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13 疑惑の薔薇

今回文字数かなり多くなっています。

ご了承くださいませ。以後気をつけます(汗)

「すっかり遅くなったな」

 美しい銀細工の施された懐中時計の蓋を閉めて、マラウクが言った。

 ヘルヴォル邸の門を抜けて馬車は夜道を緩やかに走っていく。見送るように首をもたげ路脇に立ち並ぶ外灯が途切れると、馬車の中にも真夜中近くの深黒が流れ込んできた。

「どうもこの屋敷に来ると長居をしてしまうな。居心地がよくて」

 小さな炎の揺れるランタンの明りが重い夜闇を和らげる車内で、向かいに座るマラウクが吐息をついた。

 カーテンを持ち上げ夜陰の滲む窓辺からティティーリアは遠ざかる門先の明りを眺めた。徐々に見えなくなるその光に名残惜しさが募る。

「……ほんとに。温かくて素敵なご一家だわ。とっても楽しかった」

 素直に言葉が出る。

 優しい温もりの余韻に、まだ包まれているような感覚だった。


 ミトの熱心な招きに応じてティティーリアはマラウクと共にヘルヴォル邸を訪れた。

 ヘルヴォル夫妻は自らティティーリアたちを出迎えてくれた。

 かつて“白獅子”と呼ばれたにふさわしいヘルヴォル卿の貫禄漂う風体は、目の前にしただけで圧倒されるほど迫力があった。

 だが昨晩挨拶もそぞろに退座した非礼を詫びると、「わしも飲みすぎてよく覚えていないからおあいこじゃ」と豪快に笑い飛ばし、畏怖を解いてくれた。

 ヘルヴォル夫人のシエナはミトによく似た美しい女性だった。年はヘルヴォル卿と同じく老境に差し掛かる頃であったが、匂い立つような気品に満ち溢れていた。だが気位の高さや高慢な様子はまるでなく、「会えてうれしいわ」と優しくティティーリアの肩を抱き招き入れてくれた。

 夫人のローストビーフやプディングは文句なくおいしく、とりとめのない会話を弾ませながら終始和やかな雰囲気の中でティティーリアは心から晩餐を楽しんだ。

 シエナを手伝って、ティティーリアは厨房で夕食の準備をした。

 まるで本当の母親と一緒にいるような気がしてうれしかった。居間で寛いでいる三人に準備が出来たことを伝えに行くという些細な言いつけも、誕生日の贈り物を開ける時のようにどきどきした。“家族の団欒”を知らないティティーリアに、ヘルヴォル邸で過ごした時間はかけがえのない、大きな安らぎを与えてくれた。

「……まるで本当の家族のように仲がいいんですね」

 角を曲がり明りが完全に見えなくなってから、ティティーリアは窓のカーテンを押し上げていた手を離した。座席にゆったりと座っていたマラウクが「うん?」と首を起こす。

「ああ、夫妻は俺にとっては本当の親も同然なんだ。ミトとは兄弟みたいに育った」

 皆に料理を取分けながら、夫人はしきりにマラウクの食の進み具合を気にしてあれはどうこれはどうとしきりに勧めていた。

 ヘルヴォル卿は昨夜同様上機嫌で、もう一人の息子が来たからと秘蔵の葡萄酒を持って来させた。だがそれはマラウクの誕生日に開けるのだからだめだと夫人に止められ、ちょっとした口論の末、しぶしぶ諦めて若い酒を舐めていた。 夕食後は応接間で、いつも始まるというヘルヴォル卿の武勇伝を聞いたり夫人のピアノを聞いたりして過ごした。

 ミトとマラウクは木剣を持ち出し、暖炉の前で打ち合ったり技をかけあったりとまるで子供のようにふざけ合っていた。襟元をきちりと正し高雅な立居振舞いを見せた紳士のイメージからはかけ離れた腕白ぶりに、ティティーリアは茫然としたものだ。

「お二人は本当に仲がいいんですね。ミト様って、なんだか大きな子供みたい」

 むきになってマラウクに食って掛かっていたミトを思い出すと、可笑しさが込み上げる。

「あれでも俺より二つ年上なんだ。昔からあの調子さ、変わってない。おじ上やおば上も――幼い頃両親を亡くした俺を、実の息子のミトと分け隔てなくかわいがってくれた」

「……ご両親を」

 馬車が一瞬轍を外れてぐらっと傾いた。天井に吊るされたランタンが波間を漂う小舟のように左右に大きく揺れる。

「父は物心ついた頃に、母も間もなくして。でも不思議と寂しいと思ったことはあまりなかったな。ヘルヴォル家の人たちやベル夫人や家人たちがいたしね。当主の責務に追われて考える暇もなかったっていうのもあるかな」

