿端麗な騎士は、向かいの座席で苦笑を滲ませた。
「高等院議員のご令嬢方だ。正直一人一人の名前は覚えていないが」
「ずっと睨まれっぱなしだったわ。あんなに疲れる買い物は初めてよ。――あなたのおかげでね」
婚約者だなんて公言したせいで。その一言がどれほど衝撃的であったか、自分が驚く以上にティティーリアは身を持って体感した。
「それはすまなかった。だが今後君は社交会の一員になって、もっと大勢の貴婦人たちと会うことになるんだ。覚悟しておいてくれ」
「ご冗談、どうして私が――」
「君ならお手の物だろ? 俺の前に現れた時のように振る舞えばいいだけだ。その服もよく似合ってるよ。どこからどう見ても、貴族のご令嬢だ」
指し示された柔らかなシフォンドレスのスカートの上に、ティティーリアは深いため息を落とした。
――どうして令嬢のふりなんて。
店で山のように買ったドレスのうちの一つにティティーリアは着替えていた。そうしろとマラウクに言われたからだ。
クリーム色のシフォン地に、紺色のリボンがあしらわれた普段使いの一枚。両袖とくるぶし丈のスカートの裾に柔らかなドレープが施されており、ふわりと揺れると花びらのような優しい印象になる。
「どうしてヘルヴォル邸のお茶会に行かなきゃいけないの? 私への説明は?」
すべてを話すと言ったから従っているのに。これではただ、マラウクの予定につきあわされているだけのような気がする。
「これも準備の一つだよ」
微笑みを浮かべたまま、だが目だけは真剣な様子でマラウクが言う。
「先延ばしにしているわけじゃない。何もかも君に安全に、そして確実に真実を伝えるための準備の一環だ」
「……それがお茶会なの?」
「そう。この先ヘルヴォル卿の力添えが必要になる」
力添え――それはつまり、ヘルヴォル卿もこの件に関わりがあるということだ。――そう――彼も伝説の騎士の子孫。関係ないわけがない。
「じゃあ、ヘルヴォル卿も――…えっ……きゃあっ!」
突然、軽快に走っていた馬車が止まった。
「大丈夫か?」
揺れたはずみで前に倒れそうになったところを、マラウクに支えられる。ええ、と頷いて顔を上げた時、表の騒がしさが耳に飛び込んできた。
「何の騒ぎだ?」
頭の後ろにある小窓からマラウクが御者に呼びかける。喧騒はさらに大きくなり、喚声や罵声が飛び交っている。
「は、はい。何やら人だかりで進路が阻まれていまして……黒い集団が囲まれています」
「……黒い集団?」
慌てふためく御者の声に、マラウクは窓にかかる帳を押し上げた。馬車の横を、前方に向かって人々が通り抜けていく。
馬車は議事堂前広場に差し掛かる手前で止まっていた。前にも一台立ち往生している馬車があり、人だかりはその先だった。
「もしかして異端諮問会では……」
心配そうに御者が呟く。小窓を閉め、マラウクはその上に掛けてあった己の剣を取った。
「異端諮問会……って」
不安に駆りたてられたティティーリアに、マラウクが首を左右に振った。
「大丈夫だ、粛清の告知は受けていない。別の騒ぎだろう。君はここにいてくれ。絶対に外には出るなよ」
そう言い置いて、マラウクは馬車を降りた。
落ち着かず、窓越しにティティーリアは外を窺う。広場へ向かう広い通りは、集まる人で完全に塞がれてしまっていた。
「邪神教のやつらが騒いでるって」
――邪神教?
群衆の間から黒い外套を頭から被った者たちが数人、こちらの方に押し流されてくるのが見えた。
――神狩りの一族?
「おい、こっちにくるぞ!」
反射的に、ティティーリアは窓から身を引いた。速まる鼓動が連れてきた悪寒を引き離そうと深呼吸をする。とその時、もう片側の馬車の扉が勢いよく開かれた。
「イクレシアは……神などではない……!」
ぼろぼろの黒い外套を被った男が、馬車の中に乗り出してきた。
「きゃ……!?」あまりの驚きに悲鳴がかすれた。
頭から鼻まで頭巾に覆われているため、顔は定かでない。わかるのは髭の伸びた骨ばった顎と口元だけだ。その姿はアローザでの出来事をティティーリアに思い起こさせた。
「あれは……あれこそ禍々しきものだ……!」
小刻みに震える紫色の唇で、男は呻くように言った。
真黒な爪のついた手が、ティティーリアに伸びてくる。逃れようとするが、背後に逃げ場はない。
「いやっ!」
ものすごい力で掴まれ、ティティーリアは床に転がり落ちた。男が圧し掛かってくる。もがこうとするが、座席に挟まれた狭い場所では身動きが出来ない。
「う……あ、あ……」
一瞬動きを止め、男が低く呻く。
――殺される……!?
