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15 白い狂気

 氷塊のように冷たい手が背後からティティーリアの首筋を撫でた。

 突如透明なインクをぶちまけたかのように白い床が消え、足元が一面白い薔薇で埋め尽くされる。

 そしてその大輪の薔薇の中に埋もれるようにして、横たわる人の姿があった。


「きゃあぁああっ!!」


 色褪せた金の髪に、目を閉じてはいるが自分とよく似た面差し――それは紛れもなく、ティティーリアが求めていた兄・セイクリッドの変わり果てた姿だった。


「いやああああぁっ!! 兄さん!!」

 別人のように成り果てたその姿に手を伸ばそうとするが、ガラスの床に阻まれる。

「兄さん!! 兄さん――! どうして……つ!!」

 びくともしない床を、ティティーリアは力いっぱい両手で叩き続けた。

 セイクリッドの顔には透明な水に近いほど色がなく、生気を失っている。

 その体には何本もの茨が絡みつき締め付けている。心臓までも貫き獰猛に絡み合うその蔓を母体として、純白の薔薇が凄烈な生気を放ち、眩い光華を振り零していた。


信じたくない。


溢れる涙がガラス越しに兄の顔の上に落ちる。だが閉じた瞼は微動もしない。優しく微笑みかけてくれるはずの紺色の瞳は開いてはくれない。

「無駄だよ。彼はもう目を覚まさない。もうすぐね、朽ち果てるんだ。ほら、彼女みたいに」 後ろからティティーリアの肩を抱き、スタンリーはセイクリッドのすぐ横を指差した。

「ひっ……」

 上げようとした悲鳴が喉でつかえて途切れた。

 薔薇の褥に埋もれて横たわっていたのは、かつて人間だったものの名残だった。

「かわいそうだねえ。見つけた時は、本当に美しかったのに」

 感情の欠片もない淡々とした声音が恐怖を煽り立てる。

 長い髪は色が抜けきって白く、全身白骨化していて一見では男女の判別もつかない。 複雑に絡み合う茨の下に、その骸は壊れた玩具のように捨て置かれていた。

「どうして……どうしてこんなことを!! 人殺し……人殺し!!」

 抱き寄せようとするスタンリーを突き飛ばし、ティティーリアは力の限りの罵声を叩きつけた。だが振り上げた腕を掴まれ、強引に引き寄せられる。「どうして? ひどいな、君の為じゃないか……その為に僕らは生きなければならなかった。だから花が必要だった。なのに、責めるの? だめだよ、そんなことは許されない。君は使命を全うしなきゃ」

 泣き濡れたティティーリアの頬をスタンリーの指がなぞっていく。噛み締めた赤い唇まで辿ると、その指をこめかみの辺りから髪の間に差し入れさらに引き寄せようとする。

「私も殺すの? 兄さんみたいに……!」 熱を帯びて赤く潤んだ瞳で、ティティーリアは重なり合うほど近くまできた男の顔を睨みつけた。認めたくない真実に、涙が止まらない。渦巻く怒りの炎に、全身焼き尽くされそうだった。

「とんでもない。君はもっと優れた“器”なんだよ。もっとすごい花を咲かせられる――女神を宿した“秘天の薔薇アンジェローザ”をね――」

 銀色の双眸が光を孕んだように白く煌めいた。マスクの向うから聞こえるくぐもった声が、子守唄のように穏やかになっていく。

「う……っ」

 激しい耳鳴りに襲われてティティーリアは思わず両目を瞑った。

 スタンリーの手が置かれたこめかみが熱い。頭の中に何かが流れ込んでくる。閉じた瞼の裏で火花が散った。


「さあ、思い出して――」


 初めに聞いた時のような甘美で柔和な囁きが耳朶に触れた直後、ティティーリアの中で何かが起こった。

意識下で押さえ込んでいるはずの様々な感情が、突然濁流のように溢れ出した。哀しみ、憎悪、怒り、恐怖、すべてが混ざり合い混沌とした黒いどろどろとした塊となってティティーリアの内部で膨らみ始める。