 わずか十歳にも満たないうちにマラウクはクレイヴランス家の当主になった。だが小さな子供が満足に切り盛りしていけるはずもなく、そのため父親の親友であったヘルヴォル卿が後見人につき色々と面倒を見てくれたのだという。

「クレイヴランスは代々右翼騎士団の総長を輩出してきたが、父は生来体が弱く満足に指揮をとることが出来なかった。ヘルヴォル卿はそんな父を支え周囲の誹謗から守り、最後まで騎士として一生を全うさせてくれたんだ。そして俺に騎士道を教えてくれた。彼がいなかったら、今の俺はいないだろう」 

 本当の父親のような人でもあり――大切な恩人だ。そう言ってマラウクは窓ガラスに映りこんだ自分の顔を、慈愛に満ちた眼差しで見つめた。

「……私も」長い睫を伏せ、ティティーリアは呟くように切り出した。

「私も……小さい頃に両親を亡くしました。顔もよく覚えていないけど……。だから今日短い時間だったけど、家族が出来たみたいでうれしかった。……ありがとうございます、連れてきてくださって」

 何度もしつこく忘れるなよと念を押してミトが去った後、マラウクはティティーリアに「一緒に行かないか」と提言してきた。

 選択権などなかった。彼が何か漏らせばすべてが虚偽と露見する。逃げたくとも従うしかなかった。

 言われるままベル夫人の手を借りて身支度をした。持ち物である飾りのないハイウエストの灰色のドレスに着替え、髪を結ってもらった。動き易さを重視して選んだ質素なドレスはよそ行きには相応しくない装いだったが、ベル夫人が白い花のコサージュを胸に挿してくれたおかげでなんとか格好がついた。

「畏まらなくていいさ。おじ上もおば上もとても喜んでいたし」

 ――マラウクはあの後何一つ追求しなかった。居丈高な態度をとることも不快さを表すようなこともなく、まるで何事もなかったかのように温恭な貴公子の姿勢を守り通した。

「けどミトのやつ、ずいぶんと君を気に入ったみたいだな。名残惜しそうな顔して」

 器用そうな長い指をマラウクが緩んだ口元に当てた。「きっと近いうち、理由をつけて君に会いに行くぞ」

 ヘルヴォル邸を去る間際のことをティティーリアは思い出した。馬車に乗るのにミトは手を貸してくれたのだが、なかなか離そうとしなかったのだ。

「……私を口説きに?」

「そう、絶対そうだ。君はあいつの好みだから」

 極度の面食いだから、とマラウクが頷く。

 話を振るたび、わずかな隙を目ざとく見つけるたびに、ミトは呆れるくらい熱心にティティーリアを褒めちぎった。あれだけ美辞麗句を並べられれば、自分の気を引こうとしていることくらい簡単にわかる。周りにも一目瞭然だろう。酔っていたヘルヴォル卿は差し置くとしても、マラウクもシエナも笑いを噛み潰しているような表情でこちらを見ていた。あれがミトの女性にせまる常套手段なのだろう。

「でもミト様がもてるのはわかる気がします。あれだけ褒められると初めのうちは軽薄で疑わしく思えるけど、だんだん本気にしてしまいそうな気になるんだもの。お話も面白いし、優しくて素敵だし……女性なら誰でも憧れてしまうと思うわ」

「ははは、本人に言ってやってくれ。時に遇ったとすぐに夜這いでもかけにいくぞ。ただし、あいつの親衛隊を敵に回す覚悟があるならね」

「親衛隊?」

「取り巻きの婦人たちさ。伯爵、男爵令嬢を筆頭にマリオン中にごまんといる」

「それは……怖そう。遠慮しておきます」

 笑い声が重なる。

 天井で揺れる小さなランタンの明りが、柔らかい光の輪を落とす。すべてのわだかまりが溶けていくような気がした。

 けれど急に不謹慎な気分になって、ティティーリアは天鵞絨の座席で居住まいを正した。

「……私、あなたに謝らなければ」

「謝る?」

 目にかかる長めの前髪を指先で払いのけ、マラウクはティティーリアを正面から見た。黒髪に映える青水晶の瞳がその先を促す。

「昼間のこと……ずいぶんとひどいことを言ってしまったから。助けてもらったのに、邪推してあんな態度を。本当にごめんなさい」

 晩餐を楽しむ一方でずっと抜けなかった棘。

 あの時、マラウクに助けられていなかったら今頃化け物に殺されていたかもしれない。 

 本来なら真っ先に礼を言うべきだった。感情に走って悪態をつくなど最低である。混乱がおさまり頭の中が冷静になっていくにつれ、どうしてそんな当たり前のことが出来なかったのかと自責の念に囚われた。しかも相手は国有数の名家の当主である。こうして同じ馬車の中で向き合って座っていること自体奇跡のような存在なのだ。

