12 二人の貴公子
「一瞬、天使が舞い降りたのかと思ったよ」
太陽の光を紡いだような美しい金髪をかきあげて、ミト・スヴァンフヴィート・ヘルヴォルは向かいの長椅子からにっこりと微笑んだ。
「ごめんなさい……私の不注意で」
思い切り下敷きにして倒れ込んだ気まずさからティティーリアは俯いた。
「あはは、気にしないで。こんな美人に抱きつかれるならいつでも大歓迎だよ」
いかにもプレイボーイらしい陽気な雰囲気を漂わせ、ミトは青い天鵞絨張りの長椅子に寝そべるようにしてくつろぐと、白い長靴下の足を組んだ。
そんな無作法で怠惰なポーズも様になって見えるのは、おとぎ話の王子のような眉目秀麗さゆえだろう。本来は硬い印象のはずの軍服姿も、レースのカフスのついたシャツや刺繍入りのクラヴァットの演出が加わり、まるで華やかなパーティ衣装のようだ。
「でもまさかこんなところで“噂の美女”に出会えるとはね。昨夜の晩餐会は麗しきルイーゼ・エレディア・ケルナー嬢の話でもちきりだったんだよ。途中で帰ったと聞いて残念に思っていたんだけど……運がいいな。どうやって誘惑したんだい、マラウク?」
ティティーリアにウィンクしてみせ、ミトは応接室の窓辺に立っている館の主人に視線を流した。
「……勘違いするな。街で眩暈を起こして倒れたところに偶然出くわしたんだ。お前じゃあるまいし、そんな礼儀知らずな真似はしない」
不機嫌そうな声音でマラウクが答える。振り向く素振りもなく、窓の外を見たままだ。
「はーん。相変わらずお優しいね。でも僕たちの周りには打算的な女性が集まる傾向があるからねえ。親切もほどほどにしておいた方がいいよ」
「――失礼だぞミト。ルイーゼ嬢が気分を害されるだろう」
ちらりとマラウクがミトを横目で一瞥した。
「おっと」
裾にふんだんに刺繍の入った奢侈なクラヴァットをふわりと放し、ミトが起き上がった。
「もちろん君のことじゃないよ。なんたって君はコレッティ侯爵の従姉妹殿、打算なんて必要ない。これほどの美姫なら、こっちからお願いしたいくらいだしね」
白皙の美貌が甘く微笑む。娼館で何度も口説き文句を受け流してきたティティーリアでも、じっと見つめる深緑色の双眸の誘惑には思わず引き込まれてしまいそうだった。
――運悪くティティーリアが廊下でぶつかったのは、昨晩の晩餐会の催主であるヘルヴォル卿の嫡男のミトであった。ひとまず隣の応接室へ、と通された後、マラウクは右翼騎士団の第一騎兵隊の隊長で幼なじみだとティティーリアに紹介した。帝都一の浮気者だと付け足して。
「そんな……私はただの無礼者でございます。ヘルヴォル卿のご子息とは知らずに」
先ほどの混乱もおさまり、ティティーリアはすっかり我に返っていた。冷静さを失い狂態を演じた愚かさに、羞恥で顔が熱くなる。夜着のまま紳士二人の間にいることも気になるところだったが、それを上回る気まずさだった。
「姫君を受け止めるのは騎士の役目、お安い御用さ。いつだって引き受けるよ」
まるで芝居の台詞のように、ミトの言葉は甘い。こうした誘い文句はお手の物なのだろう。そこに魅惑的な微笑みが添えば、一夜の相手にと口説くのも容易に違いない。ミトの持つ華のある洗練された雰囲気は、婦人たちが憧れる騎士像そのものであるように思えた。
「そのくらいにしておけよ、ミト。ルイーゼ嬢が困っているだろう。それに婦人を口説くなら、隊服を脱いでからにしろ。これ以上浮名を流して規律を乱さないでくれ」
隊務よりも恋の駆け引きに熱心な親友を、マラウクの目が冷やかに振り返る。釘を刺されて、はいはいと口先だけの返事をすると、ミトは再び長椅子に体を沈めた。