ぼろ布の下にあるその顔が見えかけた時、外で上がった悲鳴がティティーリアの思考を弾き飛ばした。
「――彼女に触れるな!!」
もう片方の手がティティーリアの首を掴みかけたその時、男の重みがはがれた。
引きずり出された大きな黒い塊が石畳の上に転がる。扉の前に立ちはだかり、鞘におさまったままの剣先を、マラウクが男に突き付けた。
「私の婚約者に手を出すな」騒然とする通りに、凛とした声が伸びる。
「白昼堂々の蛮行、よほどの根拠があってのことか。ここは我々騎士団の守護する都だ。その秩序を乱す罪は重いぞ。釈明の余地はやるが、心して答えろ」
周囲が色めき立つ。隊服こそ着てはいないが、マラウクの放つ存在感は、正統な騎士であると示すにふさわしいものだった。
「お前も手先か」男がゆらりと起き上がる。剥がれそうになった黒頭巾を深く引きずり下ろし、マラウクに指を突き付けた。
「邪なるものの手先かあっ! 騙されないぞ……! おれたちは騙されない!」
「――これ以上騒ぎを起こすならば、それなりの処断を下す。永久牢獄に行きたくはないだろう」
マラウクが語調を強めた。男を牽制する鞘の先は、その喉元を狙っている。
「永久牢獄?」
薄汚れた髭の下で血色の悪い口元が、にたりと笑んだ。
「あそこで何が起きてるか、おれは知っているぞ……どうして誰も戻ってこないのか……あそこに何が潜んでいるのか、知っているぞ! お前も知っているんだろう! お前たち全員……咎人どもめ!」
狂ったように男が叫び出す。そこへ白い隊服の男たちが駆けつけてきた。男をマラウクの側から引き離し、取り押さえる。
「総令! お怪我は」
体躯のいい長身の青年がマラウクに駆け寄った。大丈夫だと返し、マラウクが振り返る。
「大丈夫か、ティティーリア」
助け起こされ、呆然とティティーリアはマラウクを見つめた。
「何……あれ。なんだったの」
ようやく生きた心地がして、深く息をつく。
掴まれた腕がまだじんじんする。見れば手首にくっきりと指の跡が残っていた。
おかしなことばかりだ――外の世界へ出てから。どうして、と叫びたくなる。
「――すまなかった」
涙が浮かびそうになった時、唐突にマラウクに引き寄せられた。
――え?
「一人にしてすまなかった」
ティティーリアの耳元でマラウクが呟いた。きつく抱き締められ、再び生きた心地がしなくなる。
そのまましばらく、マラウクの腕の中でティティーリアは放心していた。
* * *
「不思議なところだな、マリオンは。来るたびに景色が変わっていく」
まるでさなぎが蝶になるように。
客間の窓辺から遠くに広がる街並を見渡しながら、男は皺の刻まれた口元にかすかな笑みを刻んだ。
年は初老に差しかかったあたり。白髪に近いグレーの髪を後ろで一まとめにし、焦げ茶のリボンできっちりと結っている。体型通りにあつらえた同じ色の三つ揃いとかっちりと締めた綿地のクラヴァットからは、彼の堅気な性格が滲み出ているようだった。
「これも総督閣下のご仁政のおかげか、それとも腹の足しにもならぬ虚飾か、どうお考えですかな、ヘルヴォル卿」
男が振り返る。ご自慢の薔薇酒を二つのグラスに注ぎながら、屋敷の主人ヘルヴォルは、早くも男の訪問を喜んだことを後悔した。
「到着早々、もう悪口か。お前の辛辣さは変わらんの、マーカスよ」
ほれ、と飴色の液体を注いだグラスを長年の友に差し出し、自分のグラスを掲げる。
「疑問は感じないのか? 染み一つ受け付けない白亜の街が、見た目通りの平和を本当に 維持しているのか」
同じように杯を掲げ、マーカスと呼ばれた男は銘酒を口に含む。だが飲み込んだ途端、うっと顔をしかめた。
「――ううむ、強いな。こんなものを昼間から飲んでいるのか。これでは頭が回らんはずだ。よいどれ騎士め」
「何を言う。最高級の薔薇酒だぞ」恰幅のいい体を仰け反らせるようにし て胸を張り、ヘルヴォルは琥珀の液体を飲みほした。
「それにお前の悪たれ口につきあうなら、酒でもないとやってられん。わざわざ文句 を言いにアイセルから来たのか? わしに八つ当たりをしてもどうにもならんぞ」
「そうではないが」
