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17 行き場のない思い

「あら、もうよろしいんですの?」


 テーブルの上に並ぶ皿の中身を見て、ベル夫人が目を丸くした。

「ええ……ごめんなさい。食欲がなくて」

 カーテンを閉めきった窓辺で揺り椅子に身を沈めたまま、ティティーリアは力なく答えた。

「でも一口も召し上がっていらっしゃらないじゃありませんか。せめてスープだけでも」

 気遣うその声にティティーリアは首を横に振った。ベル夫人がしゅんとした様子で眉を下げる。丹精こめて作った料理が、手つかずのまますっかり冷めきっているのにがっかりしているに違いない。

 言い訳ひとつでもすべきなのだろう。だが今は何も浮かばない。小さく「ごめんなさい」と呟くので精いっぱいだった。


『いいお天気ですから、お庭をご覧になりながらどうぞ』

 部屋の半分の窓のカーテンを開け、テラスへ続く明るい窓辺にベル夫人は食事の用意をしてくれた。

 食事を置いて彼女が退室した後、ティティーリアは清潔な白のリネンで整えられたベッドを降りた。

 せっかく用意してくれたのだから、少しでも食べようと思ったのだ。だが明るい場所へ近づく気になれず、閉め切った窓辺に座り込んでしまった。

 それから一時間以上もぼんやりと薄闇を眺め、心が絶望に蝕まれていくのをただ静かに受け入れていた。

「では、何かご入り用の時は遠慮なく呼び鈴を鳴らしてくださいませね」

 無反応に近いティティーリアに何も追求することなくやさしく言うと、ベル夫人は食器を片づけ始めた。そしてワゴンを押して部屋を出て行った。


――体中が石になったように重い。


 目が醒めた時から徐々に悪化していく。

 まるで体中の血液が鉛にすり替えられ、少しずつかたまっていくようだ。

 何もしたくない。

 どこで意識をなくしたかわからないくらい十分眠ったはずなのに、なぜこんなに疲れきっているのだろう。


――何も……ない。


 陽だまりの出来た明るい窓辺で、レースカーテンが舞い上がる。空になったテーブルを包み込むように大きく、やわらかに。

 生気のない紺色の目の中でその穏やかな波が、揺らいだ。


――もう、なにも。


 やっと、明るい場所へ戻れると思ったのに。

 拭いきったはずの涙がまた頬を伝っていく。

 やっと会えると思ったのに。

 ひとすじの光はあっけなく衰え、暗闇に飲み込まれた。

 もう遠くて手が届かない。

 眩しい場所へはもう行けない。導いてくれる手を失ったから。


「――セイク兄さん……」


 何度呟いただろう。

 呼ぶたびに、優しい微笑みが雪のように溶けて消えていく。

 白い薔薇に埋もれて横たわる姿が何度も脳裏をよぎる。違う、あれは兄さんじゃない――何度も言い聞かせようとするのに、その残像を振り払うことが出来ない。

 青白い顔や、閉じた瞼の形、鼻筋や唇、金色の髪、確かに兄のものであるたくさんの輪郭が。この目ではっきりと見た兄の“死”が、焼印のように刻みつけられていく。


――どうしてよ。


 どうしてなくしてばかりなのか。いったい、自分が何をしたというのだろう。

 誰も理由を教えてくれない。ただ――奪い取っていくだけ。

 椅子の上でティティーリアは膝を抱え込んだ。


 みゅう。


 泣くことだけが手元に残った唯一の持ち物であるかのように涙で膝を濡らしていると、小さな鳴き声が聞こえた。

 顔を持ち上げれば、いつの間にか椅子の縁に白い小さな兎がちょこんと座っていた。

「……ブランカ」

 みゅう。

 もう一度鳴いて、ブランカは白く長い耳をふわふわと浮かせながらティティーリアに近づき、足元に擦り寄った。そして小さな顔をくいと上向かせて大きな赤い目でじっとティティーリアを見つめると、膝に飛び乗った。

「……なぐさめに来てくれたの?」

 涙で濡れた頬をぺろぺろとブランカが舐めだす。まるでティティーリアの抱える悲しみを拭おうとするように。

 二枚の小さな翼がしまわれた背中をティティーリアはそっと撫でた。

「ブランカ……あなたが助けてくれたのよね」

 ステンドグラスを突き破って現れた白い獣――獰猛さをそのまま具現化したような鋭い牙と爪を持つ魔獣にティティーリアは救われた。

 