「そうだな、あれは確かに物凄い噛み付きようだった。今まで淑やかな婦人ばかりを相手にしてきたから、衝撃的だったな」

「ご、ごめんなさい!」

 謝ることしか思いつかずに、深く頭を下げてティティーリアはぎゅっと目を閉じた。

 マラウクが掘り返さないのをいいことに、うやむやにすれば楽だったかもしれない。けれど胸のつかえを引きずりたくはなかった。罵倒されても謝るべきだと思ったのだ。だがティティーリアの耳に聞こえてきたのは明朗な笑い声だった。

「いいんだ、俺も悪かった。とっさの判断とはいえ手荒な真似をして怖がらせたのはこっちだ、君が混乱するのは当然だよ。もう気にしなくていい」

「とんでもない! ……クレイヴランス卿が助けてくださらなかったら今頃どうなっていたことか――。だから、謝るのはこちらのほうです。身分知らずのおろか者でした」

「身分なんてただの遺制にすぎない。古い因習にとらわれう旧弊たちには大事だが、そんなもので人を計るべきじゃないと俺は思う。だから畏まられるのは好きじゃないんだ。マラウク、と呼んでくれ。言葉遣いも気にしなくていい」

「でも――」

「いいんだ。家格や階級を気にしていたらまともな話は出来ない。そんなの社交場だけで十分だよ。今ここにいるのは俺と君だけ。ありのままで接してくれた方が俺はうれしい。さっきの見事な啖呵みたいに、自然体で話してくれ」 自己嫌悪のもとを引き出されて、ティティーリアの顔に血が昇る。

「あ、あんなこともうしないわ! ……許してもらえるっていうなら……その、半分でも忘れてほしいわ。いえ、出来るなら全部……」

 熱くなる頬をティティーリアは必死に両手で隠した。

 もう二度と思い出せないように布で包んで捨ててしまいたい。あと二人はゆうに入れそうな車内が、なんだか急に狭く感じた。 

「あの時とは別人みたいだな」

 声をたててマラウクが笑い出す。その笑顔にティティーリアは見惚れていた。


――なんて、きれいに笑うんだろう。


 清らかな風が吹いてくるような、屈託のない澄んだ笑顔。

 端麗な容姿や典雅な身のこなしから滲み出る高貴さは、憧れを抱かせる一方で近寄りがたさも生み出す。“貴族”という特有の枠で囲まれる者たちの存在感は、ただでさえ澄む世界の違いをまざまざと見せつけているように感じられるものだ。

 セイクリッドと二人で暮らしたカイセルの街の権力者一家もそうだった。

 派手な装いや豪勢な暮らしぶりをひけらかし、平民との格差を楽しんでいるようだった。いつも慢心に満ちて、見下すような嘲笑い方をした。それが普通だと思っていた。

「――何?」

 半ば呆然と見つめていたティティーリアに、マラウクがわずかに首を傾ぐ。だがここで目を逸らして逃げてはいけない気がした。 

「……どうして、そんな風に笑ってくれるの? 私はあなたを殺そうとしたのに。私が嘘をついていることもミト様に言わなかった。また命を狙うかもしれないのに、どうして優しいの?」

「しないよ」間髪入れずにマラウクが即答した。

「君はもう、そんなことはしないよ。ミトに黙っていたのは、君が危害を加えるような真似をしないと思ったからだ」

 首元に指を差し込んで、マラウクはクラヴァットを軽く緩めた。そんな些細な動作も導くように目線を惹き付ける。

「どうして……そう思うの?」

「だって」窓辺に肘を預け、マラウクは頬杖をついた。

「君はまっすぐだから」

 その言葉は止める間もなくまっすぐに落ちてきて、ティティーリアの感情の機微に触れた。急に目の前が霞んで、ティティーリアは顔を俯けた。

「俺を殺そうとしたのは兄さんのためだろう? 本当に、兄さんが大切なんだな。俺には家族がいないから、そうやって純粋に誰かのために必死になれるのはうらやましいよ」

 みるみるうちに胸元の白い花が滲んでいく。零れ落ちそうになるものをこらえようと、ティティーリアは震えかけた唇をぎゅっと引き結んだ。


『君はまっすぐだから』


 何気ない一言。上流社会で社交辞令や建前に慣れたマラウクにとっては優しい慰めはありきたりのことなのかもしれない。 だがその小さな言葉は枯れた泉を生き返らせる一滴の煌めく白露のように、ティティーリアの胸にじわりと染み込んできた。