「本当の貴女を――」


 自分のものなのに、制御することが出来ない。

 燃え盛る鉄を当てられたように体の芯が熱くなり、鼓動が心臓を痛めつけるようにドクドクと重く脈打つ。


 苦しい、怖い。いけないこのままでは――


「いやあぁあっ!!」 どす黒い灼熱の炎が破裂しそうになる寸前で、ティティーリアは叫んだ。耳元でパンッと空気が弾け飛ぶ。体を支配していた熱が引いていくのを感じた。

「――なぜ……」

 弾き返された手を押さえ、スタンリーが駭然と呟く。

「なぜ、拒むの? 君も望んでいたじゃないか」

 手の甲についた一筋の傷から、血がひとすじ流れ出す。だがそれは赤い鮮血ではなく、泥の塊のような黒ずんだ液体だった。

「この世界は汚れて醜いって――だからきれいにしようって、言ったじゃないか。何もかも消して罪を清めて、もう一度やり直そうって」

 黒い血を流す青白い手をスタンリーが伸ばす。



「ねえ、イクレシア?」



 すがりつこうと忍び寄る氷柱のような指先から、ティティーリアは目を背けた。


――いや!!



 バアァァァン!!



 心の中で発した拒絶に応えるように、強烈な破裂音が辺りに響き渡った。 洞穴のような空間は消え、一瞬にしてもとの白い部屋に舞い戻る。壁一面のステンドグラスが砕け、虹色の欠片が空中に飛び散った。

 そしてその向こうから、一匹の大きな白い獣が飛び込んできた。

「オルフェウク……!」

 長いローブを払い、スタンリーがゆらりと立ち上がる。

 二枚の大きな翼をはためかせ、白い魔物が飛び掛かってくる。火炎を固めたような真紅の瞳がかっと見開かれ、咆哮が轟いた。

「スタンリー様!!」 

 どこからともなく少女の声が飛び込んできた。

 頭の先まで黒い外套に身を包んだ小柄な人影が二人の前を塞いだ。

 腰から短剣を抜き、白い獣めがけて跳躍する。頭部の布が後ろへ剥がれ、現れた赤い髪がなびいた。

 ひらめく白刃が魔獣の紅眼を狙う。だが前足による激しい一撃が、少女の細い体を薙ぎ払った。

「アンネル」

 小石のように弾き飛ばされた少女の名を、スタンリーの声が呼ぶ。だがその姿を追う間もなく、白い気配が猛然と襲い掛かった。

「きゃあぁっ!!」

 鋭い爪が、スタンリーを壁際へ弾き飛ばす。風圧を食ってティティーリアの体も跳ね上がった。

 床に叩きつけられる。

 覚悟したが、その硬い衝撃はやって来なかった。


「え……?」


 柔らかいふさふさした毛の上に転がり、目を瞬く。

 それが魔獣の背中だと気付いた時にはもう、地面は遠くなっていた。


「ふふ……ふ……」


 壁際に背中を預けて項垂れたまま、スタンリーは肩を小刻みに震わせた。

 白いローブの肩や月光に染めたような淡い銀の髪から、ステンドグラスの欠片がぱらぱらと零れ落ちる。

「やっぱり……邪魔をするわけだね、ファル」


――最後の最後まで、廉潔な騎士として。


 がくりと垂れていた首をゆっくりと起こす。骨の軋む音にかすかに息が乱れた。

「スタンリー様……」

 腕をおさえ足を引きずりながら、少女が主の元へと近付く。まだあどけなさを残す顔の半分は血に染まり、生々しい爪痕が残っている。

 苦しげな息を途切れがちに漏らしながら、少女は緋色の瞳で黙ってスタンリーを見つめた。

「譲らないよ……今度こそ、絶対に」

 目元に刺さったガラスをスタンリーが傷を負った手で引き抜く。赤黒い血が白い頬を伝い、マスクに染み込んだ。

「彼女、はわたしの物なのだから――」

 乱れた髪の間から覗く銀色の虹彩が、陽炎のように揺らめく。

 静かなる狂気を得て嬉々とした妖笑を浮かべ、男は砕け散った窓の向こうの闇を見つめた。








『君が幸せになるその日まで、見守っているから』


 