 その背に負われてこの屋敷まで運ばれ、中庭らしき場所に降ろされたのだ。

 しっとりと柔らかい、甘い芳香が漂っていた。

 漆黒の暗闇の帳の中には、ぽつりぽつりと淡い灯が浮かんでいた。

 夜に咲く花のような小さな灯火たちは、囁きあうように夜陰の中で揺れていて。なんだか夢と現実の狭間にいるような、そんな曖昧な心地で。

 その向こうからやってくる人影に気づく前にティティーリアは見たのだ。

「あの大きな獣が、あなただったなんて……」

 人の体を弾き飛ばし牙を剥いた狂猛さなど微塵も感じさせない愛らしい姿を、ティティーリアは腕に抱く。

 あの大きな体が小さなうさぎに変化する瞬間シーンを目の当たりにしても、今だ信じがたい気持ちだった。

 女神に仕えた神獣の末裔だと、確かそんなことをミトが言っていたような気がする。

 だが確かめようにも今はただの“白うさぎ”のブランカは、みゅうみゅうと甘える声を出し人懐こく体を摺り寄せてくるばかりだ。首筋をさすってやれば、気持ちよさそうにブランカは目を細めて上を向いた。

「……あの人に言われて来たの?」


 昨晩のおぼろげな記憶が浮上する。

“ブランカ”と呼ぶ穏やかな声で、ティティーリアは人の気配に気づいた。

 地上に落ちた月明のような仄明るい常夜灯の向こうから現れたのは、マラウクだった。その時、獣の背に乗って運ばれた先がクレイヴランス邸だとティティーリアは悟ったのだった。

 急に糸がぷつりと切れて、その場で泣き崩れた。

 さまざまな思いが一気にあふれ出して。どれが涙の理由なのかわからないくらいに。

 マラウクが近づいてきて何か言った気がするが、よく覚えていない。いつ意識をなくしたのだろう。

 気づいたらベッドの上にいて、夜は明けていた。目を覚ましたのは以前ここに運ばれた時と同じ部屋だった。

「どうして……私を助けたの?」

 まっすぐに自分だけを写すブランカの瞳をティティーリアは覗き込む。

 どうやって居場所を知ったのか。

 首を絞め意識を失わせた後、ゲオルグがあの不思議な場所に運んだに違いない。

『なら会わせてやろう』

 初めからゲオルグはセイクリッドの居場所を知っていたのだ。もう生きてはいないということも。その上で取引を持ちかけティティーリアを利用した。

 そしてあの薔薇の庭に連れて行き、変わり果てた兄の姿を見せしめたのだ。


――あのひとが……兄さんを殺した……。


 スタンリー・レギン・フリスト、そう名乗ったとはいえあの男は本当に総督なのだろうか。

 まるで精巧なガラス細工の人形のように、無機質な美貌の男。

 美しすぎて恐ろしかった。声や物腰は穏やかなのに、人の温度を感じなかった。

 笑っていた、ただの傍観者のように。兄を見下ろして。

 まるで虫けらを踏み潰しただけとでもいうように冷たく。


――許せない……。


 誰であろうと。どんな理由があろうと。

 そばにあったあの骸骨も、セイクリッドと同じように殺されたのだ。あの薔薇の維持のために。人間の肉体を花の養分にするなんて――

 震える唇をきつく噛みしめる。激情が悲しみを引きちぎり飲み込んでいく。

 最初からすべて仕組まれていた。ゲオルグも共犯だったのだ。

 偶然を装って緻密に計画された――はじめから必死だったのは自分だけだったのだ。

「ばかよね……私。最初からなにもかも無駄だったなんて」

 自分の意志で動いているつもりだった。けれどそうじゃなかった。

 ただ押し流されて、何もかも失って今にたどり着いたのだ。


 みゅうっ。


 腕の中でブランカが苦しげに鳴いてもがきだした。

 力加減を忘れていたらしい。はっとして腕を緩めると、敏捷な動きでサイドテーブルの上に飛び移った。

「――あなたのご主人様も、私を利用しようとしているの?」

 何に、なのかはわからない。

 だがマラウクは、政治的立場上でも身分上でもゲオルグやスタンリーと密接に結びついている。

 考えてみれば共通点はいくつもある。

 セイクリッドのことを知っていたのもそうだ。永久牢獄にはいないと断言した。

 そして二度も窮地を救われた。いや、本当はそう見せかけているだけなのではないか。

『俺は君の味方だ。信じてくれ』

 馬車の中でそう言われた時、この人ならば信用出来るのかもしれないという錯覚に陥った。たったそれだけの言葉なのに、心にすうっと風が通ったように楽になった気がしたのだ。

だが、今は怖い。

「どうして……私なの?」

 

“イクレシア”


