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14 銀色の麗人

――花の香りがする……。


 よく知っている香りだ、とぼんやり揺れ動く意識の中でティティーリアは思った。

 抜けるように高い白い天井が見える。

 てっぺんから、虹色の光の柱が降りてくる。優しく温かい光だった。


――喉が……痛い。


 呼吸をするだけで、喉元が引き攣れるように痛む。

 仰向けの体勢から寝返りを打って、咳き込む。顔を埋めた枕がわりのクッションから、先ほど感じたほのかな薔薇の香りがした。

 ――へし折られるかと思うほどの力だった。

 頭の中が真っ白に染まったあの息苦しさと白い手袋の感触を思い出し、ティティーリアは首元をさすった。

「……っ……!」

 身を起こそうとして、たちまち崩れ落ちる。左の側頭部に矢がかすめたような鋭い痛みが走った。

 床に叩きつけられたせいだろう。気を失う寸前に身体を突き抜けた衝撃を思い出す。


――いったい……どうなってるの。


 深まる謎に混乱したり、襲われたり、意識を失ったり、そんなことばかりが続く。

 再びクッションに顔を埋めて、ティティーリアは息を整えた。

 目覚めたばかりの身体は、まるで自分のものではないようにいうことをきかない。だがなんとか落ち着いたところで上半身を慎重に起こし、周囲を見回した。

 白い石壁に囲まれた礼拝堂のような部屋だった。床も吹き抜けの天井も白く、部屋全体が発光しているように眩しい。


――夜だったはずなのに。


 そんなに長い間気を失っていたのだろうか。

 ズキズキする頭を支えながら、ティティーリアは横たえられていた長椅子から起き上がり、石床に足を下ろした。

 磨き抜かれた石床の、ひやりと冷たい感触が足の裏に張り付く。いつのまにか裸足になっていた。


――ここはどこ?


 天井の頂にある、美しいステンドグラスの天窓をティティーリアは見上げた。

 冬の始まりに似た、冴えて透き通った空気が降りてくる。

 時が止まったかのような静けさが室内を包んでいた。

 音を探そうとしても何も聞こえない。決して破ることを許されない――そんな厳かな神気を纏った静寂だった。


「――やあ」


 ぼんやりと上を見上げ、沈黙を甘受していたティティーリアの意識を、一つの声が弾いた。瞬時に声のしたほう――長椅子の向うを振り返る。

 壁一面の、大きな半円型のステンドグラスが目に飛び込んだ。

 虹色の淡い光が慈雨のように窓辺に降り注ぐ。その中に佇む人影があった。


――誰……?


 眩さにティティーリアは目を細めた。

 銀色の長い髪に、足元まで覆う純白のローブ。

 上背はすらりと高く、顔半分はマスクで覆われて見えない。だが七色の光の雨を浴びて佇むその姿は、まるで幻想的な一枚の絵画のようだった。


――男の……人?


 まったく気配を感じなかった。

 ティティーリアが半ば呆然と見つめる先で、その人はふわりと目元を和らげた。

「気が、付いたんだね」

 低く穏やかな声が、深寂をくすぐる。

 静かだが、深い響きを持った印象的な声だった。部屋を満たす静けさを乱すわけではなく、むしろ調律の仕方を知っているように心地よく馴染む、そんな響きだった。

 煌く光の粒子で作られたような、神々しいまでに美しい形姿が窓辺を離れる。

 ローブの裾を床に滑らせながら、男は床より一段高い台座を降りた。光に透ける白銀の長い髪が、ローブを伝って銀河のように流れ落ちる。ほとんど音もたてず優雅な足取りで長椅子の傍へやって来ると、男は恭しくティティーリアにお辞儀をした。

「あ……の」

 戸惑い気味にティティーリアが立ちすくんでいると、男が色白の面を持ち上げた。

「気分はどうかな」

 長い睫に縁取られた銀色の瞳がティティーリアに微笑みかける。

 声がくぐもって聞こえるのは、鼻から首にかけてぴったりとしたマスクで覆われているからだ。だが雪細工のような白い肌や切れ長の瞳、鼻筋や顔の輪郭だけで十分、端麗な容貌であろうと想像がつく。