冷めた声で否定し、アイセル州領主マーカス・ロウド・ケイマンは赤茶色の瞳をすいと窓の外へ移した。
老いの気配が漂う細面の顔立ちは、これといった特徴がなく平凡で目立つ要素はない。だが彼の持つ目の色は、見る者に深い印象を与える。
「それが私がここから離れた理由なのだから仕方ない。この間の晩餐会の時も思ったが、 長居すべき場所ではないな。今回は娘のお守りで仕方なく来た」
「娘? ほう、アナシアか! もうずいぶ見とらんのう。連れてこなかったのか?」
「――そうするつもりだったが、さっそく行方をくらましてな。今探させている。まった く自分から、聖旬節を見てみたいと言い出して」
「はははは! まだあの跳ねっ返りぶりには手を焼いておるようじゃの。お前の子ならば いつかミトの嫁にと思っていたが、うちの軟弱息子では手に負えそうにないのう」
客間に笑い声が響き渡る。この部屋はヘルヴォルの私室と繋がっており、本当に親しい者だけを招き入れる場所だった。
「――私自身、本当に自分の子かと疑いたくなる時があるよ。どこをどうしたらあのような無茶な性格になるのか」
気難しく眉間に皺を寄せたまま、マーカスが嘆息する。
「そうか? 率直で曲ったことが嫌いなのはお前とそっくりじゃろうが。その目もな」
ヘルヴォルの言葉に、熟れた石榴を思わせる暗赤色の瞳が反応を示す。燃えるような鮮やかな炎にも、闇に落ちゆく落陽にも見える不思議な虹彩――惑わしの効かぬ冷静な気質であるこの男の持つ、生命感溢れるこの色がヘルヴォルは好きだった。
「それにお前とてずいぶん激しい性格をしておるぞ。議会では常に議論を起こし、貴族院の反感を平然と買うわ、気が向かなければ招集をすっぽかす。領地にひきこもってからは随分と大人しくなったが、昔は脅威だったぞ」
空の杯に並々と酒を注ぎ、ヘルヴォルは酒瓶の口をマーカスの方に向ける。まだ半分以上残っている自分のグラスを示し、マーカスは首を横に振った。
「そうだな。平民議員であったら、粛清の対象になっていただろうな」
「……笑えんよ」酒瓶の口を引っ込めヘルヴォルは唸った。
「だが事実だろう」
部屋の角にある金色の置き時計の針がカチリと動いた。
「この国はうまく治まっている。歴代の総督が引き継いだ不変を基盤とした体制のおかげ でな。厳しい課税もなく、平均的な暮らしを人々は営み、特権階級は代々伝統の通りの役 割をこなす。女神の都は栄え、華やかに変貌をとげた。――だが闇の部分も徐々に膨れ上がっている。不穏分子は次々に葬られ、多くの変化を叫ぶ声が不条理に消されていった」
陽射しが、晴空を見上げたマーカスの目の中で弾けた。
「変化を求める者が罰せられ、不変を受け入れる者が残される。なんと奇妙なことか。“声”を摘み取ってはいけないのだ――己らの世界を切り開いていこうとする者たちの。もう我々貴族という枠組の者達が重んじる理法は古い。そう感じぬか?」
伝説の騎士の後裔よ――窓を背に、マーカスが向き直る。挑戦的な問い掛けに、ヘルヴォルはこほんと咳ばらいをした。
「確かに、近頃の諮問会の動きは無秩序化しつつある。粛清は国家の存続のために必要な政策じゃが、……わしからきちんと進言しよう。言いたいことはわかる。じゃがなマーカス――そういう革新的な考えを受け入れる柔軟性が、今の総督府にはない。わしが今お前に賛同したとしても、わしの力だけで解決できる問題ではないのだ」
「……そうだな。正しく成長し、人々を導く新しい人材がこの国には必要だ」
ヘルヴォルは目を見張る。口角をゆるりと持ち上げ、マーカスは年代物の薔薇酒を一気に飲み干した。嫌でも出されたらきっちりと片付ける、それがマーカスの流儀だった。
「……昔、なんといったかな。いい目をした若者が元老院にいた。十年以上前のことだが。議会の圧力にも臆することなく立ち向かおうとしていた。……粛清に巻き込まれ、牢獄に落とされたと聞いたが。あのような民衆の力が必要なのだ。この国は変わらねばいけな い。この聖旬節を機に。――新たな力の台頭が望ましい」
“新たな力の台頭”――それは総督府崩壊を意味する言葉である。