「でも私は……本当にあなたを殺すつもりだったの」

 熱くなった目元をティティーリアは素早く拭った。

「それで兄さんが戻るなら……仕方ないって。純粋なんかじゃないわ。誰かを犠牲にして自分の望みを叶えようだなんて」

「君はコレッティに利用されただけだ。君のせいじゃない。だがあいつに従えば、君の手に残るのは罪だけだ。兄さんが戻ってくることは……ない。君が関わっている問題は、君が思っているよりも複雑で厄介なんだ」

 頬杖を外したマラウクの表情に翳りが差す。わずかに唇を噛み締め沈思するように動きを止めたかと思うと、引き締まった真剣な面持ちになった。

「唐突すぎて理解しがたいのはわかる。だがこのままコレッティの側にいるのは危険だ。一刻も早く離れるべきだ」

 やがて、表の暗闇の濃度が徐々に淡くなり始めた。

 馬車はコレッティ邸の門へと続く整備された並木道に差し掛かっていた。起伏の少ないなめらかな道の上、蹄の音が速まっていく。カーテンの隙間にちらっと目を走らせ、急くようにマラウクは続けた。

「聞きたいことは山のようにあるだろう。だが今はとにかく俺を信じて行動して欲しい。詳しい話はそれからだ。君には必ずすべてを打ち明けると約束する。だから俺を信用してくれないか」

「それは……兄さんの事件に関わる話なの?」

「そうだ」

「あなたに従えば、兄さんに会えるの?」

「――俺は君の味方だ。信じてくれ」

 深海色の輝きが迫る。張り詰めた気配に満ちているせいか、その眼差しには真摯さに比肩する切迫感があった。

「でも……いったいどうすれば?」

 取引を条件にティティーリアはコレッティに身請けされたのだ。もし今黙って屋敷を出たならば、追っ手がかかるかもしれない。

「そうだな」ちらちらと差し込む並木道の外灯の光が、マラウクの目の中を素早く過ぎっていく。

「俺が君に一目ぼれしたとでも。今夜口説かれて、それに乗ったとでも言えばいい」

「そんな理由で通用するの? 一筋縄ではいかない相手だわ」

 ゲオルグの、研ぎ澄まされた剣先のような鋭く細い目をティティーリアは思い出した。あの目からは逃げられない。どこへ行こうとも。そんな気がしてならなかった。

「大丈夫だ。標的の懐にすんなり飛び込める好機を得たと言えば快諾するさ。怪しまれたとしても、その時は俺が直接出向けばいい話だ。――これを」

 確信しているようにそう断言し、マラウクは隊服の袖から外したものをティティーリアに差し出した。

 渡されたのは、薔薇を象った銀のカフスボタンだった。花びら一枚一枚忠実に再現した手の込んだ細工で、中心部には小さなクリスタルがはめ込まれている。

「それは“下賜の花”だ」

「……下賜の花?」

「そう。“誓いの薔薇”とも言う。騎士爵を授与された者には象徴花を身につける権利が与えられる。生花は枯れてしまうからな、持ち物に刻むんだ。疑われたそれを見せればいい。騎士道には古くから、心を捧げた相手に思いの証として誓いの薔薇を預ける習いがある。二つとないものだ、いい目くらましになる」


――誓いの、薔薇。


 手の中の作り物の美しい花を、ティティーリアは一つの疑念を宿した眼差しで見つめた。



 開かれた門の中へ馬車が入っていく。

 そして前庭の花壇の周りを大きく一回り込み、やがて玄関前に辿り着いた。





「お帰りなさいませ」

 燭台を手に出迎えた従者に目も留めず、ティティーリアは足早に玄関ホールを抜けた。扉一枚隔てた先にある、緩い螺旋を描く大理石の階段を急いで上る。そして三階に着くと汚れ一つない象牙色の毛氈の上を走り出した。