――なんだろう……この感じ。


 なんだか胸がざわざわする。

 光の加減で透明にも見える、不思議な瞳に見つめられているせいだろうか。

 けれど興奮や期待がもたらすものよりも、不安や不吉な予感がもたらすざわめきに似ていた。

「……まだ顔色が悪いね」

 不可解な渦巻きに気をとられていると、男は首を傾いでティティーリアの顔を覗き込んだ。

 わずかに柳眉を歪め、悲愴な顔色を漂わせながら、そっと頬に手を伸ばす。蝋のように白いその手がティティーリアの頬を包んだ。

「――ああ、すまない」

 あまりの冷たさにティティーリアがびくりと身を竦めると、男はすぐに手を離した。

「お座り。蜜水ミードをあげよう――気持ちが休まるから」

 軽く肩に手を添えティティーリアを長椅子へ座らせると、男は傍にあるテーブルから水差しを取った。薄い蜂蜜色の液体が、グラスに注がれていく。

「さあ」

 促されるままにティティーリアはグラスを受け取った。

 縁に口をつけ、一口飲んでみる。ほんのりと甘くとろりとした液体が喉を通り抜けていく。喉がからからだったことにティティーリアは今初めて気が付いた。


――おいしい……。


「よかった」

 心の声を読み取ったかのようなタイミングで男が言った。半分ほど飲んだグラスに蜜水を足し注いでから、水差しを置いて男はティティーリアの隣に静かに腰を下ろした。

「……かわいそうに、随分手荒な真似を。痣になっている。サンジャックには厳しく言ってきかせねば」

 薄く痣のついたティティーリアの首元に目をやり、嘆かわしそうに男が吐息をついた。

 穏やかで聞き心地のいい声。だが、どこか抑揚に乏しく温かみがない感じもした。

「……コレッティ卿を知っているのね」

 一人分の隙間を隔てて座る銀色の麗人を、ティティーリアは見上げた。

「知っているよ、よくね」

 もったいぶるような口振りで、男が緩やかに頷く。

「サンジャックだけでなく、君のこともね。ずっと君を――待っていたんだから」

「どういう、こと……?」

 難解な言葉にティティーリアが顔を強張らせると、白銀色の双眸から微笑みが消えた。

「――かわいそうに、何もわからないんだね……。ひどいものだな。でも変に利口よりはその方がいいのかもしれない。きっと受け入れやすい」

「なんのこと?」

 再び花の香りがした。

 さっきよりも濃厚で、鮮やかな香り。ふいに目の前に密集した芳香が立ち昇り、くらりと眩暈がした。

「受け入れるって……? あなたは――だ、れなの?」

 むせ返りそうな香気が頭の中にまで充満してくる。次々にカーテンをひかれていくように、思考が曇っていく。

「私の名はロジスティ……。スタンリー・レギン・フリストと言った方が聞き覚えがあるかな」

「フリスト――」

 掠め取られそうになる意識を守りながら、その名を繰り返す。

 知らぬはずはない。レギン・フリスト――“栄光を司る者”、その崇高な名を持つ者はこの国でただ一人だけだ。

「まさか――総督……閣下?」

 絶えず真っ直ぐにティティーリアを見つめてくる銀の双眸が、再び優婉に笑んだ。


――顔は見たことがない。


 総督は国民の前に姿を現すことはない。

 官邸であり政所でもある議会堂アラボトからも出ることはなく、裁決を必要とする本議会以外には滅多に姿を見せることもないという。政府の役人ですら、まともに顔を見たことがない者がいるとセイクリッドから聞いたことがある。

 ごく限られた者しか素顔を知ることを許されない至高の存在――位のない者たちにとっては噂で想像するだけの、雲の上の存在。それでも自分たちの生活に不自由がなければ、誰であろうと気にしていなかった。

「皆はそう呼ぶね――。でも、僕は好きじゃないんだ。君にはスタンリーと、そう名前で呼んで欲しいな」

 思いも寄らぬ名に言葉を失ったティティーリアを、スタンリーはふふふと悪戯っぽく笑った。

 スタンリー・レギン・フリストの名を知ったのはいつのことだっただろう。

 兄と二人で街で暮らしていた頃はもちろん知っていた。

 祖母の家にいる時も、家庭教師から国史や政治のことを教わっていた。

 それが初めかはわからない、もっと前のような気もする。ともかく、その名を覚えてから十年以上はたっているのは確かだ。


――まさかこんなに若いなんて。


 ヘルヴォル卿のような老年の、剛健な気風の男かと思っていた。街で行き交う噂は様々だったが、国一つ背負うに相応しい年齢であるだろうと。

 けれど目の前の男は、多く見積もっても二十代後半にしか見えない。

「どうしたの? 幽鬼でも見たような顔をしているよ」

 白皙の美貌に覗き込まれ、ティティーリアははっと我に返って瞬きを繰り返した。

「ほんとに……総督、閣下?」

「そうだよ」ローブの下で足を組み、男――スタンリーは長椅子の背に凭れかかった。

「驚いた? 無理もないね、僕は人前に出るのが嫌いだから、民に姿を見せることはないし、そうするつもりもない。さしあたり、君が特別ってとこだ」

 背もたれに腕を載せて頬杖をつき、スタンリーが妖しく輝く銀色の双眸を細める。そんな何気ない姿勢や仕草一つも、美しい彫刻のように端正で目を奪われる。

「どういう意味か、わかる?」

 囁くように問い掛けられ、首を横に振る。スタンリーの眉がかすかに跳ねた。

「残酷だね、君は――……わたしたちはずっと、君を待っていたのに。ああ、でも君のせいじゃあないか。悪いのは……あいつだ。君のふりをして、わたしたちを騙そうとしたんだから――」