「カタいなあ、君は。まったく一言目には規律だの礼節だのだもんな。忠実というか、堅物というか、でもそこが父上のお気に入りなんだけど。けど女性たちには生憎不評みたいだね。昨夜、うちのグラスハウスでどこぞの令嬢と何か揉めただろう」
ミトの言葉に、ティティーリアはぎくりと身を固めた。
グラスハウス――それは昨晩のあの場所だ。逃げることに夢中になって忘れていたが、外に飛び出す時に入り口でぶつかった相手――あれはミトだったのだ。
「暗くて顔は見えなかったけど、ただならぬ勢いで飛び出して行ったよね。君は色恋沙汰に関しては鈍感な節があるからねえ。想いを打ち明けたけど見事玉砕して居た堪れなくなって立ち去ったんだろう、彼女。いったいどんな言い方をしたんだか」
今度はミトが胡乱な目付きをマラウクに送る。ティティーリアは息を呑んだ。
「――揉め事だと決め付けるなよ。そんなんじゃない」
「ああ、失敬逆だった? 君が無理強いして拒絶されたとか? へえ、君に迫られて逃げる女性もいるんだな。僕よりモテるくせに。――て、そんな怖い顔で睨むなよ。ほんの冗談だろ。何ピリピリしてるんだよさっきから」
「――別に」
そっけなく返し、マラウクは再び窓の方を向いた。
――よかった……。
ティティーリアはそっと安堵の息を漏らした。だが妙に落ち着かない気持ちだった。
偽名だと知りながら、マラウクはティティーリアを“ルイーゼ”としてミトに紹介した。
どういうつもりなのかはわからない。油断させて後々追い詰めるつもりなのかも――今にも切れそうな糸の先にぶらさがっているような不安定な心地だった。
答えを求めようとしているのに、日に日に謎ばかり増えていく。
どこに真実があるのか、誰を信用していいのかわからない。用心しなくては。けれど気を張る一方で、ティティーリアは後ろめたさを振り切れないでいた。
「さっきのルイーゼ嬢の様子もずいぶん切羽詰まった感じだったけど。何があったのさ」
ミトが不思議そうに首を傾げる。
「あれは――」
答えようとしたものの口実がない。言い訳を探してティティーリアが戸惑っていると、
「――従者とはぐれた時に気分を崩されて俺がここへ運んでしまったから、きっと探しているだろうと迎えに行こうとなさったんだ。先に伝えるべきだったな。従者にはきちんと知らせておいたから心配ないと」
マラウクが空白の答えの先を事も無げに継いだ。
「へえ、召使をそんなに心配するなんて優しいんだね。僕は君が粗相したのかと思ったよ」
ミトが緑柱石のような瞳をわずかに瞠った。
“従者”とはローグのことだろうか。頑なに窓硝子と向き合ったままのマラウクの後ろ姿をティティーリアはそっと見た。
応接室に来てからのマラウクのすげない応対の原因は、おそらく自分にあるのだろう。だがどうやらミトにばらすつもりはないらしい。ここは助け舟に素直に乗るべきなのだろう。
「いいえ、私が一人で慌ててしまったのです。クレイヴランス卿の非ではございませんわ。本当にとんだご迷惑を……申し訳ありません」
「まあいいじゃないか。そのおかげでこうして運命的な出会いを果たしたんだし。ね?」
空気を和ませようとしているのか単に下心か。言葉遊びに興じているようなミトの台詞に、ティティーリアはとりあえず「ありがとうございます」と微笑で返した。
「でもねマラウク、僕はやっぱり関心しないな」夕景が滲む窓辺に視点を移した途端、ミトの声色が剣呑を帯びた。
「軍廷を抜け出して単独行動は。街で何をしてたんだい? 巡察は従騎士の任務だっていつも言ってるだろう。君は右翼騎士団の総大将なんだから、そんな汗臭い仕事は他に任せて涼しい顔して執務室の椅子に座ってりゃいいのさ」