 幾つもの似たような扉を過ぎて南奥に位置する自室の扉の前で立ち止まり、ティティーリアは両手で戸を押し開けた。

 窓辺へと突き進み、薄紗のカーテンの引かれた窓辺近くの丸テーブルの前で立ち止まる。青白い月華が舞い降りる小さなテーブルの上には、ガラスケースに入った一輪の白い薔薇が白銀の粒子を零して淡く輝いていた。


「――帰ったのか」


 はっとしてティティーリアは背後を振り返った。

 回廊の明りの滲む部屋の入り口に、昏黒の長衣を着た男が、まるで気配のない影のように佇んでいた。

「大事な従姉妹をこんな遅くまで勝手に連れ出しておいて、挨拶もなしに帰るとは非常識だな、クレイヴランスは。不敬罪で訴えようか」

 ククク、とゲオルグが低く喉を鳴らす。暗がりでよく見えないが、その顔には皮肉めいた笑みが浮かんでいるのだろう。

「それで、いったいどういうわけだ? クレイヴランス邸からの使いの伝言はさすがに意表外だったぞ。まさか惚れでもしたか」

「違うわ」

 踏み越えてはいけない境界線を挟んでいるように、暗黙の距離を保ったままティティーリアは言下に否定した。

「クレイヴランス卿は、アローザの街で襲われた私を助けてくれたのよ。それでお屋敷で介抱してくれたの。……そのまま成り行きでヘルヴォル卿の晩餐に」

「アローザに行ったのか」しらじらしくゲオルグが驚いたような声になる。

「それで、誰に襲われたというんだ?」

「――“イーター”という化け物によ」わざと強調するように、ティティーリアは語調を強めた。握り締めている左手に力を込める。

「マリードに会っている最中に、突然襲い掛かってきて――マリードは殺されたわ」

「イーター? ああ、昼間の騒動か。あれに巻き込まれたというわけか。だが妙だな――死者が出たという報告は聞いていないぞ」

「なんですって?」

 近付くことを拒絶して踏みとどまっていた足が一歩前に動いた。

「怪我人が出たという話も聞いていない。城下はアウストリの管轄だが、報告だけは受けている。被害は廃屋の倒壊ということだけだったが?」

「そんなはずないわ!」

 髪が解けそうなほど強くティティーリアは首を横に振った。

「この目で見たのよ、黒い化け物がマリードに飛び掛るところを!」

 今でも思い出すと肌が粟立つ。血溜りのような真紅の目、大きく裂けた口。異形の化け物の顔があの時の戦慄を呼び起こす。

「だが報告書にはなかった」長靴の足音がゆっくりとティティーリアに近付いてくる。

「じゃあ誰かが隠蔽しようとしてるんだわ。彼が政府にとって邪魔なラジエラ派の幹部だから? それとも兄さんの事件のことを知っているから? だから目撃した私も始末しようとしたのね」

 気配が近付くにつれ輪郭が露になる。真夜中近くだというのに、ゲオルグは一糸乱れぬ軍服姿のままだった。

「つまらん憶測だ」

 ティティーリアの横を通り過ぎ、硬質な軍靴の音が止まる。カーテン越しに見える月を背に、白手袋をした手を後ろで組んでゲオルグが振り返った。

「クレイヴランスに何を吹き込まれた?」

 温度を排した冴え冴えとした声が問い掛ける。冷気に撫で回されたようにぞくりとティティーリアの背筋が震えた。 

「素朴な疑問よ。あなたには謎が多すぎる。なぜクレイヴランス卿の命を狙うのか、私にその役目を託したのか……聞かなくていいことだと思っていたけど、事態はどんどん複雑になって、手に負えなくなっていくみたい。あなたは兄さんを助けると約束した。でも始めから私に嘘をついていたわ」