 スタンリーの囁きを思い出す。

 それは女神の名。この国のならば誰でも知っている。だが間違いにしては確認に満ちた響きだった。

 わからない。

 わからない――

 わからないことばかり。



「……開けないのか?」

 ぱさっという小さな羽音をたててブランカが飛び立った。

 小さな翼を器用に動かしながら、一人の青年の佇む扉の方へと向かう。そして導くように差し伸べられた腕へと降り、肩へするするとのぼった。

「こんな暗い所にいたら気が滅入る。外はいい天気なのに。テラスにでも出たらどうだい」

 ベル夫人が食事をさげた窓辺のテーブルへ歩み寄り、長い指がレースカーテンをそっと押し広げる。隙間から差し込む陽光が青年がまとう礼服の白さをいっそう引き立てた。

「……明るい所にいるほうが……気がおかしくなりそうなの」

 非の打ちどころのない端麗な微笑みをよこした屋敷の主人から目を背け、ティティーリアは白い夜着で隠れた膝を抱えた。

「食事をとっていないって? ベル夫人が心配していた。食欲がなくても少しくらい食べたほうがいい、顔が青白いよ。あとで温かいスープでも作ってもらおう」

 明暗で分かれた部屋の境目からマラウクがやさしく宥めかけるように言う。ティティーリアの心情を察してか、それ以上近づいてくる気配はなかった。

「どうして、あなたは」

 いいえ、と首を揺すりティティーリアは言い直した。「どうして……あなたたちは私に構うの?」

「あなたたち?」

「……わかっているんでしょう、本当は全部。私のまわりで起きていること、最初から知ってるんでしょう」

 膝を抱え込んだままリンネルの夜着を握り締める。

 足が冷たかった。失意が皮膚を伝って少しずつ体温を破壊しているように。

「私は何も、何一つ知らない……」

 ギシリ、と揺り椅子が軋んだ。

「――俺は君の敵じゃない」

 マラウクの返答に、ティティーリアはふっと顔を上げた。

「私が聞きたいのは言い逃れの言葉じゃない。……満足出来る答えなの。あなたは私に『信じろ』と言った。でもいったい何を? 確かに私を二度も助けてくれた。助けてくれたのだと思う。でも、それだけで何もかも善意だと判断するのは……怖いわ。目的は何? 何が望みなの?」


 どこに真実があるのかわからない。

 なにが真実なのかも。

 すべてが虚偽のように見えて、聞こえてくる。自分以外のものが信じられない。そんな人間になりたくはないのに。


「――そうだな」

 光差す窓の方を向いたまま、わずかにマラウクが俯いた。

「君が警戒するのは当然のことだ。ただ一方的に信頼しろと言葉を押し付けるのは乱暴だな。そんなことで君の信用を得ようとは……虫がよすぎる。だが君に――何も告げずに済めばその方がいいと思っていたんだ。何も知らず幸せに過ごしていければと。だが歯車は動き出し、君を引きずり込んだ。俺が悠長に構えていたせいだ……すまない」

 すまない、そんな言葉がいまさら何になるのか。

 膝を抱く両手にティティーリアは力を込めた。

「悠長に……ってあなたは何が起きるかをやはり知っていたってことなのね。兄さんが殺されることも……! どうして、どうして何も教えてくれないのよ! この先私は他に何を失うの!? それをただ待っていなくてはならないの!? いやよ、もういや……! どうして私だけこんな――」

 気持ちの粗ぶるままに叫んだティティーリアの剣幕に、ブランカがびくりと震え毛を逆立てた。

 指先でそっと首筋をさすり警戒心を解いてやりながら、マラウクはティティーリアに向きなおる。

「君は特別なんだ」

 選びぬかれた要素で作り上げられたような端整な相貌が窓辺を離れ、ゆっくりと近づいてくる。影の境界に踏み込んだ白亜の騎士を、ティティーリアは熱くうるんだ瞳でねめつけた。

「私は普通の人間だわ。何も持たない、何の価値もない」

「ああ、そうだ。でも何も持たず純粋だからからこそ、重要であり……危険でもある。君は生まれるべくして生まれた、唯一無二の存在なのだから」


――何を言ってるの?


「君に見せたいものがある」

 ティティーリアの上に己の影を留め見下ろしたまま、マラウクの手がカーテンに伸びる。

「一緒に街まで来てほしい」

 突き刺すような眩しさに、ティティーリアは顔を背けて目を瞑った。

「それからすべてを話そう」

 一瞬で影を払った眩しい陽光が、ティティーリアのいる場所にぬくもりを導く。

 瞼を押し開けマラウクを仰ぎ見れば、その向こうに一点の曇りもない蒼天が広がっていた。


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