「……小言を言いにわざわざ来たのか? そういう言い方はよしてくれ、俺は騎士団のお飾りだと思われたくない。それに今日は私用で外出したんだ。すぐ戻るつもりだった」
詰り口調につつかれて、マラウクがため息混じりに体ごと振り向いた。瞬時にミトが立ち上がる。
「だったら一言言い置いていくのが常識なんじゃないの? 君は昔から個人主義的なところがあって困るよ。非番だってのに管轄で騒ぎがあったって呼び出されて軍廷に行ってみれば、僕の隊はすでに君の要請で借り出された後だし、でも執務室は空だし、君の補佐官は知らないって言うし!」
両腕を組んでマラウクの前に進み出る。立腹を示す幼なじみに対し、マラウクは少しも平静を崩さずに腰元に手を当てた。
「ディーンには話したよ。街で諸用を済ませて一旦家に帰ると」
「あっ……の鉄仮面ヤロウ〜〜! なんで僕に黙ってるんだよ! 先にここに寄ったからよかったものの、無駄骨折るところだったじゃないか! 平民出の礼儀知らずめ! ほんとにあいつ使えるのか!?」
両手に拳を作り、ミトが足を踏み鳴らす。マラウクがにや、と唇の端を引き上げた。
「私的な用事だと言ったから、気遣ってくれたんだろう。知ったらお前が乗り込んで行くと思ったんだよ、こうしてね。ディーンは優秀だよ。無口で無骨なところもあるけど恬淡で正直だし、――何より上官への思いやりがあって口が堅い。いい補佐官だろう?」
「どこがっ! 何であいつを褒めるんだよ! 僕は君のこと本当の弟だと思っていつも心配して、だからこうして探しに来たってのに!」
憤慨するミトの声が青を基調とした瀟洒な応接の間に響く。
――おかしな二人……。
並ぶと一層絵になる二人のやりとりを静観しながらティティーリアは思った。
今にも剣を抜きそうな剣幕のミトに対し、マラウクはそれを面白そうに眺めている。
さっきからどちらかが悪態をついては口喧嘩のような応酬を繰り返す二人だが、危うい気配は感じられない。むしろ釣り合いがとれているように見えるのが不思議だった。
「さっき僕に規律を乱すなって言ったけど、そっくりそのままお返しするよ。君も勝手な行動は控えなよ、右翼の面目のためにもね! ただでさえ左翼騎士団のやつらには見下されてるんだから」
マラウクの鼻先に、ミトが右手の人差し指を突きつけた。
「左翼のことは気にするな。こちらとはもとから体質が違うんだ」
「そうだけど! 鼻持ちならないんだよあいつら。総督の腰巾着めっ」
指を引っ込め、ミトがくるりと踵を返す。むすっとしたまま椅子に戻り、肘置きにどっかりと足を置いて寝そべる。ティティーリアのことなどすっかり忘れているようだった。
「もうすぐ聖旬節を祝う祭があるだろう。総督の私宴の手配で堂々と双薔街に入れるからってさらに図に乗ってるんだ。公娼地といえども僕らの身分じゃ迂闊に近づけない場所だってのに、ずるいと思わないか!?」
かつて身を置いていた場所の名に、ティティーリアは思わず視線を下げた。自分のことを言われたような気がしてしまうのは、まだあの場所に囚われかけているからであろうか。
「結局そこか、お前が気にしてるのは」
苦笑するマラウクにむうっと眉根を寄せ、ミトは磨き抜かれた自分の靴先を睨んだ。
「君は総督に招かれるからいいよな。せいぜい楽しめよ、ヴェストリの“蛇”と」
そう言って「あっ」とミトが口を押さえた。そして慌てて飛び起きる。
「ご、ごめん! いつものクセで!」
「え?」
急に謝罪されてティティーリアは首を傾げた。マラウクが声をたてて笑い出す。
「バカだなミト。そんな風に言ったらバラしてるようなもんじゃないか。“蛇”とは君の従兄弟殿のことだって」
――蛇?