「……何の話だ」

「この花は何? 下賜の花なんて嘘ね」

 ゲオルグをきっと見据えて、ティティーリアはテーブルの上のガラスケースを指差した。

「“誓いの薔薇”は自らの持ち物に刻む刻印だと聞いたわ。枯れてしまう生花は、不変の忠誠を誓う証には不向きだと思わない?」

 月光を浴びて一層冷感を帯びたゲオルグの目元がぴくりと動いたのを見取って、ティティーリアは銀色の薔薇を握りしめていた左手を突き出した。

「……それは?」

「“誓いの薔薇”よ。クレイヴランス卿から預かったの」

「やつがお前に? ククク、うまく取り入ったものだな」

「はぐらかさないで。どうしてこれが誓いの薔薇だと偽ったの」

 左手を出しだしたまま、ゲオルグを睨みつける。ゲオルグの薄く開いた唇の端が緩く裂け上がった。

「――金で買われた分際でオレを尋問しようとはいい度胸だ。確かにそれは下賜の花ではないが、総督から拝領した貴重な物だ。それこそ誓いの証と同等の価値を持つ、な」

「同等の価値? ――そう」

 その言葉にふっと目元を和らげ、ティティーリアは一歩後ろに足を引いた。そして楕円形のガラスケースの上に白く細い手を載せた。

「じゃあ、この花が枯れてしまったらあなたの名誉に傷がつく?」

 小首を傾げティティーリアはふふ、と笑った。緩んだ結い髪が一房、艶かしい螺旋を描いて肩に乱れ掛かる。少し首を揺すれば、蜜色の長い髪は完全に解けて背中に流れ落ちた。

「俺を脅すつもりか?」

 鼻先でゲオルグが嘲笑う。かつて客であった男たちに求められたように蟲惑的な微笑みを浮かべ、ティティーリアは赤い唇を開く。

「だって、不公平でしょう。私は少しでも希望があるならと、あなたに従った。それが人殺しでも仕方ないと思ったわ。けれどあなたは初めから私を欺こうとしていた。それが例え小さな嘘だって、不信感を抱くには十分だわ。――私には何もない、身分も財産も帰る場所も。お金で買える存在、だから使い捨てには便利よね。でも私にだって譲れない思いがある。一方的に利用されるだけの人形になんかならない!」

 微笑みを打ち消し、強い意志を宿した瞳でゲオルグと対峙する。

 こうして力の差が歴然とした相手に歯向かうことが賢い選択ではないことはわかっていた。だがこのまま流れに身を任せるよりも、もがいてでも溺れても望む岸に辿り着きたい。どうせ何も持たぬ身なのだーー怖くはない。

「逆らってどうする気だ? 一体何が知りたい」

 唾を吐くようにゲオルグが言い捨てた。

「この花……聖域でしか咲かないと言っていたわね。マリードも聖域の話をしていた。あそこには秘密があるって、兄さんはそれを調べていたって。この二つの話はどこかで繋がるんでしょう? 大切な贈り物を失いたくないなら答えて。兄さんはどこ!?」

 ガラスケースに載せた手にティティーリアは力を込めた。そして動揺を誘うつもりでケースを持ち上げようとする素振りを見せた時だった。


「――――小娘が……!!」


 ゲオルグの目からすうっと光が消えた。それに気付いた次の刹那、ティティーリアは物凄い力で首を掴まれた。

「う……っく……!」

 風圧を受けたように足が浮きかけた。呼吸が塞き止められる。ゲオルグの白手袋をはめた手が震えるほど強く、ティティーリアの細い首をぎりぎりと締め付ける。

「そんなに兄さんに会いたいか」

 血走って熱を帯びた凶器のような双眸が近付いてくる。今まで見たこともないほど恐ろしいゲオルグの形相に、もがくことも出来ないままティティーリアは目を見開いた。

「なら会わせてやろう――」

 掠れて渇いた低い響きに耳元を撫で上げられた直後、首を掴まれたままティティーリアは力任せに床に引き倒された。

 そして床に強く頭を打ちつけ、意識を失った。






「……そこにいるか」

 引き攣れた息を慎重に吐き出しながら、ゲオルグは床の上で倒れたままの少女を見ながら低音で呟いた。

 その呼びかけに、部屋の入り口に寄りかかっていた影がゆらりと身を起こした。落ち着いた足取りで漆黒から抜け出して来たのは、ロジスティ州では馴染みのない深緑の上着に身を包んだ一人の青年だった。ゲオルグの側で止まると、青年は速やかに膝を折り左手を胸の前に頭を下げた。

「……あいつのところへ運べ、ローグ」

 落ちて乱れた前髪を指先で後ろへ撫で付けて、ゲオルグは横目を跪座する青年に投げた。

「よろしいのですか?」

 躊躇を載せた精悍な黒い瞳が、主人である男を見上げる。

「構わん、いずれそのつもりだった」

 ローグに背を向け、純白の薔薇を守るガラスケースの前にゲオルグは立った。

 悠久の光彩を放つその花を虚ろに眺め、手を伸ばす。

「……筋書き通りにいかぬものだな――運命とは」

 

 そっとガラスに指を滑らせ、ゲオルグは何かを畏れるように震える呼吸を噛み潰した。

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