「目を逸らすな、カイゼン。長きに渡りこの地を守ってきた一族の出ならば、私以上にわかっているだろう」
この平穏の不自然さに。
酒で高揚しかけた気分が冷め、白髪白髭の獅子はグラスを置いた。
「……フリストには黙っておいてやる。お前の身のためだ。この話を他ではするなよ」
強張った表情で、ヘルヴォルは重いため息を吐き出した。獅子という異名に似つかわしい峻厳な面持ちは、しかし長くは続かなかった。
「まったく何を考えるかと思えば」額を押さえ、頭上を仰ぐ。
「長年のつきあいだが、お前はやはり過激な男じゃよ。さあ、飲め! もうすぐ客人が来る。そういう日は小難しいことは考えないと決めておる。まずはお前も今回の旅を楽しめ」
ボーン、と時計の鐘の音が鳴った。
波乱の予感を抑え、ヘルヴォルはマーカスの杯に美酒を惜しみなく注ぎ込んだ。
予定より遅れてヘルヴォル邸に到着したマラウクとティティーリアを迎えたのは、つい先刻別れたばかりのエンリケ・アナシア・ケイマンだった。
「待ってたよ! 二人とも」
活き活きと明るい赤色の髪がティティーリアの頬に触れた。挨拶する間もなく抱き締められて、ティティーリアは戸惑う。
「暴漢に襲われたんだって!? 大丈夫なの!?」
離れたと思ったら今度は両肩を掴まれ、思わずマラウクと顔を見合わせる。
「エンリケ、どこからその話を?」
「僕だよ」
書状をひらひらと頭上で振りながら、ミトが現れる。
「ディーンが伝令を寄越したよ。『婚約者殿の手当てが終わり次第、総令をそちらへお送り致します。なお、事後処理はこちらですみやかに行いますので、わざわざご足労は頂かなくて結構です』ってね。出来た副官だねえ、マラウク。なんとなく悪意は感じるけど。ていうか、どういうことなの? このこん……」
「あーーっ! 怪我してるじゃない、ティティ!」
前に出ようとしたミトを肘で押しのけ、エンリケが叫ぶ。胸を抱えて呻いたミトにはらはらしながら、ティティーリアは包帯を巻かれた腕を押さえた。
「たいした怪我じゃないの。大げさなだけ……」
「何やってるの、マラウク! キミ、騎士でしょう!? 婚約者を守れなくてどうするんだよ!」
エンリケがマラウクに詰め寄る。
「マラウク…様のせいじゃないの。彼はちゃんと守ってくれたわ。それに、本当に少し赤くなっているだけで」
「だめよ! 傷でも残ったら大変なんだから!」
圧倒されるほどの剣幕に、ティティーリアはたじろぐ。まるで自分のことのようにエンリケは真剣だ。
「―――っー!ちょっと!! 僕を無視するなあっ」
上半身を折り曲げ呻いていたミトががばっと起き上がった。
「エンリケお前、何様のつもりだよ! 痛いだろっ」
「ふん、何よそのくらいで。キミも一応騎士なんでしょ。女の力で痛がるなんて、かっこわるーい」
「な」マリオン中に取り巻きがいるほど人気を博す白皙の美青年は、幼なじみが放った屈辱的な一言に顔を赤くした。
「お前のどこが女だよ! 口応えはするし、こうやって人の家の玄関先で騒ぐし! 冗談じゃないよ! 少しは領主家の娘らしく大人しくしてろよ! 僕は一刻も早くマラウクに婚約の真偽を確かめたいんだよっ」
「聞くまでもなく本当だよ。ねえ二人とも」
エンリケが振り返る。「マラウクはティティと婚約するのよね」
「ティティ?」
ミトが形の良い眉を寄せる。そして不思議そうにティティーリアを見た。
「ティティってなんだよ。ルイーゼ嬢だろ?」
「はあ? ルイーゼって誰よ」
エンリケとミトが「え?」と顔を見合わせる。
――そうだった。
ミトはティティーリアをゲオルグの従姉妹ルイーゼだと思っているのだ。そしてエンリケには本名を告げてしまった。すっかり忘れていた。
――まずいわ。
ティティーリアはマラウクを見上げた。このままでは嘘がばれてしまう。だがマラウクに焦っている様子はなかった。
「ミト、ヘルヴォル卿はいらっしゃるか?」
「へ? ああ……うん。ケイマン卿と部屋にいるよ。――マラウク、あの、どういうこと? 彼女はコレッティの従姉妹じゃ……」
忙しなく三人の顔を見比べているミトの言葉を、マラウクは軽々と遮った。
「来て早々だが話がしたい。取り継いでもらえないか?」