 美しい顔がゆっくりと近付いてくる。鈍く暗い銀色に変化していく目を見つめたまま、ティティーリアは椅子の端まで後図去った。

「いくら君と似ていたって、誤魔化せるはずはないのに。馬鹿だよねえ」

 くつくつとスタンリーが喉の奥で嘲笑う。マスクで口元は見えなくとも、先ほどの微笑みとは打って変わった卑猥な笑い方だった。

「似てるって……」 

 肘掛に背中をぶつけ、ティティーリアは行き場をなくす。

 ざわめいていた胸が、ドクドクと早鐘のように鳴り始める。唇が震え出した。

「それは……兄さんのことなの……?」

 圧し掛かるように、スタンリーの影が迫る。白く長い両手の指が目の前に伸びてきて、ティティーリアの頬を包み込んだ。

「そうだよ、君の兄君――セイクリッドっていったかな?」 

 全身を電流のような冷たい痺れが走りぬけた。そのままティティーリアはがたがたと震え出す。手が冷たいからではない。それは恐怖からだった。

「兄さんに……何を、したの」

「君にとってもよく似た、綺麗な顔をしてた――でもそれだけだったな……中身はたいしたことなかった。もう少しもつと思ったんだが」

「兄さんをどうしたのっ!!」

 両手を振り払い身をよじる。その拍子でティティーリアは床の上に転がり落ちた。

「おやおや、大丈夫?」

 立ち上がって逃げようとする。だがスタンリーの腕の方がそれよりも早く、ティティーリアを抱き起こした。

「はな……してっ!!」

 必死に腕をどけようとティティーリアはもがく。だが、こめかみを突き抜けた激しい痛みに力が抜けた。

「いけないよ、体に障る。無理をしてはいけない……君は“器”になる大切な存在なのだから」

 ぐったりと胸に頭を預けたティティーリアの体を軽々と持ち上げ、スタンリーは長椅子の上に横たえた。

「にいさん、は、どこ」

 痛みをこらえながらティティーリアは不敵な笑みを崩さない男を睨みつけた。長椅子の前に跪き、スタンリーはそっとティティーリアの金の髪を撫で始める。

「――そんなに大切?」スタンリーの口調が豹変した。

「あんな生意気なやつ。……あいつねぇ、僕に言ったんだ。“君に近付くな”って」

 まるで悪巧みを働こうとする子供のような口調。見目麗しい紳士の顔からは想像できない変わりようだった。

「無駄なのにね――君と僕は運命の鎖で繋がれてるんだから。なのに引き裂こうとしたんだよ。だからね、眠らせてあげた」

 邪悪な笑声が耳元に落ちる。全身の血流が凍り付いていくのをティティーリアは感じた。

「会いたい? 兄さんに。それなら、会わせてあげるよ――」

 耳元に触れる位置に顔寄せてスタンリーが囁いた。大切な秘密を打ち明けるように、そっとひそやかに――

 ぞくりと身の毛がよだつ。その瞬間、部屋の様子が突然変わった。


 白い壁が遠ざかり、空間が広がる。天井があった場所からは大樹の幹のような何本もの水晶の柱が突き出し、降り注いでいた光を封じ込めた。


――なに、これ……。


 長椅子は消え、ティティーリアは白い床の上に座っていた。傍らにいたはずの男の姿はない。胸が焼けるような薔薇の芳香だけが、かわらず立ち込めている。


――どういうこと……?


 洞窟のような薄暗い場所だった。辺りには何もない。白い床だけがただただまっすぐに広がっている。

 水の滴る音がして頭上を振り仰ぐ。二本の水晶の柱に挟まれている大きなガラスの砂時計が見えた。だが中にあるのは砂ではなく、薄い琥珀色をした液体だった。ガラスの管を伝って上部へ集められた液体が、下部へと細い管を伝って一滴ずつろ過されているのだ。何本もの細い管は、髪の毛のように垂れ下がり床へと突き刺さっている。


“ここは、女神の薔薇を育てる庭だよ”


 どこからともなく、スタンリーの声が響いた。


“伝説を知ってるだろう? 女神の屍より育まれた、万物に再生と浄化を与える、命の花だよ……”


 今度は背後から。だが振り返った先には誰の姿もない。


“僕は聖地の番人として、この花を守ってきた。絶やさぬように……奪われぬように。だけど、気難しい子でね……好みの栄養と器がないと花を咲かせてくれないんだよ”


「どこにいるのっ……!?」

 耳を塞いでティティーリアは叫んだ。

 薔薇の花などどこにも見当たらないのに、香りはどんどん濃くなっていく。まるで密封した容器の中にいるようだ。

「兄さんはどこっ!?」


“見えないの?”


 幾重にも重なる歪んだ笑い声が、耳元に脳裏に絡みつき侵入してくる。

 噛み付くような薔薇の香りと邪悪な愉悦に理性が奪い去られそうだった。



“君の足元だよ――ティティーリア”




更新遅くなりまして申し訳ありません!しばらく集中的に進めていこうと思っていますので、よろしくお願いいたします。

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