 目を開けると同時に、涙が零れ落ちた。

 瞬く度に、視界が滲む。

 側にいたはずの大好きな温もりを、優しい声の持ち主を探そうと手を伸ばす。だが掴んだ手には何の感触もなく、夢を見ていたのだと教えられる。

 幸福だった戻れぬ日々の思い出と追慕し続ける面影が、見覚えのある白く平らな天井に霞んで消えた。

「兄さん――っ……!」

 引き止めようと跳ね起きる。張り裂けそうな切なさが喉をついた。

 行き場のない悲しい痛みが、小さな胸を苛酷なまでに締めつける。沸点を超えたように、絶望と喪失感が溢れ出す。

 最後に見た彼の笑顔が、言葉が、遠ざかっていく。

 もう、戻れない。

 白いシーツを握り締める手を、渇えを知らぬ熱い雫が濡らした。


 日溜りを包み込むように、レースのカーテンが窓辺で揺れている。

 悲涙にむせぶその姿を、寧日の穏やかな時間は黙って見つめていた。










 丁寧なノックの音に、執務机からマラウクは視線を上げた。

「失礼致します、総令」

 右翼騎士団アウストリの隊服を模範的にきちりと着こなした若い男が、双翼騎士団本拠である軍廷コート右翼部、司令室の扉から顔を出した。

「先ほど届けられた報告書をお持ちしました。――ウィランの水路で発見された女性死体の件です」

 上質のオーク材で出来た机の前で止まり、小脇に抱えていた書類を差し出す。インクに浸そうとしていたペンを置いて、マラウクはその青い用紙を受け取った。

「――ありがとう。それで、状況は? ディーン」

 素早く書面に目を通し、副官を務める男に視線を上げて促す。

 その反応を想定していたらしく、ディーンと呼ばれた逞しい体躯の青年は、難色を示す険しい面持ちで待っていた。

「まだなんとも。……カーツの詰所からの伝令によりますと、奇妙な点が多くあるということで」

「どういうことだ?」

 書上にはない意味深な言葉に、マラウクは眉をひそめた。


 マリオン近郊都市カーツにほど近い色街、ウィランで死体が発見されたのは、誘い火が消え街が眠りにつこうとしていた明け方だった。

 花街の中心部を流れる水路にかかる橋のたもとに女がうつ伏せに倒れているのを、酔いつぶれて帰る途中の客の一人が見つけ、騎士団から派遣された巡察官のいる詰所に駆け込んだという。


「それが――外傷のようなものはいくつかあるそうなんですが、死因に結びつくものはなく、まるで餓死したかのように痩せ衰えていたと……。顔はほとんど骸骨状態でわかるのは赤毛だというくらいで、身元確認に時間を要するとのことです」

「――そうか」

 空欄の多い報告書に、マラウクは小さく吐息をを落とす。現場検証にあたった巡察官の戸惑いが伺えた。

「ですが、一連の“娼婦失踪事件”の被害者である可能性が。そちらには明記されていませんが、女の手首の内側に黒薔薇の蕾の刻印があったということです」

「蕾……魔性窟の“花売り”か」

 はい、とディーンが硬い面持ちで頷く。

 報告書を持つ手を机上に下ろし、マラウクはもう一方の手をこめかみに当てた。

 

 色街には二つの種類がある。

 総督府公認の公娼街こうしょうがいと、非公認の私娼街ししょうがいだ。

 買春行為を公に行える公娼街に対しもぐりの娼館の集まる私娼街は、各地の市街に付随するような形でひっそりと形成され、侮蔑の意味をこめて巷間では“魔性窟ましょうくつ”と呼ばれている。

“花売り”とは、街娼になりたての十五、六の少女の呼び名である。彼女たちは魔性窟界隈の路地で花かごを片手に男たちに色を売る。それが名の由来だ。

「黒薔薇の蕾の刻印は魔性窟の女だけが持つ印ですから、売春婦とみてまず間違いないでしょう。ウィランの娼館をくまなく当たらせます。しかし彼女が行方不明者の一人だとしたら、初の被害者発見となりますね」