「それは……ゲオルグのこと?」
しまった、というようにミトが片手の平で顔を覆った。そして叱られた子犬みたいに肩を竦めて、上目遣いにティティーリアを伺う。
「ごめんよ、気を悪くしたよね? でも黙っておいてもらえると助かるんだけど〜〜」
思わずティティーリアは吹き出した。下手な人形遣いが操るマリオネットみたいにあたふたし出したミトがおかしかったのだ。
「言いませんわっ……ふふっ、大丈夫。だって、確かに似てるもの……!」
引き攣りかけていたミトの表情がほっと和らいだ。
「あ〜よかった、助かるよ。でも君、笑うと印象が変わるね」
「ご、ごめんなさい」ティティーリアははっとして口元を押さえた。
「違うよ、悪い意味じゃなくて。すごくかわいいってこと。見惚れちゃいそうだ」
再びミトの言葉の遊戯が始まりかけた時、ノックの音がして応接室の扉が開いた。
「まあまあ、楽しそうですわね。表まで笑い声が聞こえましたわよ」
ポットやティーカップを載せたトレイを手にベル夫人が現れた。その後ろから空中をふわふわと漂ってブランカが入ってくる。
ティーセットを二つの長椅子の間にあるテーブルの上に降ろすと、ベル夫人は手際よく三つのティーカップにお茶を注いだ。
「ご気分がよくなってきたようですわね。さあ召し上がれ、温かいうちに」
卵型の小さな顔を綻ばせて、ベル夫人がティーカップを差し出す。ありがとう、と受け取れば、白い湯気と優しい香りがティティーリアをふわりと包み込んだ。
「ありがとう、ベル夫人。そうそう、これを飲みたかったんだよ。あなたの淹れる紅茶は絶品だからね。母上もいつも言ってるよ、うちの召使にも見習わせたいって」
「まあまあ、うれしいですわ。でもシエナ様のお作りになるタルトには及びませんよ」
親しげにミトと言葉を交わし、ベル夫人は最後のティーカップをマラウクの元へ運ぶ。
「ミト、いつまで油を売ってる気だ? 隊長のお前にも出動命令を出したはずなんだが」
香りを楽しみながら紅茶を味わっていたミトの手が止まる。
「……わかってるって、これを飲んだら行くよ。ああっ、そうだ言い忘れてた!」
薄手の繊細な磁器製のカップをソーサーに戻し、ミトはそれを長椅子の上に置いた。
「母上が今晩、君を夕食に誘えって。久々に腕を振るうつもりらしいよ」
「今夜?」紅茶を一口飲みつつ思案するマラウクにベル夫人が諭すように言う。
「旦那様、行ってらっしゃいまし。近頃お帰りが遅くてろくにお食事もなさっていないじゃありませんか。今夜くらいは皆様とごゆっくりなさっては? ご夫妻も喜びますわ」
「そうだよ。君、昨夜もお開きになる前に仕事があるって戻っただろう。母上が心配してるよ、最近顔も滅多に見せないって。まさか断らないよな。君の好物だからって、母上が丹精込めて焼いたミートパイを無駄にする気? 決まり、二時間後に家でな。あ、よかったルイーゼ嬢も一緒にどうかな? 父もまた会いたがっていたし、話し相手が出来れば母も喜ぶ。へ……違う、コレッティ卿のお許しが出ればだけど――ったあ!?」
ミトが顔をぱっと輝かせた時、部屋の中を浮遊していたブランカがミトの後頭部に勢いよく突進したのだ。
そのまま衝撃に押されて前屈みになったミトの上を飛び越え、ブランカはティティーリアの膝の上にちょこんとすました様子で降りた。
「こっ……のバカウサギ〜〜!!」
わなわなと口元を震わせて、ミトが顔を上げた。つん、とブランカが顔を背ける。
「何なんだよ、お前はっ! それでほんとに女神に仕えた神獣の末裔なのか!? 僕にはただのチンケな毛玉にしか見えないんだけどね! うわぁっ!」
ティティーリアがあっと声を上げた時にはもう、ブランカはミトの顔に飛び掛っていた。
「いてっ、引っ掻くな! 僕の顔に傷をつけたら丸焼きにして食ってやるからなっ! おいマラウク、ちゃんと躾とけよなっ。こいつ毎回僕を目の敵に……耳をかじるなっ!」
払い除けようとするミトの腕をかいくぐって、ブランカがちょこまかと動き回る。しまいには長椅子を離れて奇妙な取っ組み合いが始まった。
「お前がいつも邪険にするからだよ」
親友の窮地もどこ吹く風で、マラウクは優雅にティータイムを続けている。
「あらまあはしゃいで。ブランカはミト坊ちゃんが大好きなんですよ」
ベル夫人も笑っている。どうやらいつものことらしい。
「ふふっ」
長椅子の上に取り残されたティーカップを見てティティーリアは緩んだ口元を押さえた。小さなブランカ相手に大人気なく本気になっているミトの姿に、急に緊張の糸が解けて笑いが誘われる。
くすくすと笑っていると、マラウクと目が合った。優しく見守るような柔らかい眼差し。先ほどまでの険を含んだ空気は、まったく感じられなかった。
――なんだか、負けたみたい……。
気恥ずかしさに俯き、ティティーリアは膝の上に置いた手付かずの紅茶を見下ろした。
夕日に似た琥珀色の液体に映り込む自分と目が合う。
その表情がなんだか泣きそうに見えて、ティティーリアは慌ててティーカップを持ち上げた。