「……そうだな」黒い天鵞絨張りの椅子をくるりと一回転させ、マラウクは背後の大窓の向うを見上げた。


――ついにロジスティ州まで手が伸びてきたか……。


 七州のあちこちで続発している謎めいた失踪事件は、いまだ一人の発見にも至っていない。

 手口は毎回同じ。現場となった私娼街の路地からは散らばった花と花かご、そしてわずかな血痕が発見されている。だが被害者の姿はなく、悲鳴を聞いたという者はいても目撃者はいない。

 初めは悪ふざけか、夜逃げだと思われていた。

 色街の女たちは、身寄りをなくしたり、借金の形に売られてきた者ばかりだ。当然体を売るのを拒んで逃げ出す者も多い。しかも魔性窟にいる娼婦たちは公娼地よりも地位が低く、不当な扱いを受けることがしばしばある。

 だが他州他方でも同じような事件が起こり始め、同時期に“花売り”の少女たちが忽然と姿を消していることが明らかとなった。各地から寄せられた類似事件の報告は、ここ三、四ヶ月で三十件近くに膨れ上がっている。

「ディーン」

 日に日に鮮やかさを増す夏の訪れ間近の蒼空を同色の瞳にとらえ、マラウクは部下を振り返った。

「取り急ぎ、捜査を続行させてくれ。カーツの巡察官らの手に負えぬようなら、騎士団こちらから派遣を。検死報告も早めに頼むと」

「了解いたしました」ディーンが面持ちを硬くする。得意とする長剣を操る時のような引き締まった空気が瞬時に彼を取り巻いた。

「では手すきの部隊より、ただちに数名の従騎士を手配いたします」

「――ああ。迅速に、それから」

「わかっています。“高等院ラス”のお気に召すよう、穏便にですね」

 生真面目そうな軍人の顔で針のある物言いをするディーンに、マラウクはふ、と笑い零す。

 “ラス”とは隠語で“掃き溜め”を意味する。

 高等院のことを皮肉って、軍廷コートの者たちは陰でそう呼ぶ。普段苦言一つ漏らさない有能な補佐官も、胸中では鬱憤が溜まっているのだ。

「ただの出奔事件ならこちらも楽だけどな。違うと知っているからこそ、隠しておきたがるんだ。関係者の口封じをしたがるのもそういうわけだろう。今回の件に何らかの繋がりがあるとわかれば、上とて黙過は出来ない。自分の近くに火の粉が飛んできたと気付けば、燃え広がるのを怖れて堆積の中から重い腰を上げるさ」

 机に肘を置き、マラウクは両手を笑みを称えた口元の前で組み合わせた。

 ディーンがわずかに目を瞠る。平時は右翼騎士団アウストリの司令官として中庸を守り、見た目通りの眉目秀麗な貴公子であるマラウクの、毒を含んだ言い回しは珍しくもある。

 だが乱れを嫌い秩序を最優先する高等院の圧力下で、思うように動けない現状を歯痒く思っているのはマラウクも同じだった。

 軍府は総督府から独立した機関であるといっても、双翼騎士団は総督の庇護のもとにある。勝手な行動は横逸と見なされてしまう。

 城下や州の治安警護や取締りを委ねられている右翼もそれは同じこと。結局それは名目上で、不都合があれば干渉される。見えない鎖でいつも繋がれているのだ。

「だが確証がなければ上申は出来ない。まずは情報を集めることだ。――よろしく頼む」

「は、すぐに対処いたします」

 畏まった一礼をしてディーンが入り口の方に踵を返す。だがすぐに「そうだ」と足を止めてもう一度向き直った。

「御覧になりたいとおっしゃられていたアローザの参考報告書を忘れるところでした。こちらです。念のため、左翼の検閲を受けたものをお持ちしました」

 騎士団の紋章の入った封じ蝋のある書状を、胸元からディーンが引き抜いて亜麻色の机上に滑らせた。組んだ両手を解き、マラウクは頷いた。

「ありがとう、助かるよ」

 では、ともう一度丁寧に退出の挨拶をしてディーンはマラウクに背を向けた。

 だが扉を開ける前で、すぐにまた立ち止まる羽目になった。


「マラウク!! 今日こそ、付き合ってもらうからね!」


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